Fake
僕がこの海の家に来て、1週間が過ぎた。
埼玉高校から逃げ出してから、携帯も置いてきてしまったから、誰とも連絡を取っていない。それどころか、新聞もニュースもまったく見ない1週間だった。
この家の人達も、あまり新聞やニュースを見ない人達みたいだ。ナオキは肉体労働で毎日疲れていて、仕事が終わるとビールを数本飲んで、すぐ眠ってしまうし、ミチルもタケルの面倒を見ている。情報で一番重視しているのは、海に住む者の生活を左右する天気予報で、それ以外の情報は生活にあまり必要ないようだ。
「――はっ!」
僕はうなされ、飛び起きる。
「……」
呼吸が荒く、汗を掻いていた。
今日の仕事が終わって、厨房で掻いた汗をシャワーで流して、部屋に戻って、畳に寝転がっていたら、いつの間にか、眠ってしまったらしい。
――まただ。また、あの夢を……
ここに来てから、僕は毎夜、同じ夢にうなされている。
埼玉高校の教室で、友や恋人が親父に次々に殴られ――僕はその親父を血だるまにした挙句、恋人を殴ってしまう。
あのシーンが、毎夜夢になって蘇ってくるのだった。
「……」
そして、その夢を見た後は、決まって左腕に、あの感触も蘇る。
あの時――世界で一番好きな女性を殴ってしまった、あの嫌な感触を。
「くっ……」
僕は頭を抱える。
この夢を見る度に、僕は何だか、気が狂いそうになる。
ようやく手中に収めかけた、生きる意味も、ささやかな幸せも――指の隙間から零れ落ちた。
誰かを幸せにできたら――その対象が、自分の大切な人であれたら。
そう思っていたはずなのに、こんな――何も出来ずに、それを踏み潰されて。
なす術もなくて……
この状況が、自分で招いたことだということも分かっている。自分の考えが、他人への責任転嫁であることも自覚している。
でも――それでも。
――僕は、あの家族を絶対に許せない。
今の僕の心は、どれだけ時間が経とうと、何をしようと、消えることのない怒りの炎が燃え上がっている。
金欲しさ――そんな理不尽な理由で、友や恋人を傷つけ、僕の幸せまでも壊して。
それで――僕は全てを失って。
――そんなの、認められない。
あんまりじゃないか。僕は、ささやかな幸せさえあれば、それでよかった。それほど多くを望んだわけでもないのに、それさえも許されないなんて。
こんな理不尽に、全てを奪われるなんて。
法の裁きを受けようと、僕がすること、しなければいけないこと。
それは、あの家族を潰すことだ。
この夢にうなされる度に、体の疼きが僕をそこへと促す。
家族だからと……卒業すれば縁が切れると、くだらない情で放置していた僕の甘さが、大切な人を傷つけた。
だから――せめて償いたい。
僕の家庭が招いたことを、僕の手で贖罪させて、傷ついた友や恋人の敵討ちをしてやりたかった。
もう自分の力を有効に使いたいとか、幸せになりたいとか、そんな思いは当になくなっている。
僕は――力が欲しい……
もっと圧倒的な力が。家族に、死よりも辛い罰を与えられるだけの、力が――
「ユーイチくん」
和室の襖越しに、ミチルの声がした。
「夕飯と、スイカを切ったんだけど、一緒に食べない?」
「……」
僕は部屋を出、ビーチサンダルを履いて、砂浜に出た。
海は夜の散歩をする人がまばらにいて……
ナオキとタケルが、同じランニングに短パンという格好で、海の家の会談に腰掛けて、麦茶を飲んでいた。
「すみません。僕までご馳走になってしまって……」
僕は恐縮した。
それは、素性を隠している後ろめたさと、そこまでして、結果的にかくまってもらっている、この家族への良心の呵責がそうさせたんだと思う。
