第二部最終章 Departure
成田空港には、ユータ、ジュンイチ、そして、駆けつけてくれた、ジュンイチの彼女、ナカガワ・マイが、僕を送りに来ていた。
今日、僕は朝、警察に連絡して、事情聴取を受けた。事件で見聞きしたこと全て、僕は取調室で説明をした。警察も世間の動きを汲んでか、僕に同情したのかはわからないが、僕を拘束すべきだと言う者はいなかったので、割と淡々と事情聴取は進んだ。
その間にユータ達に、航空券の手続きをしてもらい、次の日の早朝の北京行きの便を用意してもらった。ナオキが車を出してくれ、海の家から程近い成田空港まで送ってくれた。
この1週間、働いた分の給料を、僕はナオキ達から受け取らなかった。嘘をついてまで転がり込み、余計な心配をかけてしまった上に、また新しいバイトを探させなくてはいけなくなったのだから。。
勿論、僕は周りに気がつかれないように、ユータの買ってくれた黒の野球帽を深くかぶり、ダテ眼鏡をかけていた。ユータ、ジュンイチも、サングラスに野球帽という変装をしていたが。万一の確率を出来るだけ低くするため、人の少ない夜中の出発を選んだ。まだ、ニュースでは、未明、と呼ばれる時間だった。わざわざそんな時間に、3人は見送りに来てくれたのだ。まるで国外逃亡である。
マイは泣いていた。ジュンイチを通しての短い付き合いだけれど、それなりの友情は芽生えていた。それにあの瞬間の目撃者の一人だったのだから、相当のショックだったに違いない。
「泣かないで」
「だって・・・・・・これじゃサクライくんがあんまり・・・・・・」
声を殺して泣く彼女の手を取って、野球帽のひさしを少し上げて、彼女の目を見た。
「君にはジュンイチがいる。友人として、あいつのことは保証する。君はあいつを信じてやってくれ。あいつの側にいてやってくれ。そうすれば君は絶対幸せになれる。絶対ね」
それを訊いて、彼女がしっかりと頷くのを見て、そのジュンイチの方を向いた。
「――マルコ・ポーロも、旅をする時は、そんな格好をしていたのかな」
ジュンイチは僕の姿を見て、言った。僕の背中には、寝袋を縛りつけた、大きなリュックサック。肩には大きなスポーツバック。大袈裟な修学旅行みたいだ。ユータとジュンイチが、買い物に行けない僕の代わりに、必要そうなものを考えて、全て揃えてくれたものだ。
「さあ――きっと馬か船に乗っていたんじゃないか、マルコ・ポーロは」
「まったく、孔明の次が、マルコ・ポーロかぁ? せわしない奴だな」
と、呆れるように言いつつ、ジュンイチは、僕に手を差し伸べた。僕は手を握り返した。
「エイジさんから、伝言だ」
ジュンイチは僕の目を覗き込む。
「ケースケのクソバカヤロウ、ってさ」
「……」
エイジ――奴にも随分と世話になった。あいつがせっかく借りてくれたアパートを、1ヶ月も済まないうちに解約しなくちゃならないとはな。
「ジュンイチ、これ、エイジに渡してくれ」
僕はジュンイチに一枚の封筒を託した。
「僕の住んでいたアパートの解約金だ。余ったら、お前が大学に行くための足しにしてくれ、と伝えてくれ」
僕がそう言うと、ジュンイチは頷いた。
「俺、大学行くの、やめることにしたよ」
「え?」
僕が訊くと、ジュンイチは僕の方をしっかりと見た。
「元々俺は、歴史が好きで、世界を回る仕事をしたいと思っていたけれど、これから一人で世界で生きて行くお前を見て、俺の見たい世界は、そんな甘っちょろいものじゃないような気がしてな。だから、大学受験とか、そういうのじゃなく、俺ももっと実戦的なやり方で力を付けられる、厳しい環境に身を置いてみたいと思ってな」
「――何だよ、実戦的で、厳しい環境って」
「それはまだ言えない。でも、お前が帰ってくることには、それが形になっているように、俺も頑張るよ」
それだけ言うと、ジュンイチの言葉が、一瞬詰まった。
「これ――俺からの選別だ」
そう言って、ジュンイチは僕に、一枚の封筒を差し出した。
「じゃあ――頑張れよ」
「――ああ」
そして、最後にユータ。
「よく考えたら、お前の方が僕より、彼女のことがわかるのかもしれない。お前も忙しいだろうが、出来れば、お前が、彼女を支えてやって欲しい。頼む」
先のジュンイチと同じように、握手を交わした。
