Never-give-up
「……」
その話題に触れられた時、僕の胸に、ちくりと痛みが走る。
あの娘――この1週間、何度忘れようと試みたことか。そう試みる度に、左腕に残る感触が蘇っては、その感触が体全体を締め付けてきた。
「ケースケ」
ジュンイチが僕を呼んだ。
「お前なら、不思議に思ったはずだ。どうして警察が、お前があそこまでオヤジ殿を痛めつけたのに、それがここまで正当防衛として認めたかを」
「……」
「それ、全部シオリさんのお陰だぜ」
「え?」
僕は顔を上げると、ユータが僕を見た。
「彼女は俺達に、一枚のMDを託したんだ。中身を俺達も聞いたが、それはお前が家族に順繰りに罵倒された後、暴れ回る家族にメチャクチャにされるリアル音声だった」
「……」
あれを――シオリは、あれをリークしたのか。
「正直鳥肌立ったぜ。あの音声聞く限りじゃ、ありゃ人を殴ることに躊躇ない人間の言動だ。お前があの家族に日常的に暴力を振るわれているってのが、すぐわかったよ」
「俺達はそれを聞いた後、シオリさんに頼まれたんだ。このMDを、二人で警察、マスコミにありったけリークしてくれって。私が、ケースケくんが今まで二人に話さなかった過去を、私の知る限り、全て教えるから、それを自分達だけが知っていたように、記者会見で話して欲しい、って。無名の女の子の自分が言うよりも、あなた達二人の方が、世間が耳を傾けるし、信用性が増すから、って。その通りになったよ。あのMDを俺達がリークしたことで、お前は世間を一気に味方につけた。大きな追い風が吹いた」
「……」
「俺達は記者会見を開いた。記者会見で喋ることの内容は、シオリさんがほとんど全部考えてくれた。シオリさんの考え通りに記者会見は進んで、情報操作が成功した。お前が今まで家族からひどい仕打ちを受けてきて、お前の行動はやむをえない行為だったと、世間も警察も認めるように仕組んだんだ」
「彼女が……」
「全く、すげぇ女の子だよ。たった一人で世間の情報を意のままに操って、お前の身を守りやがった」
ジュンイチがビールに口をつけた。
「しかし――あの娘にお前が惹かれた理由がその時わかったぜ。お前、あの娘には、何でも話していたんだな。家族のことで苦しむお前の心の棘を、あの娘は抜くことが出来たんだ。どんな魔法を使ったのかは知らないがな」
「……」
魔法、か……
確かに、あれは魔法だったのかも知れない。『肯定』という名の魔法を、彼女は僕にかけてくれた。
その魔法を、彼女はずっと、僕にかけ続けてくれた。だから僕は、どこまでも天に向かって突き進むことが出来た。
なのに……
あの一瞬、親父が彼女を殴ったことで、その魔法が解けてしまった。
その魔法は、今も僕の心を一瞬で埋め尽くした、闇に食われたままだ。
あんなに、彼女のことが大好きだったのに――
どうして、あの時、あの家族の伸ばす闇の触手に捕まったんだろう……
僕達3人の間に、潮騒の音が空しくこだまする。
「――彼女は、元気か?」
僕は二人に問い質していた。
「彼女は今、どうしている?」
僕の口調は激しくなる。
彼女の美しい顔に、大きな傷をつけてしまったのは、僕だ。彼女が今も息災であるかは、ずっと心残りだった。
「――わからん」
ジュンイチが言った。
「え……」
「あの日以来、俺達もシオリさんには会っていない。家族の話じゃ、部屋に閉じこもって、家族ともろくに会話もしていないらしい。聞いた話では、食事もろくに取れていない有様のようでな。俺達に指示を出したのも、シオリさんの家族を介しての手紙でだ。あれから俺達も、マイと3人で、シオリさんの家に、よく見舞いに行っていたからな」
「そんな……じゃあ、顔の傷は?」
僕はまくし立てるような口調で訊く。
「何とも言えないそうだ。あれから家族も、彼女の顔を見ていないらしいからな」
「そんな……」
でも、それはそうだ。あんな傷をつけて、年頃の娘が、外なんて歩きたくもないだろう。傷を見せる度に、彼女は、世界で一番大切な家族に、心配をかけることになる。
――ちくしょう。
あの娘は、あんなに綺麗なんだ。笑った時の顔は、本当に可愛いんだ。
僕の付けた傷のせいで、彼女は二度と、笑えなくなるかもしれない。あの笑顔を取り戻すことが、出来なくなるかもしれない……
僕は、女の子に、そんな傷を……
「なぁ、ケースケ」
落ち込む僕に、ユータが声をかける。
「女心に疎いお前でも、わかっていることだと思うが、一応言っておく。あの時、シオリさんがお前に殴られなかったら、お前はあのまま両親を、間違いなく殺していた。シオリさんは、お前を止めるためには、正気に戻させるだけのショックを与えるしかないと思った。だからお前が、オヤジ殿を殴るために振り上げた、殺意のこもったパンチの中に飛び込んだんだ。彼女は、身を挺して、お前を殺人者の汚名から守ったんだ」
「……」
「何故そこまでしたと思う? お前の足をこんなことで止めさせないためさ。お前はこの先、多くの人を救う――こんなところで死なせられない。シオリさんは最後まで、お前の語っていた志こそが信実だと信じた。そして、それをお前なら出来ると信じた。あの娘は最後まで、お前の志を諦めなかったんだ」
「……」
「ほら」
ユータが僕に何かを投げてきた。僕はそれを両手でキャッチする。
それは、空色の便箋だった。こんなものが風の抵抗も受けずにまっすぐ飛んできたのが少し意外だったけれど、触ってみると、何か硬い四角形のものが入っている。