そして――いつか僕は、後ろ足をかけるように、この家族の前から姿を消すだろう。
なんて自分勝手な考えだろう。
「ユーイチ、スイカきらいか?」
タケルは腰掛ける僕の隣に来て、そう言った。
「……いや、好きだよ」
僕はタケルに笑いかけ、頭を撫でた。怒りの炎を隠す、偽の笑顔を向けて……
「さぁ、今日はカレーだ。こうやって表で食べると美味い。ユーイチくんも食え」
ナオキにそう促され、僕は皿に山盛りのカレーを渡された。
「ごめんなさいね。夕飯は毎日この時期は、店の残り物になっちゃって……」
ミチルが言った。確かにここ3日の食事は、僕が一日厨房で格闘して出た残り物だ。このカレーも、焼き残りのフランクフルトが刻まれて入っているし。
「このカレーのレシピ、すごいわね。材料費を抑えてるのに、私のよりもずっと美味しいし……この分だと、カレーの売り上げは、今年は期待できるわ。ユーイチくんのおかげね」
「……」
具はほとんどないけれど、昔作ったカレーのレシピを参考に、一晩煮たカレーを披露した。他にも焼きそばやモツ煮込みなども、僕が一手間加えたことで、味が好評なんだそうだ。
「ユーイチくん、一体君は何者なんだい?」
隣のナオキがカレーを口に含みながら訊いた。
「え?」
「素性は話したくないなら無理には訊かないが……気になってな。君の能力は、並のものじゃない。君のような才気溢れる人が、何故あんな、犬と一緒に家出なんか……」
「……」
そう、今までが詮索されなさ過ぎ、これは当然の疑問だ。
だけど、僕は今の立場を、なんて説明すればいいんだ……
「お父さん、いいじゃない。ユーイチくんが何者でも」
ミチルは当惑する僕に気付いたのか、助け舟を出した。
「ねぇ、ユーイチくん。私達3人とも、あなたが来てから、とっても楽しい気分なの。売り上げもいいし、あなたがタケルと遊んでくれたり、色んな特技を見せてくれたりで……何だか、前から家族だったみたいに居心地がいいの」
「……」
「だから、ユーイチくんはいつか出て行くとは思うけれど……もしよければ、来年の夏もここに来て、いつでも遊びに……」
ミチルがそう言いかけた時、夜の砂浜に、女性の悲鳴が聞こえた。
「何だ?」
ナオキが立ち上がる。僕も、カレーの皿を階段に置き、立ち上がった。
僕達は砂浜を見渡す。
すると、視界の右端で、浴衣を着た女性二人が、おそらく酔っ払いだろう、アロハシャツのボタンを全開に開けた、色黒の男3人に絡まれていた。
「まったく、ああいうのがいるから、海水浴客のマナーが……」
だが、ナオキがそう言いかけた瞬間。
突然、男のうちの一人が、女性の頬に腕を振った。女性はそれを食らって、砂浜に倒れた。
「!」
――ズクン。
それを見た瞬間、あの光景が頭の中に鮮烈に蘇った。
僕の愛する人が、暴力に傷つけられていく瞬間が……その時の彼女の腫れた顔が。
そして、それが休息に僕の心を、怒りで染め上げていくのを。
「やめろ!」
僕はそう怒号を上げ、男達の許へ駆け出していた。ミチルが僕を呼びとめたけれど、その声はもう、僕の耳に届いていなかった。
男達も、僕の声に気付いたらしく、僕の方へ目を向ける。
僕は3メートルの距離を取って、立ち止まる。
「やめろ! 女性に対して手を上げるなんて……」
「何だこいつ?」
一番前にいた、毛先が金髪の長髪男が一笑した。
「こんなヒョロヒョロで、正義の味方気取りかよ? しかもまだガキじゃねぇか」
「あーぁ、せっかくこの娘達と話してたのに、邪魔しやがって……」
隣の、コーンロウ気味に髪をがっちり固めた男がそれに続く。
だが、一番後ろにいた、少し気の弱そうな、童顔の色黒の男は、僕の顔をしげしげと窺っていた。
