Seventeen
「――だから、この途中式で何でこの答えになるんだよ。これじゃ答えは17になるだろ」
「でも俺の答えは4だ。正解じゃないか」
「だからこれで答えが合うのがおかしいんだって。たまたま答えが合っただけなんだ」
「ケースケェ……」
「何だ? 何々……お前、Q=IVtって公式くらい覚えてろよ」
赤点対策勉強会――略して「赤勉」。テスト後の僕達3人の日課だ。もっとも僕はユータ、ジュンイチの教師兼見張り。
ユータの家は、川越から電車で20分程のところにある所沢市の輸入家具屋だ。自宅もそのセンスが光り、芸能人の御宅訪問と見間違うようなほどのお洒落で広々した空間だ。大抵勉強会はここで開かれている。
いつものことだが、初日の二人の手ごたえというのは、ザルで水を汲むような感覚だ。もう理解しているのかもわからない、という以前に、何がわからないのかもわからない、といった具合だ。自分の病状を自分で把握できず、わかっていても説明できない子供を相手する小児科の医者なんかは、診察中にこんな気分だろうか。
二人とも数学B、数学Ⅱを落とし、ジュンイチはそれに化学、ユータは物理と古文を落としていた。二人の落とす教科というのは大体想像がついていて、何を教えるべきかも、20点も取れていないテストの答案を見れば大体わかる。だから僕は事前にそれを見て、簡単な勉強計画を既に考え、簡単な問題をあらかじめ作って実践的に教えている。
ユータの部屋は10畳もあるが、それでも3人が入って勉強するには机がないので、借りているリビングに、二人の重苦しいうなり声が響く。北欧風のごつい外観だけど、きめ細かい細工の光る木製のテーブルに、二人は並んで座っている。僕はその向かいで本を読んでいて、声がかかるまで待っているスタイル。
「出来た」
ユータはあくびをしながら僕に指定された古典の全訳を見せる。
「助動詞は無視するなって言ってるだろ。ぞ、って係助詞があったら、係り結びで反語になるとか考えなきゃ」
僕は自分の赤ペンの尻で本文を指す。
「全然ダメだ。出来た、って言うのは、文の大意をつかめて初めて言え。やり直し」
僕はそう言いながら赤ペンで添削した答案を突き返す。
「はぁー? もう嫌だ……もう何でこんなものやんなくちゃいけないんだよ」
「……」
僕は鼻から息を吐く。
「あぁ……俺、この先大学とか行けるのかなぁ」
「お前じゃ親を説得して、プロに行った方が簡単だな」
ジュンイチが横から口を挟んだ。
「そうなんだよなぁ。俺勉強なんかしなくてもいいんだよなぁ」
「せめて卒業はしろよ。留年した挙句、中退してのプロじゃカッコ悪いだろ」
「う……」
一瞬調子に乗ったユータの表情が曇った。
「まったく……ケースケ、もうちょっと優しい言葉をかけてくれても……」
「テストで100点取れたら、ほっぺたにチューしてやろうか?」
「――お前に何かを期待した俺が馬鹿だったよ」
大体始めて3日間は、こんな感じ。開いた口がふさがらないような説明に、二人の厭戦気分も甚だしい。大体3時間もすればダウンしてしまうが、この後やるサッカーゲームで、今度は僕がメチャクチャにやられてガス抜きされる――というのが、いつもの行動パターンだった。
「てか、何で授業サボりまくってる奴に、俺達はこんなボロクソ言われてるんだ」
「何であんな学生らしからぬ生活の奴が優秀なんだ。不公平だ」
「ったく、あんなグータラ学生に、神様は無駄な才能与えやがって」
二人は答案に向き合いながら、まだぶうぶう言っている。
「ごちゃごちゃ言ってないで、問題に集中しろ」
僕は赤ペンで受け取った古文の全訳を添削して、もう一度ユータに突き返す。何処かの通信教育じゃないが、赤ペンで既に訳は真っ赤になっている。
しばらく受け取っては添削し、問題箇所の復習をさせる、その繰り返しだった。
「……」
二人とも、僕の添削した問題をもう一度やり直している。額に手を当てて難しい顔をする。こいつらのこんな顔、学校じゃまず見られないだろう。僕が携帯を持っていたら、きっと写真を撮っていただろう。
