Letter
『――あ……』
潮騒の中、少し遠慮がちな、息を漏らすような声で、その音声は始まった。
『――元気でいますか?』
はっきりと、シオリの声がした。
『久し振り――だね。と言っても、テープじゃ、私が一方的に喋るだけだけど……』
ゆっくりと、だけど綺麗な、柔らかいアクセントで喋る。一週間ぶりに聞く、シオリのその声の響きは、何かとても心地よく聞こえる。
でも――その声の後、MDの音声は途切れてしまう。
『……』
その沈黙が、何秒続いただろう――
沈黙が途切れるのを待つ時間は、僕にとっては、とても辛い時間に思えた。
さっきまでは、彼女に何と言われるかの方が不安だったのに、今は違う。
この沈黙で、彼女が今、必死に僕に送る言葉を捜していること、そして、彼女が今感じている不安の大きさ、今、彼女が感じている孤独が、何も言わずとも、僕に全て伝わってきたからだ。
このテープに声を吹き込む間――シオリが僕のために無理をしているのが、手に取るように伝わってくる。
その沈黙は、多分20秒にも満たなかったと思うけれど、僕には数十分、数時間のようにも感じられた。
『えっと――まずは、私、あなたに謝らないといけないね……』
沈黙が明けると、シオリはそう言った。
『――ごめんなさい。私、あなたの許可なしに、あなたから預かったMDを、世間にばら撒いたから』
「……」
『このことで、あなたの予定していた将来が、違った方向に進んでしまったのなら――本当に、ごめんなさい』
「……」
――そんなこと、何で君が謝るんだよ……
僕は君に、もっと酷いことをしたんだ。男として、最低のことをしたんだ。
それに――君がとった行動は、僕にとっては最善のものだった。君が対応してくれたから、今では世間は僕の味方をしてくれる。それがなかったら、僕は少年院に入れられていても、文句を言えなかった。
あの時――君が親父の前に割り込んでくれなかったら、僕は親父を惨殺していた。僕はあの時から、ずっと君に守られっぱなしだったんだ。
『えへへ――な、何だか、おかしいな』
久し振りに聞く、彼女の照れ笑い。
『話したいことが、いっぱいあるはずなのに……自分の口下手が、嫌になっちゃうな……』
「……」
声を聞いているだけで、分かる。
彼女の、今までと変わらない、控えめな笑い声が聞こえるけれど。
彼女はもう、泣いている。
心の中で、ずっと、ずっと――
『……』
沈黙。
『――戻ってきて』
「……」
『きっとあなたは今、自分を責めていると思う。私を、殴っちゃったこと、ずっと――あなたは、そういう人――本当は、優しい人だから。その優しさが強過ぎて、あの時はああいう形になっちゃったけれど』
「……」
『でも、あの時、あなたがご両親に従うと言っても、私があなたのご両親に逆らったのは、勝手にしたことだし――私が話をややこしくして、あなたを困らせちゃったからね。だから――あなただけが気に病まないで。おあいこにしようよ。ね』
哀願するような、すがるような、シオリの口調。
『多分――こんなことになって、あなたも戻りづらいのは分かるわ。でも――あなたはひとりぼっちじゃないから。エンドウくんも、ヒラヤマくんも、マイも、あなたの味方をしてくれる。それに、私も――あなたが今、とても辛くて、立ち上がれないくらいの痛みを抱えていたら、私、頑張って、あなたを支えるわ。泣きたくなったら、あなたが泣き止むまで、ずっとあなたを抱きしめるから』
「……」
『私、約束したもの。あなたの悲しみ、苦しみに、いつまでも寄り添う、って――』
聞き覚えのあるフレーズ。
それは――彼女の好きな花の……
『約束したじゃない。秋になったら、二人で、竜胆の花を見に行こう、って。私は、今でもあなたとそうしたいと、思っているから……だって、私は……』
「――くっ!」
たまらなくなって、僕はMDウォークマンの停止ボタンを押していた。
もう、聞いていられなかった。
彼女の優しい言葉が、僕の心に百万の拳打を与える。
左手には、彼女を殴ったあの感触が、蘇ってきていた。
「……」
いちいち出てこないでいい。思い出させなくたって、もう彼女と会う気はない。
もう僕は、彼女を殴った家族への怒りに、心が染められている。
今までは、歩く歩幅こそ違っていても、僕とシオリの目指すところは同じだった。
でも――もう違う。
側にいても、今の僕は、彼女を傷つけることしかできない。
いても、もう二人の描く未来が違うから、次第に二人、離れていくだけ。
それに、僕は彼女を殴ったことは、そんな簡単には割り切れない。
一緒にいれば、僕はきっと、そのことをいつも思い出して、彼女に後ろめたさを抱えながら、付き合っていくことになる。
そんな自分の気持ちに気付かせまいと、僕は嘘と詭弁で彼女に本当の自分を偽って、それでも彼女は、僕のために尽くして、無益な日々を送らせて、それで、僕を守れなかった、助けてやれなかったと気付いた時、彼女はもう十分ボロボロになっているのに、また更に傷つくだろう。
戻っても、お互いがお互いを傷つけ合って、ボロボロになって、修復不可能になるまで壊れるのみ――
――もう、僕では彼女を幸せに出来ない。
君がこの半年で教えてくれたこと――全てがもう、怒りの炎の前に、焼き尽くされてしまったから。
僕達はもう、一緒にいてはいけないのだと、この時、はっきりとわかった。
僕が彼女の前から消えれば、彼女の悲しみは、時が経てばいずれ消える。
そして、僕よりももっと、彼女を幸せに出来る男がきっと現れる。
彼女を幸せに出来るのは、今の僕じゃない……
――その晩、僕は手紙を書いた。泣きながら手紙を書いた。一睡もせずに、僕は目を赤くしながら、僕は慙愧の念に耐えながら、手は止まることなく彼女に手紙を書き続けた。
自分が今、彼女に綴る手紙に、なんて酷いことを書いてしまっているのか。自分が書いている、その辛辣な言葉は、彼女に届く前に僕の心に返り、心を抉り続けた。どうやったら彼女が、僕のことを早く忘れようと思うほどに傷ついてくれるか。今も僕を、優しい人だと信じてくれている彼女の気持ちを、どうすればより効果的に踏みにじれるか――そんな彼女が傷つく言葉を故意に捜しては、それを書き、その度に僕の心は、悲しみや怒りに苛まれ、目に涙を溢れさせた。
――こんなのってないだろう。
今も、こんなに君のことを好きだけど――そんな人に、傷ついて欲しいと願わなくちゃいけないなんて。
本当は、もっと言いたいことは沢山ある。この半年、君が僕を肯定してくれたおかげで、僕の凍てついた心に、初めて春の息吹が訪れた。
せめて――今までありがとう、と、伝えたかった。でも出来なかった。優しい言葉をかけてしまえば、きっとシオリは、僕を忘れられなくなるから。
だから、手紙には一筋の憐憫の情もなく、冷たい言葉だけが並んでいく――
だけど、祈りをこめるから。
君がこの先、誰よりも幸せになれるように。
君を幸せにしてくれる、もっといい誰かと出会えるように。
今の僕は、祈ってやることしか、出来ないけれど……
僕は一生、この怒りの炎の中でもがき続けて――その中で死んでも構わないから。
どうか、君だけは、幸せになるように……
どうか。どうか……