Sunset
――後で訊いた話だが、ここは千葉の、とある海岸らしい。ということは、僕は埼玉から一日で、約150~200キロの距離を自転車で走破したことになる。えらく遠くまで来たものだ。
海の家のバイトは、朝8時から仕込みをはじめ、5時まで働いて日給は8000円。しかも部屋を一つ貸してもらうし、食事つきときている。僕は浪費家ではないし、悪くないどころか、今の生活では考えられない、最高の待遇だった。
海の家 Great Oceans Road は、主人のナオキと、その娘ミチルとの共同経営だった。ナオキは、サーフィンをする片手間に、この海の家を始めたと言っていた。昔はプロだったらしいが、今ではアマチュアの大会にも多く出場し、そのために海外に行くことも多いらしい。この海で若者にサーフィンを教えながら、夏季は海の家と、ダイビングやサーフィンの指導のダブル経営で、生計を立てているらしい。
僕はそこに夏の間世話になることになった。勿論、これからの行く道を決める、僅かな猶予期間に過ぎない。ここでいつまでも寄生しているわけにもいくまい。それだけはわかっていた。
いずれ僕の正体がばれることも、わかっている。存在を抹消でもしない限り、それをごまかすことは不可能だ。
とにかく今は、誰にも騒がれずに、自分がどうするか考える時間が欲しい。
それさえ分かれば、この人達の前からもすぐに消えようと考えていた。
娘のミチルには5歳になる息子がいた。それがタケルだった。父親のことは深くは訊かなかった。状況を見ればバツイチであることは明らかだし、僕はデバガメ根性が元々薄い。
しかし、目のない男がいるものだな、と思った。僕と同じくらいの背丈に、すらりとした、女優のような線の細さ、別に派手好きとも、金遣いの荒い、高飛車な女とも見えない。家事もこなす、快活な、素晴しい女性だと思うけど。
いくら年上で子持ちのバツイチだとしても、きっとユータと並んだら、モデルみたいに背の高いカップルとして、街中の人が振り向くカップルになれそうだ。
僕はサッカーでも、勉強でも『一騎当千』の男だ。
厨房でも、それは例外ではなかった。
海の家、Great oceans roadでは、ナオキはスキューバとサーフィンのレッスンを申し込んでいる。1日各2回の計4回、90分のレクチャーで、飛び入り参加も可、ほとんどそれに付きっきりだ。
ミチルは家の中の、およそ50の席と、砂浜で食べたいという客の料理を厨房で担当している。そして毎年、アルバイトは、その注文を聞く役だったらしいが……
「僕に厨房をやらせてください。絶対につぶれませんから」
人目につきたくない僕は、それをミチルに頼んでいた。
「そう? でも、厨房は一番大変よ? 一人で満員でもさばかないといけないんだから」
ミチルは心配したが、僕は厨房に入り、中をチェックした。
海の家の厨房は、大鍋に常に熱湯の煮えたぎる、うどん、蕎麦などの茹で場に、とうもろこしやフランクフルトを焼くガスコンロ、作り置きしてあるカレーやもつ煮込み、おでんなどが用意されていて、うだるように熱かった。カキ氷や、ビールなどは外の人間が出してくれるらしい。とにかくこれを回せばいいわけだ。
僕がそれを一通りチェックしている間に、海の家は開店となった。
海開き間もないということと、夏休み突入はじめということで、海水浴場は多くの客が押し寄せた。
それでも、僕にかかれば、海の家の厨房を一人で回すことなど、造作もなかった。
焼きもろこしやフランクフルトは火が通るまで時間がかかるから、離れていても、商品が焦げることはない。うどんや蕎麦も、麺が茹で上がるタイマーをかけているし、そのタイムラグを完璧に計算しながら、作り置きの商品を作ればいい。
サッカーでも、集中力と、相手の動きの読み、計算によって、日本屈指のプレーヤーまで上り詰めた僕は、その時間差の計算も間違えず、既に最速の行動が頭の中で構築されていった。故にこの海の家の収容人数程度では、いくら客が入っても、潰れることはなかった。
ミチルとの連携も上々だし、僕の仕事ぶりに、ミチルは驚きっぱなしだった。むしろ料理の提供スピードが速すぎて、ミチルの方が運びきれないくらいだった。
クソ熱い厨房で、地獄のような状態だったけれど、僕にとっては心地いいほどだった。何もしていなければ、これからの自分や、昨日のフラッシュバックに苦しんでいただろう。こうして何かをひたすらやることで、何も考えずに済む状態が、今の自分にはとてもありがたかった。
それでも、営業終了の5時になる頃には、僕は精根尽き果てていたけれど……
死屍累々な状態の厨房を、朝からの筋肉痛がぶり返した体で、閉店作業の掃除を始めた。