「お、おい! そいつ……サクライ・ケースケじゃねぇか?」
そして、背を向ける二人の仲間達に向けて、そう言った。
「え?」
そう言われ、前に出ていた二人も、しげしげと僕の顔を見る。
「あぁ! そうだ! 髪が短くなってたから気付かなかったけれど、あんた、サクライじゃん!」
長髪の男が笑顔を見せる。すると、まだ横にいた二人の女性も、僕の顔を見始めた。
「……」
しまった――勢いに任せて出て行ってしまって……正体がバレた。
「アンタ、オヤジ殴って逃げてるって、本当かよ? 何でこんな所にいるんだよ?」
「サクライさんもヒラヤマさんも、高校サッカーに出てないし……何があったの?」
さっきまでのナンパによるムードは一転し、男女とも、僕への質問コーナーへと空気が変わっていた。
「……」
なんて軽挙な行動を取ったんだ……女性が殴られているのを見ていられなくて、飛び出してしまうなんて……
だけど、このままでは僕が、この海にいることがばれてしまう。
その前に、何とかしなくては……
「コラ! 君達!」
そんな中で、野太い男の声がした。
僕達が建つ、砂浜と道路を分かつ堤防代から、一人のスーツ姿の男が降りてきた。背が高く筋肉質で、髪は額がせり上がっていて、短く刈り込んでいた。猿のような赤ら顔だ。
「県警の者です」
赤ら顔の男は、手帳を前に差し出した。
「君達……先ほど悲鳴が聞こえましたが、女性に何かいたずらを?」
口調こそ穏やかだが、その声には迫力が内包されていた。ベテランの刑事といった、威圧的な話し方だった。
「い、いえ、別に……」
男3人は、いきなり語勢を弱め、すごすごとそこから退散してしまった。
「夜道を女性二人で歩くのは危ない。早く帰りなさい」
そう言って、まだ起き上がれない女性の片割れに手を貸し、立ち上がらせると、早々に二人を追い返した。女性二人は、最後まで僕のほうを何度も窺っていたが、警官が睨みを効かせていたので、素直に立ち去った。
「ユーイチくん」
背中越しに声がした。ナオキ、ミチル、タケルの3人が、入れ違いに僕を追いかけてきたのだった。
「大丈夫? 怪我はなかった?」
ミチルがそう声をかけるが、僕はもう、ミチルの声が耳に入っていない。
僕の目の前の、この赤ら顔の男が、僕の目を、射るように凝視していたからだ。
僕の正体にも気付いているようだ……親父を殴ったことで、僕に逮捕状が出たか?
「さて……あなたがサクライ、ケースケさんですね」
赤ら顔の男が、僕にそう訊いた。
――警官に虚偽は、ただ状況を不利にするだけだ。僕は素直に認めた。
「え? サクライ・ケースケ……」
ナオキが繰り返した。僕の名前を、ユーイチだと思っていたため、驚きを隠せないような声で。それでもナオキが、僕の事を知っているかどうかは疑わしかったけれど。
「この度、サクライ・ケースケくんの失踪届が、埼玉県警から発布され、伺った次第です」
失踪届――僕の家族がそんなもの出すわけないから、出したのは、校長もいるし、やはり学校か?
「相変わらずだったな、ケースケ」
堤防の影から、懐かしい声がした。僕は声の方向を向く。
影から、ひょっこりと大柄の男が二人、姿を現す。
茶髪のツンツン頭に、人懐っこい笑みを浮かべた男――エンドウ・ジュンイチと、ボサボサ頭に、松葉杖をついた男――ヒラヤマ・ユータがそこに立っていた。
「ったく、女の子が殴られているのを見て、隠れているのに飛び出してくるなんて、お前が本当に頭いいのか疑わしくなるぜ」
ユータが言った。
多分195話くらい(あと7~8話)で第2部は終了です。それ以降はアナザーストーリーをやるか、第3部にそのまま突入するかはまだ未定です。