「シオリさんから預かってきた。お前宛だそうだ。恐らく中身はMDだろう」
そう言われて、僕は封筒を見る。金色のシールで封がしてあり、それが開けられた痕跡はない。ユータ達も中身は分からないようだ。
表には、住所もない――まあ確かに、今の僕は住所不定だけれど――僕の名だけが書かれていた。楷書のお手本のような、丁寧な字で。僕の名前なんかを、心を込めて書いたのだろう。そんな律儀さが伝わるような、彼女らしい字だった。
「・・・・・・」
「見るのは、酔いが覚めてからの方がいいんじゃないか?」
「ああ・・・・・・」
僕は傍らにあった、ビールの缶を見た。
「酔いなんて、もう覚めちゃったけどな。でもそうする。ちゃんと身を正してから、読むことにするよ」
その後飲み直したが、やがて二人はペースを上げ過ぎたのか、僕との再会に、気が緩んでいたのか、大会直後で疲れていたのか、張り詰めた糸が切れたのか、へべれけに酔っ払ってしまった。僕はナオキとミチルにも手伝ってもらって、二人を和室の布団に運んだ。
既に時間は11時を過ぎていた。既にミチルはタケルを寝かしつけていたようで、二人を寝室に運び終えると、途端海の家の中は静かになった。
「ねえ、ちょっと居間に来てくれる?」
2人を2階の部屋に運び終えて、3人で一息ついたところに、ミチルが神妙な顔で、僕に命じた。既にナオキは居間に降りていっていた。僕も怪訝な思いを抱えながら、初めに朝食をご馳走になった、ちゃぶ台をはさんで、向かい合って座った。
「酔ってるのかい? 酔ってるなら、話は明日の朝にするが」
「いえ……酔ってはいません」
酔いはすっかり覚めきっていた。
ミチルが僕に麦茶を入れてくれた。僕はすぐに口をつけた。やはり味では同じ麦が原料でも、僕はビールよりこちらの方が性に合う。コップを置くと、すぐに手を組んでちゃぶ台に置いていたナオキが口を開いた。
「ケースケくん、と、呼んでいいのかな?」
ナオキが首をかしげた。
「――はい」
僕も遠慮がちに答える。
「……」
そこでしばし沈黙。
「今日ほど驚いた日はない。ケースケくんが、これほどすごい男だったとは」
ナオキが口を開く。
「……」
「私達もさっきまで、あなたの事を、ネットで調べてみていたの。私達、少し前まで海外にいたから知らなかったの……すごいのね、あなた。サッカーでは既に数億の値が付いている選手で、勉強は全国の高校生の頂点だなんて」
ミチルも驚きを含んだような声で言う。
「すいません……いつかは僕の素性を話そうと思っていたのですが……」
「話したくなかった気持ちはわかるよ。警察とか、色々と事情もあったのだろうし。それに、話の場に、我々も立ち合わせてくれたしね。嬉しかったよ」
ナオキは僕の目を、優しい目で見つめていた。それを見て僕は、何だかリラックスして、肩の力を抜いた。
「それに、確かに君は我々に素性を隠していたのは事実だが、だからといって君が誠意なき人間だとは思わない。この一週間、君は実によく働いてくれていたし、君のお陰でこの海の家は大助かりどころか、利益を大きく伸ばした。タケルも君に懐いていた。子供は悪い人間には懐かないものだ」
「――ありがとうございます」
僕は深々と頭を下げた、この二人が、嘘をついていた僕を温かく受け入れたことが、素直に嬉しくて、自然と頭が下がった。
「しかし――君はこれからどうするつもりだい?」
ナオキが単刀直入に訊いた。
「まあ、私は君の保護者じゃないが……」
保護者――僕の保護者は、僕を『保護』してはくれなかった。そういう意味では、血のつながりはなくとも、ナオキやミチルの方が、よっぽど『保護者』だった。
「すいません。本当はよくわかってないんです」
僕も率直に言った。
「ただもうすぐここも、僕の家みたいにマスコミやファンが押し寄せるかもしれません。その前になんとかしなきゃ、とは思っていますが……なにぶん今起きていることが、頭の中で整理しきれなくて。まさか地元であんな騒ぎになっていることも知りませんでしたから」
「まあ、そうだろうな」
ナオキが頷いた。
「……」
沈黙。
「それでね、ケースケくん」
今度はミチルが、口を開いた。
「さっきの話を聞いて、私、お父さんと考えたんだけど……」
そこまで言って、言い渋るような仕草を見せた。
「でも、私達の勝手な意見だから、聞き流してくれてもいいからね?」
そう前置きした。僕は頷いた。
「私達思ったんだけど――ケースケくん。君はここにいない方がいいと思うの」
さて、第2部がもうすぐ終わるのですが、いまだに第2部が終わってからのことを決めていないという…
そのまま第3部突入か、それともアナザーストーリーを挟むか…するとすれば、ジュンイチとシオリ、どちらにするか…作者はいまだに悩む今日この頃なわけでして。
なんか最近また読者数が増えてくれたようなので、もう一度告知しておきます。第2部終了後、すぐに第3部に行って欲しいか、それとも、別キャラ目線での話を書いて欲しいか。何か意見をあれば、感想などに是非どうぞ。
シオリのストーリーは、埼玉高校入学から、ケースケ達との出会い、そして、ケースケとの出会いで少しずつ恋をしていくシオリの心情のストーリーで、ジュンイチのストーリーは、サッカー全国大会決勝戦前夜、ジュンイチがケースケ、ユータとの出会いを回想する話です。
別になくてもいいというのならば、すぐに第3部に行きますので…