やがて掃除も終わり、僕はミチルに呼ばれ、店の外へ出た。
「お疲れ様。ユーイチくん、すごかったわ。あなたの料理のスピードが速かったから、回転がよくて、売り上げはここ5年で今日がトップよ」
「はぁ……」
確かに海の家は、回転率が全てだ。客単価が低いから、多くの客をさばかなければならない。勿論薄利だから、人件費も裂いて。
そういう意味じゃ、日給が8000円のバイトが一人で厨房を仕切れたなら、上出来だろう。
「一緒に外で、かき氷でも食べない?」
そうミチルに言われ、僕は海の家から、海岸に出てみた。
「……」
目の前には、人気の少なくなったビーチの向こう……暗くなりかけた水平線に、沈みかけの夕日が、海をオレンジ色に、空を群青色に染めるサンセットの光景が広がっていた。
それは、言葉を失うほど美しくて……しばらくそれを見つめていた。
「はい」
ミチルは僕の横で、レモンのシロップのかかったかき氷を差し出した。
僕がそれを受け取ると、ミチルはにこっと笑って、海の家の外に出された、パラソルの下の椅子に座った。僕は店の前の砂浜に直接座り、かき氷を口に入れた。一日地獄の釜みたいに暑い厨房にいて、喉がからからだったので、美味かった。僕は海にも、夏祭りにも縁がなかったから、かき氷を食べるのも、生まれて初めてかもしれなかった。
体をクールダウンさせながら、その静かに迫る美しさを、ずっと眺めていた。
浜辺の熱い砂に、頬を撫でる心地よい風。打ち寄せる波の音――オレンジと群青のコントラストに、僕はずっと見惚れていたんだ。
「ユーイチくんは、海を見るのは初めて?」
隣でブルーハワイのかき氷を食べるミチルが訊いた。
「――僕の生まれた街には、海がないので……」
呟くように、そう言った。
「――そっか」
「……」
「あなた、女の子からもてるでしょう」
「え?」
僕はミチルの方を向く。年上の女性が僕をまじまじと近くで見ているのを見て、僕は少し恥ずかしくなった。
「何となく、分かるわ。あなた、女の子を引き寄せる何かを感じるもの」
「そうでしょうか」
「で? 彼女とかはいるの?」
「……」
僕はかぶりを振った。
「――いました」
僕は答えた。
「過去形なの?」
ミチルは首を傾げた。
「……」
「――ごめんなさい、他人の恋を詮索するなんて、おばちゃんだよね」
ミチルは黙り込む僕を見て、恐縮する。
「いえ」
折節、そのオレンジいるの海をバックに、ウエットスーツにサーフボードを担ぐナオキが帰ってきた。ナオキの横には、ちょこちょこと、タケルが走ってついてきている。
「あ、ユーイチ!」
ナオキは僕の許へ走ってきて、僕の手に持つかき氷を見た。
「――食べる? 僕の食べかけだけど……」
そう言って、プラスチックのスプーンでかき氷をすくって、タケルの口元に差し出した。
タケルは針の先のエサに食いつく魚みたいに、スプーンに食いついた。すると、すぐに頭がキーンとしたのか、顔をしかめた。
「……」
何だか、家族に苦しんだ僕に、このタケルの懐きっぷりは、少し愛しい。その上にほだされて、僕はここにいるようなものだから。
僕はかき氷の入った発泡スチロールの器をタケルに渡した。タケルはそれを食べて、ご機嫌になっている。
「ユーイチくん」
後ろから、ナオキがやってきて、僕の横に座った。
「いやぁ、下手なバイト3人雇うより、よっぽど助かったよ。こりゃ、日給も上げなくちゃならんなぁ」
「いえ、こちらこそ、表に出たくないから、勝手なお願いばかりで……」
「もしよければ、夏の間、ずっとここにいたらどうだ?」
「え?」
「タケルも懐いているし、我々も君という人間が、好きになってしまったからな。あてができるまで、ずっとここにいればいい」
――その言葉をきっかけに、僕はしばらくここに留まることとなった。
それから一週間、僕は毎日、早朝はナオキにサーフィンを教えてもらいながら、海の波のポイントを船で回り、昼は海の家で働き、夜は街灯に照らされた砂浜で、タケルとサッカーをしたり、4人でビーチバレーをしたり、本当の家族のように過ごした。
タケルは僕にべったりで、お母さんそっちのけで、寝る時は僕と同じ布団で寝た。僕はミチルに頼んで、原価をほとんど変えずに、カレーやもつ煮込みなどの味付けを改良させてもらった。その美味しさに、ミチルは太鼓判を押してくれ、それ以降、この海の家のカレーやもつ煮込みは飛ぶように売れ、利益も過去最高を更新し続けた。僕の働きぶりに、ナオキもミチルもご満悦で、僕はすっかり二人にも気に入られた。
それはとても穏やかな時間で……これからも、こんな時間が続けばいいと、おもうような……そんな日々だった。
しかし、勿論それは、しばらくのことに過ぎなかった。僕にはもはや、安住の地はなかった。