あぁ、平和だな。
小学校時代のことを思い出した直後にこいつらを見ていると――妙に和んでしまう。もしかしたら、こんな奴らが小学校にいてくれたら、僕は今とはまったく別の生き方をしていたかもしれない、なんて、そんな想像をしてしまう。
「そういえばさ」
数学の問題を前にしていたジュンイチが、椅子に座ったまま伸びをした。
「俺達、このままじゃ大学は、一緒になることは、まずないな……」
その言葉に、僕達も一瞬ショックを受けて固まった。
「――まあ、そうだろうね」
僕はやや遅れて同意する。
考えないようにしていた、というよりも、今まで話題にもならなかった未来の話。こいつらはこうして明日のテストの結果もわからない、根無し草のような性分だから、まだそういうことまで考えていないだろう、と、勝手に解釈していたから。
「俺は大学に行くかどうかさえ決めてないけど」
ユータは頭をかく。
「俺は大学希望だけど、今から血ヘド吐くほど勉強しても、ケースケと同じ大学は行けそうにないしな」
ジュンイチは若干自嘲気味に、力なく笑った。
「お前もサッカーで来ればいい」
「無理無理。だってお前、東大か何処か知らないけど、学費の安い国立志望だろ?」
「――そうか、お前はもう国立は諦めてるのか。数学やらなきゃいけないもんな」
へえ、こいつもこいつなりに、将来のこととか、自分の進路とか、考えてるんだ。ユータはいつだって、プロに行く、って言っていて、実際それが可能な力を持っているからそんな心配はしていないんだと思っていた。それに対してジュンイチは、自分の将来とか、そういうことを考えるのは苦手だと思っていた。何も考えなくても、生活力だけはありそうな奴だから。
というか、僕だってただ漠然と大学に行きたいって思っているだけで、将来どころか志望大学、志望学部だってよく考えていない。具体的な人生プランがまったく見えてこない。
とりあえず考えているのは、学費の安い国立の文系で、就職しやすい法学部を受けるだろう。それで司法試験か国家Ⅰ種を目指す、なんて程度だ。志望大学とか、職業のディティールは、下書きの域にさえ達していない。
進路にしたって、目指そうと思えば医学や工学を学ぶことだって出来るが、それは既に諦めている。学費が高いからだ。頭はあっても金がなくて進路が後手後手になるっていうのが歯がゆくて、考えると気が滅入ってくるから、今はあまり考えないようにしている。
「ユータは今親が反対してるから、大学に行ってからプロか?」
ジュンイチが訊いた。
「いや、サッカーの寿命は短い。卒業したらすぐプロに行くさ。そして二十二歳までに海外に行って、ワールドカップに出る」
「へぇ……ワールドカップに出るなんて、庶民にゃ想像できないな」
「ジュンは?」
ユータは訊き返す。
「俺か? 俺は世界を回るジャーナリストになりたいと思ってる。ルポライターっての? 外国とか、史跡とか回りたいしな。現地の人とか、そういう人に触れるのは好きだし、それに外国の文化にも興味あるし。色んな所に行って、生のそれに触れてみたいんだよ」
「……」
意外だな、こいつもこいつなりに色々考えてるんだ。こいつは確かに語学力さえあれば、世界中の人とでも仲良くなれそうな気がする。
多分3人の中で、一番こいつがまともな大人になれるだろう。観察眼は僕よりも劣るけれど、こいつは何か、僕には見えない大事なものが見えているような気がする。だから、ものを見る、それを伝えるという仕事には向いていると、初めて聞いた夢の話も、すんなり受け入れることが出来た。
「へえ、じゃあ俺がヨーロッパに行ったら、お前が取材とかもありえるのか」
「そうだといいな」
ジュンイチは歯をむき出して笑った。
「……」
何も言えなかった。
「ケースケはどうなんだよ?」
ジュンイチが訊いた。
「――僕は……」
二の句に詰まった。