「ああ――しかし、さっき渡された手紙、お前、何を書いたんだ? シオリさんにほとんど何も説明ないまま、手紙一枚残して海外に行っちまうんじゃ、相当ひどい内容なんだろう」
「・・・・・・」
「まあいい。それは何とかやってみるよ。ただどこまで出来るかわからないから、期待はするなよ」
ユータは心許なそうに言った。
「すまない。でも、彼女には幸せになってほしいんだ」
「お前が戻れば、あの娘はすぐ元気にも、幸せにもなると思うけどな」
「いや」
僕は否定した。
「ここに残れば、彼女もマスコミに追われて、辛い思いをする。彼女は、僕に一番深く関わった女の子なんだから、きっと彼女の平穏も奪われる。それに――このどん底な気持ちのままで、僕が彼女を守る自信もないから」
そう言うと、僕は自分の荷物から、さっきジュンイチに渡した封筒の数倍はあるような、大きな銀行の封筒を取り出した。
「これも一緒に、彼女の家族に渡してくれ」
「な、何だよ、これ。どう見ても札束が入っているよな?」
「500万ある」
「な!」「え?」「は?」
3人が目を丸くした。
「彼女の顔――もしかしたら、深い痕が残っているかも知れない。だから、せめてこの金で、いい整形外科に見てもらって、痕を消してもらってくれ。もしお金が余ったら、僕からの慰謝料ってことで、収めてもらってくれ」
「……」
3人とも、それを聞いて黙ってしまう。
――そう、もし僕のせいで、彼女の顔に傷跡が残ったら――彼女は僕を忘れることは出来ないだろう。それに、今後彼女には、女として、男から愛される権利がある。せめて顔の痕だけは消して、元の優しい笑顔をたたえる彼女に戻って欲しい。今の僕には、それくらいしかできないから。
「ちょっと待て」
ユータは狼狽した。
「お前、これをやるということは、お前はもう手元に、ほとんど金がないってことだろう?」
「――ああ」
ユータの言うとおり、僕はオランダでの3位ボーナスも既に返上し、手元には、大学の受験費用と、大学4年分の学費と、僅かな生活費しか残していなかった。そのほぼ9割を、今回の後始末に使ってしまい、もう僕は、万一に備えた帰りの飛行機代と、2ヶ月貧乏旅行が出来るというほどの金しか持っていなかった。
だが、それでいいと思う。下手に金を持って、ホテルを泊まり歩く生活をしていたら、多分僕はそのうち、生きていくことがどうでもよいと考えてしまうと思うから。貧乏になり、生きることに必死になることで、生き方にこだわることができる。それが僕を強くしてくれると考えた。今まで貧乏だった時も、そうだった。金がないから、生きることに必死にはなれた。
それに、金がない方が都合がいい。僕は自分の過ちで、愛する人を傷つけてしまった。そんな自分が今でも許せなかった。今は自分を痛めつけてやりたかった。それでしか、自分への怒りから逃れる術が見つからなかった。
今なら分かる。あの時、僕が学校から逃げ出して、当てもなく自転車で逃げたのも。僕は自分の罪の意識――とりわけ彼女を殴ったことへの後ろめたさから逃れたかったのだと。そしてそれは、今も変わっていない。
空港内にアナウンスが流れた。僕の乗る予定の中国行き飛行機の搭乗時間が迫っていた。
「もうこれで、さよならかもしれないけれど・・・・・・行ってくるよ」
「まだ間に合うぞ? 引き返すなら今のうちだぞ」
ジュンイチは最後に訊いた。僕は少し躊躇した。
「・・・・・・・」
唇を噛んだ。
ここに残ってどうする? 何もできやしないぞ。かえって皆に迷惑をかける可能性が高い。躊躇してる場合じゃないぞ。しっかりしろ、ここで覚悟しないと、これから何も出来やしないぞ。
「いや。大丈夫だ」
それだけ言った。自分の今出来る、一番精気に満ちた声で。
「そうか――」
「大丈夫」
僕は言った。
「お前達が教えてくれた、人の温もりの暖かさを忘れない限りは・・・・・・多分、きっと・・・・・・」
多分、きっと――曖昧な言葉だ。悲しいけれど、今の僕はそれすらも忘れてしまいそうで。こうやって言い聞かせていないと、怒りの焔に、全てが焼き尽くされてしまいそうで。
今の僕は、怒りに満ち溢れてはいたけれど、少し揺れていた。
ユータ達は、僕を信じてくれた。だから僕は、この旅を通じて、そんなこいつらの思いに報いることが出来る強さを見に付け、今後の生き方で、それをこいつらに示してやらなければならない。それがこいつらへの、最低限の礼儀だと考えていた。
