第一部序章 1st-person
考えはまるでスローモーションのように、視界の中をゆっくりと流れた後に、また次なる教室の情景へと思いをはせながら消えていく――
さながら僕の思考は、樹液を求めて木から木へ飛び移る蝉のようだっただろう。紙芝居のように、脳内でページがゆっくりめくられて――僕はただ、時間の消化に努めていた。それは穏やかな時間だった。
秋風はまるで、天使の矢が通った軌跡を描く銀色の糸のように、僕の袖を撫でている。小開けの教室の窓から、一枚フィルターを通した、くすんだような日光を入れて、埃をちらちらと光らせていた。
僕は机に頬杖をついて、溜息と疲労が3対1でブレンドされた教室の空気に同調するように、自分の番を待ちながら、瞼にのしかかる重力に抗っていた。
教卓に引っかかりそうなくらい腹の出っ張った小柄な中年教師が、半機械的にプリントを配っている。
ここ、埼玉県川越市にある県立埼玉高校は、8倍という有名大学顔負けの受験倍率、合格者平均偏差値73、県内のみならず全国有数の進学校で、全国東大合格者輩出者別ランキングで常に全国トップ30に名を挙げ、県立としては7年連続の東大合格者数日本一を記録する、名門中の名門進学校。
そして今、はげ鼠みたいな担任が配っているのは、中間テストの結果用紙。
自分の番が来たのを確認すると、僕は席を立つ。既に僕の前に配られた連中は、お決まりの悲鳴を上げている。中には赤点を取ったのもいるだろう。
「よくやったな」
担任はおざなりのように、僕の用紙を差し出しながらそう言い、軽く微笑んで見せた。僕自身はそれに対して何も変わることはない。黙って用紙を受け取ると、もう結果を知っている結果用紙などは四つ折にしながら踵を返し、席に戻り、またさっきと同じポーズでクラスメイトのリアクションを見つめていた。
慰めあっている女子、もはや笑うしかないという男子。リアクションはさまざま、悲喜こもごも。
池に石を投げれば、泥が舞い上がるように、きっかけがあれば動かざるを得ない。高校生にとってテストなんてのは、そうやって強制的に人を動かす石みたいなものなんだろう。それとも、僕達という池が、波が立ちやすいということだろうか。
クラス一の落ちこぼれは、赤点を7つとったことを公表なんかして、結果用紙を勝訴よろしく振り回していた。それはヤケになっているのか、皆をほっとさせて人気者を気取りたいのか、僕にはわからない。
「退屈そうだな。お相手しようか?」
僕の前に、一人の大柄な男が立っていた。がっちりした肉体に、電話帳にだって突き立ちそうなくらいの八重歯をむき出しにした笑顔、ユーモラスなどんぐり眼に、無造作にワックスで動きを出した、薄く茶色に染まった髪。
男は紳士を気取ったつもりか、胸に右手を当てる。
「……」
僕は返事もしないで、その勝訴男の空騒ぎに目を向けていた。
「参った! 参ったよ」
僕の前にいた男が声を上げた。
「カラみ待ちは俺の方でした。悪かったよ」
それを聞いて僕は男に視線を移して、四つ折りにした結果用紙を彼に差し出した。
「まったくあそこでシカトなんて、お前、ツンデレカフェで働けるぞ」
なんて言いながら、怒ったような顔をして、男は自分の結果用紙を差し出した。僕もそれを受け取り、お互いにそれに目をやる。
「――相変わらず、イチャモンのつけようもないな」
「つける気でいたのか?」
僕がそう言ってやると、男は少し困ったような、僕に呆れたのか、そんな複雑な表情を見せて、掌を上に向け、肩をいからせるジェスチャーをした。
「ったく。そういう台詞、お前だから言えるんだろうけどさ、もうちょっと何か……」
「また数学が赤点か」
「無視かよ!」
男は芸人みたいに声を上げる。ひったくるように、僕の手にある用紙を奪った。
「まあ――想定の範囲内だろ?」
鼻の頭を掻きながら、男は聞き返した。
「今回の科学を落とすのも、予想の範疇だ」
「うん……そう」
そこで男は肩を落とす。どうやらこれが奴の本題だったんだろう。こいつだってはじめから数学は捨てていたはずだ。だからこその落ち込みようだ。
「2つか。毎度毎度懲りないな」
「あぁ……また一週間、ご教授頼むよ」
僕はひとつ溜息をついて、ああ、と返事した。
「でもよ」
男はカメレオンみたいに表情を見事に変えて、僕の後ろに眼をやった。さっきの落ち込みようは、嘘だったのかよ。
「やっぱ今回も、彼女は落とせないか?」
その話題を振られ、僕は体を雑巾みたいにひねって、教室の後ろに目を向ける。
教室の後ろで、一人の少女が数人の女子に羨望の視線を向けられながら絡まれ、困った顔をしている。色の白く、華奢で可憐な少女だった。
「……」
「悪い。チャチャを入れるつもりはないんだ。ただ改めて、あんな美人なのにお前に勝ったってことに感心しただけ」
「――あの娘がすごいことは認めるよ」
「ま、この学校じゃあの子とお前の戦いに誰もついていけてないんだ。もう孔明と仲達の知能戦だな」
こいつは赤点を三つとっているが、それは単に奴の弱点であるに過ぎない。
彼は今回も、日本史、世界史、地理と、三科目は学年トップだった。彼の正体は、相当の歴史マニア、三国志や日本の戦国時代の大フリークで、生まれる時代の遅すぎた歴史家を自称している。そしてこうして時たま僕の前では、こうした故事を例に用いるのを好むのだ。
こいつは三国志などの歴史小説が好きで、中国に留まらず、世界史では右に出る者はいない。高一の世界史のテストで、『三国時代、魏、蜀、呉の三国の創建者を述べよ』という問題を、魏=曹操孟徳、蜀=劉備玄徳、呉=孫権仲謀、と書いて、全てハネられ、「これ、字ですよ! 間違いじゃないでしょう!」と、世界史の教師に抗議に行ったという伝説がある(正確には字で本名を書く場合にはこれは間違いだ。劉備玄徳なら、実際は『劉玄徳』と書くべきだ))。
「でも、恋愛感情はないわけ?」
その質問をされた時、僕は二秒だけ沈黙した後、自分の腕時計を覗き込んだ。
「5、4、3……」
僕は秒針が動くごとに刻を読み上げる。
「ん?」
「2、1……」
――キーンコーンカーンコーン――
「さあ、部活だ」
僕は立ち上がり、机の隣に置いていた自分のスポーツバッグを担ぎ上げ、耳横に逆手でスリングを持ち、背中から吊り下げる形で男に踵を返して背を向け、教室出口へ向かった。
「おい! 待てよ!」
男が声を上げた時、僕は今日、テスト結果で唯一負けた少女と目が合った。僕は敗者の姿を見られたくなくて、ぷいと目を背け、ドア横にあったゴミ箱に、四つ折りの結果用紙を丸めて捨て、教室を出た。
何でこんなに今日はイラついているのか……テストに負けたからじゃないな。あの紙に書いてあった、あのはげ鼠のコメントが気に食わなかったんだろう。
「大変素晴らしい成績ですが、まだ詰めが甘いようです。東大に行ける力を持っています。頑張ってください」
あんなの、結果見せればそこらの主婦だって同じことを書く。二番ってだけで、詰めが甘い、か。大体僕がいつお前に、東大に行く、なんて言った?