僕はただ、人並みに過ごしたいっていうだけで、一日をただ何となく生きてきただけだったんだ。やりたいことなどない、考える余裕も今はない。
大学を目指したいというのも、漠然と、知力を生かすためには高卒では駄目だ、自分の思考力には自信があるから、腐らせるのが勿体無いというだけのものだし、学部も学費負担をするため、バイトが出来る文系であればどこでもいい。おそらく文系の最高峰である裁判官や弁護士を目指すかもしれないが、それにも取り立ててなりたいとも思っていない。
おそらく僕の人生の起承転結のうち、前の3つはもう終わってしまったんだろう。
大学に入って、何となく学費を稼ぎながら、大変だけど通って、卒業したら法曹の仕事でも何でも就いて家を出て、それでもう親とは一生会わないだろう。そして上司から勧められた見合いか何かで結婚して、子供が出来て、家庭のために金を稼ぐ。週末は草サッカーでもゴルフでも何かして、子供が成人して留学をねだったり、愛のない妻が旅行費用をねだる。それを叶えているうちにリタイアして、七十七歳くらいで清浄な炎に弔われる。
そう、僕はもう、何かを待っているだけの存在だ。もうその人生プランで僕の人生が終わっても、もういいじゃないか。考えることも面倒臭い。ただ、死ぬ瞬間、大学を出て、家を出る瞬間――そういう、自分が楽になれる瞬間を待っている。
そう、ただ待っているだけ、時間を消化しているだけだ。
「まだお前達みたいに、ちゃんと考えてない」
僕の人生とは、一体何なんだろう――勝ってもいないし、負けてもいない。引き分けですらない。僕の生き方とは、評価の対象にさえなっていないんだ。
今までの僕は、意地のために勉強をしていた。僕は周りにいつも敵がいて、敵に勝つための一番適当なアドバンテージを得る方法に勉強を選んだ。学生の本分と言われるわけだし、頭が回れば身を守る術ともなるし、誰も学生としての僕を淘汰できない。だから僕は勉強をした。
だけど、そんなに簡単なものじゃなかった。僕が得た力は、一方的な暴力や、未成年の境遇をひっくり返せるほどの力はなく、あまりに無力だった。残ったのは、目的のなかった勉強を繰り返して、今自分が何をしたいか、何のために勉強をしているのか、何もわかっていない、一人の惨めな人間の姿だった。
僕自身がそうなのだから、周りからも、僕の意味を見出されることはない。勉強の本質を見抜けずに勉強していた僕は、勉強の先にあるものを見出せない。だらだらと、体を持て余して、つまらないことに身を投じているだけ。僕はどんどん腐り始めている。
僕の尊敬する中国三国時代一の英雄である諸葛亮孔明は、幼年時代、後漢を破綻させた黄巾の乱の中、戦乱の世を家族と共に逃げながら過ごした。彼はそこで、諸葛一家と共に野山に悲鳴をこだまさせながら逃げ回る民の姿を見て、世を憂い、自らで民の平和に暮らせる世に導く事を決意し、今の僕と同じ17歳で大学に進学し、20歳にはそこで学ぶこともなくなる程の天才だった。
大学在学中の彼は、勉学のための勉学をし、世間に気に入られるために持論を曲げ、媚を売るために議論する同窓に絶望し、その歳で雌伏してしまった。そして孔明は、後の蜀初代皇帝、劉備玄徳の『三顧の礼』に心動かされ、乱世に苦しむ民のために立ち上がる。その後数々の偉業、伝説を残し――志半ばで倒れたが、神格化されるほどの天才として、今に語り継がれている。
僕の歳で、孔明は既に大志に向かって動き出していた。それに比べて僕は一体何をやっているのか。他人への憎悪だけで、僕には一欠けらの意志も見当たらない。毎日を消化しているだけの、時代に張り付いている、背骨のないナメクジみたいな男だ。僕と孔明を同列にすること自体がおこがましいが、孔明が見たら、僕も大学の同窓と同じ、興ざめな人間と嘲笑されることだろう。
ユータやジュンイチとは違う。僕の持つ、語る気にならない自分の人生は、一体何のためにあるのだろう。
僕は一体、どう生きたいのだろう。そもそも僕は、それほど生きたがっているだろうか。