Ocean
「ユーイチくんは、何であんなところに?」
ご飯、味噌汁、納豆、生卵、海苔、卵焼きに鯵の干物――朝食なので、簡素な食事だったけれど、心が弱っていたので、喉に通りやすい食事で助かった。
しかし、僕の事を本当に知らないんだな。もう僕の名前が、ユーイチ、で通っているし。
「ええ――少し頭を冷やしたいことがあって。家出と言うか……旅と言うか」
語れば語るほど陳腐な話だから、かなり話をはしょってそう説明した。
それにしても、今後はこの偽名を、他の人にも使うのだから、ユーイチ、という呼称に慣れなければならない。名前の反応が遅れると、怪しまれてしまう。
それ以上、3人とも何も聞かなかった。
タケルには「イエデなんかしたら、ママがシンパイするぞ」と言われたけれど。
「……」
僕はこの時、あまりに純粋すぎることは、とても痛いものだと知った。
――朝食が終わると、僕の横にいたタケルは、すぐに走り出し、表で待つリュートの許へ駆けていった。僕は一宿一飯のお礼に、洗いものくらいはすると女性に直訴した。
「あらそう? お店の準備もあるし、助かるわ」
小学校からやっていたから、家事全般は得意だ。洗いものの後、流し台をピカピカに磨くまでサービスした。
それを終えて、僕は表に出てみる。
朝8時の海岸には、まだ人もまばら――地元のサーファーとか、海岸を散歩する主婦のグループみたいな人しか人がいなかった。堤防の上には沢山の小学生の姿があった。自転車に乗る中高生の姿も見える。僕は反射的に、海の家の陰に体を隠した。
女性が、さっきから海の家の開店準備を始めていた。世間は、海開きが始まったばかりだった。海の家の奥の厨房で、キャベツを次々とざく切りにしているのが見えた。おそらく、焼きそばか何かに入れるのだろう。
海の家の中には、ディスプレイに多くのサーフボードが立てかけられており、きらめく波間で華麗な技を決めているサーファーの写真が多数飾られていた。
男はウェットスーツを着て、ボンベを乗せた船で、海のポイントを所々潜って、何かメモを取っている。恐らく、波の高さなどをチェックしているのだろう。どうやらこの海の家は、サーフィンやスキューバなんかの世話もしているようだ。
家の前の砂浜では、おもちゃ屋で売っている子供用のグローブをはめたタケルが、リュートに向けて、赤いゴムボールを投げていた。
リュートは賢いから、タケルの投げたボールにすぐ走り出し、それをくわえると、タケルの許へ戻ってきていた。いう事を聞いてくれたので、タケルは嬉しそうだ。
「ユーイチ! 見て見て!」
タケルは僕を呼んで、もう一度同じ事をやって見せた。リュートも、タケルにもう懐いたのか、ちゃんと言う事を聞く。
「ごめん、そいつも朝ごはんの時間なんだ。ちょっといいかな?」
そう言うと、リュートはまた、僕の方へやってくる。
僕は手持ちの荷物に入れてきた、二つくぼみのある飯皿に、持参のドッグフードと、洗いものの時に汲ませてもらった、コップ一杯の水を注ぎ込んだ。
「ホント、紐もついてないのに、よくついてくるわね」
タケルの様子をずっと見ていた女性が、僕の横に寄ってくる。
「ユーイチ!」
タケルに呼ばれて、声の方向を向く。
タケルはさっきまで持っていたゴムボールを、僕に投げつけてきた。僕は右手でそれを受けた。
「キャッチボール、やってよ!」
「……」
キャッチボールか……でも、せっかくこの家族に、飯までご馳走になっちゃったんだ。
一芸くらい披露しても、いいかな。せめて、何か楽しませないと。
僕は立ち上がり、ボールをひょいと中に上げると、足でそれを受け止め、ゴムボールでリフティングをした。
「すげぇ!」
タケルが驚くほど、僕のリフティングは、ボールが足に吸い付くような上手さだった。足の入れ替えや、ヒールキックなど、技術を披露してのリフティング。ゴムボールなんで、コントロールには慣れないけれど……
僕はボールを蹴って、タケルに返す。
ボールは基本通り、胸に返るが、タケルはボールをグローブでたどたどしくキャッチする。
僕は両手を開いて、もう一度ボールを呼んだ。
タケルは豪快なモーションで、ボールを投げる。
僕はそのボールを胸で受け、足でボールを落ち着けてから、もう一度ボールを蹴って返す。
「へぇぇ、上手いもんだ」
しとどに濡れたウエットスーツのまま、海から上がってきた男が、こっちに歩を進めながら、言った。
「ホント、ユーイチくん、サッカーでもしていたの?」
女性が訊いた。
「……」
この人達は、本当に僕の事を知らないのだろうか。それとも、僕の事を知っているけど、まさか本物だと気付いていないのか。
「それ、どうやるの? おしえて!」
タケルはそれを見ると、すぐに僕に引っ付いてきた。好奇心旺盛な子だ。
僕がこのくらいの年の頃は、一体どんな子供だっただろう。もう塾で、高度な勉強をしていたかもしれない。いずれにしても、あまり記憶がない。
「ねえ、お父さん。彼に、頼んでみない?」
「あぁ、俺も同じ事を考えてた」
僕がしばらく、タケルにリフティングのやり方を教えていると、男が僕に話しかけてきた。
「ユーイチくん。よかったら数日、この海の家で働いてみないか?」
「え?」
「俺はナオキ。こっちはミチル。二人でこの海の家を経営しながら、ダイビングやサーフィンの指導もやってる。それにライフセーバーの真似事もな。ちょっと先月まで、サーフィンの大会のために、フロリダに行っていて、この前帰ってきたばかりなんだ。この海の家のアルバイトもまだ見つかっていなくてな……」
「……」
そうか、先日まで海外にいたのでは、ここ半年で騒がれ始めた僕を知らなくても、無理はない……か。
「働くのが無理でも、数日タケルと遊んでやってくれないか? どうやら君と、その犬の事を気に入ってしまったみたいだし……」
これからあてのない僕にとって、決して悪い話じゃない。
だけど――僕は顔が知れ渡り過ぎている。今のままでは表に出て仕事をすることは出来ない。
「ユーイチ」
タケルが、僕の短パンの裾を引っ張った。
「オレともっと、あそんで!」
「……」
タケルのその純真な瞳を見て、自分が意外に子供が好きだと気付いたのと同時に、誘いを断る理由が心の中で、溶かされていった。
「――あの」
僕は顔を上げる。
「ハサミを、貸してもらってもいいですか?」
「……」
僕の言葉に、ミチルは首を傾げながらも、家からハサミを持ってきた。
「失礼」
僕はそう断って、ハサミを受け取ると、自分の長い髪をざっくりと切った。砂浜に、僕の髪の毛が落ちて、風にさらわれていく。
「ユーイチくん」
ミチルが声をかけた。
別に長い髪にポリシーがあったわけじゃない。貧乏だった頃、美容院なんかで髪を切る金もなくて、伸ばし放題になっていた時の名残だ。普段髪を切るのが面倒くさかっただけで、そのせいで結果女性に間違われたりもしたけれど。
やがて、髪を1センチほどに切り揃え、僕は顔を上げた。
「あまり、目立つ場所では働けませんが、厨房とか雑用なら喜んで働きます。どうか、よろしくお願いします」
この言葉をきっかけに、僕は海の家 great oceans roadの居候兼アルバイトをすることになった。