だから、こいつらがずっと僕に教えてくれていた、人の暖かさは、たとえ怒りに心が苛まれても、忘れてはいけないことであると、僕は思っていた。
でも、今の僕は、自信がない。今の僕が、今までの僕のように、人の気持ちにどれだけ応えられるか……
「さようなら」
もう搭乗時間が迫っている。それだけ言って、僕は踵を返して、搭乗口に向かった。
「ケースケ!」
ユータが叫んだ。僕の足が止まった。そして振り向いた。
ああクソ、今まで隠密裏に運んできた計画が台無しだ。まあ、海外線の厳しいチェックの時点で、僕の行く道は、じきにばれてしまったのだろうけれど。
「これでさよならなんて、嫌だからな! 絶対戻って来いよ!」
「・・・・・・」
完全にばれてしまった。僕も、ユータ達の正体も。空港内が静まり返った。そして、僕に向けられる視線――ゲートに遮られてはいるが、最前列の三人の後ろには、人ごみが出来始めていた。
観念して、僕は帽子と眼鏡を取った。ユータとジュンイチも、変装を取って、僕と対峙した。
「戻ってこないなら、俺、どこにいても、お前の耳に入るような、すごいプレーヤーになるから! 絶対だ! お前のことも俺は背負って、頑張るから!」
「・・・・・・」
叫ぶユータに、ジュンイチが割り込んだ。
「俺もやるぞ! ケースケ! 自分のすべきこと、きっと見つけてみせる! 帰ってきたら、お前に見せて、自慢するからよ! お前も絶対見つけて帰って来い!」
「――ああ。ありがとう。きっと戻ってくる!」
僕は大きく手を振った。そして、踵を返した。もう、振り返らなかった。
「サクライー負けんなよー」
野次馬の応援も背負って、僕の国外逃亡は、一気に戦場へ赴く兵士の出征に変わった。
荷物を預け、搭乗した指定席は、窓側の席だった。まだ外は暗かった。僕はもう一度野球帽を深くかぶって目元を隠し、そのまま仮眠をとることにした。まだ到着まで4時間はある。
やがて、フライトの瞬間、浮かび上がる瞬間だけ、大きく体に圧力がかかったと思うと、すぐにそれは静かになった。
しかし、眠れなかった。眠れないので、僕はジュンイチに貰った封筒の中身を開けてみた。
そこには、数枚の写真が入っていた。全部、僕達の写真だ。
そう言えば、ジュンイチの奴、オランダに行ってからというもの、いろんな景色や場面をよく写真に撮っていたっけ。
その中の写真のひとつ。半年前――埼玉高校の体育館で行った、あの準優勝の祝勝会――もとい、ちくしょう会。この時、ジュンイチがマイに告白されて――あの時のジュンイチの顔ったら。ふふふ……
そして、体育館のステージ上で、準優勝盾を中央に置いて、僕達トリオがしゃがんで微笑んでいる。そして――僕とジュンイチの方には手が添えられていた。ジュンイチの彼女と、マツオカ・シオリが中腰になって、Ⅴサインを出して、微笑んでいる。
「・・・・・・」
しばらくそれを見ていたが、やめた。僕は寝直すことにした。この写真を見ていると、考えることが嫌になる。自分の失ったものの存在が、頭の中に顕在化してくるからだ。
――しばらくして、僕は、眩しい光で目を覚ました。
目を開けて、窓の外に出ると――雲海が眩しく光っている。雲海から日が昇っている。
「・・・・・・」
まっさらな世界だ。肉親に汚されたこの半生は、今日で終わった。これからは、僕がこの世界を、僕自身で彩って行くんだ。そして、僕は大人になるのだろう。
――中国北京の空港で、僕は荷物と――他の客の荷物の中でも、一際目立つ荷物――失礼。もといリュートと再会した。空港を出ると、夏真っ盛りの中国の、灼熱の太陽が『僕達』を出迎えた。
空港内の土産屋で、ガイドブックを買った。その地図を見て、僕は頭をひねった。
北京から、蜀の都、成都まで、歩いてどれだけかかるだろう。一瞬それを考えた。どうせ金がないのだから、バスや車など使えない。歩いていくしかないくせに。
そうだ。この道を僕は歩いていく。
今の僕に出来ることは、歩き続けることだけだから――
「リュート、行こう」
僕は隣にいるリュートに声をかけた。そして二人、歩き出す。
そして、僕はひたすら西へ――リュートと二人、北京の雑踏に消えて行ったのだった。
第二部 完