Wake
「ちょっと! お父さん! 男の子が倒れてる!」
若い女の声が、脳の奥深くまで、届いた気がした。
僕は目を覚ます。
ゆっくりと目を開けると、体が芯まで冷えているのがわかった。潮風のせいだ。体温が落ち込んでいて、生暖かい七月の風の中、寒気まで覚えた。
体も、ひどい筋肉痛が苛んでいたが、ゆっくりと、上半身だけ起こした。髪の毛から体から、細かな砂がサラサラと落ちた。
細い脛が現れた、七部丈のジーンズと、赤いTシャツ、ウインドブレーカーのような羽織を着た、24歳ほどの女性が立っていた。
頭を振って、状況を識別しようとする。
「……」
そうだ――僕は昨日、親父を半殺しにした挙句、この世で唯一愛する人まで殴ってしまった。気がついたら、とにかく何かから逃げたくて……
正直その相手は警察でも、家族でも、知人でもなかった。ただ、僕の頭の中に流れ込んでくる、多くのフラッシュバック――悪夢のようなイメージからだと思う。不思議と、自分が何かに捕まるとか、有名人だった僕へのマスコミの反応というのは、この時点ではまるで恐れはなかった。
自転車で、こんなところまで来てしまった。埼玉には海がないし、かなり遠くまで来たのだと思う。
しかし、そこまで自転車をこいで、疲れきっていなかったら、きっと昨日は眠れなかったのではないかと思う。
目を覚まして、早くも僕が、人を殴ったシーンが、頭に蘇ってきた。
「大丈夫?」
女は、僕がまだ寝起きで視線がおぼつかないため、混乱しているように見えたのだろう、心配そうな声をかける。倒れている男に声をかけるなんて、なかなか出来ることじゃないと思う。まだ、僕の体が見た限り清潔だったからかもしれない。犬も連れていたし。
そうだ、リュートは・・・・・・
僕は女の顔を見てから、おぼつかない視線を辺りに向けて、リュートを探した。
やがて、リュートが辺りにいないことを悟り、その女に訊いてみる。
「あの・・・・・・この辺に、犬がいませんでしたか? シェットランドシープドッグなんですけど」
初対面の人間に対する会話のキャッチボールの滑り出しとしては、いきなり大暴投のように思われたが、女は別に気にした様子もなく、答えた。
「君が起きる前にはもう、起きてたよ。朝、君の隣で、ずっと吼えていたから、私達目が覚めて、外に出てみたら、君が倒れていたの。はじめは、もう死んじゃったのかと思ったけど・・・・・・」
何てことだ。隣であいつが吼えていたのに、まったく目が覚めなかったなんて・・・・・・
一応のこと、荷物の中の、財布やら、通帳やらを確認したが、ちゃんと残っていた。どうやら僕は、リュートに守られながら、潮騒の揺りかごで、安眠できていたらしい。滅多なことでは騒ぐ奴ではないのだけれど、リュートは僕の体を察して、SOSを出してくれたのだろう。
「その子はうちにいるわ。うちは、あそこにある海の家なの」
女が指差した方を振り向くと、昨日僕が、ポカリスウェットを買った自販機の隣の海の家だった。
二階建てで、二階にテラスがあり、プラスチック製の白テーブルに椅子が置かれている。屋根から甲子園球場のそれのように、濃緑のツタが下りていて、簡素な白地の家に、明るい緑が映えていた。
件名は、昨日は暗くて見えなかったが、今はよく見えた。白地に黄色のペンキで縁取られた、漫画のふきだしのようなスペースに、マリンブルーのペンキで、Great oceans roadと書かれていた。三段に書かれたその横文字の両脇には、ヤシの木の絵が、老人の背骨のように、内側に曲がって描かれていた。
「そうですか。ご親切に、ありがとうございます。飼い主として、礼を言います」
座ったままで失礼だったが、僕は、女に頭を下げた。
体を起こすと、厭味なほど僕の体は、その運動に拒絶反応を示し出した。こんなこと、正月の三國高校との試合以来だ。昨日で全ての体力を使い果たしてしまったのだろう。
体にこびりついた砂を払っていると、海の家から、パジャマ姿の、ガニ股の中年が走って来た。どうやら、この女の父親らしい。やせぎすな印象に、狐色の肌は、年齢を感じさせない若々しさがあった。イイジマに雰囲気が似ている。明らかにスポーツマン風な男。
「おお、生きとったか。びっくりしたぞ。ドザエモンかと思ったからなぁ」
僕は二人に促されて、海の家に案内されると、入り口の前、二段しかない階段の下で、リュートはまだ、小学校に上がったばかりのような大きさの少年に撫でられていた。
僕を確認すると、すぐに駆け寄ってきて、僕に飛びついてきた。僕は座ってそれを待ち受け、抱きしめてやった。リュートは僕の頬を舐めた。
「む~」
さっきまでリュートにじゃれていた少年は、リュートがあっさり僕の方に来てしまったことに、ちょっと不愉快そうな顔をした。
「あらあら、飼い主によく懐いているのね」
「ええ・・・・・・」
僕は荷物を肩にかける。リュートにえさをやりながら、これからどうするか、少し考えなくては……
「ちょっと待って」
女性が僕を呼びとめ、僕は顔を上げる。
「体、砂まみれだし、シャワーくらい貸すわよ? よければ、朝ごはんも、どう?」
「え? いいんですか?」
「ええ。タケルも、そのワンちゃんと遊んでもらえたし……そのお礼」
こんなことになって、もらえるものはもらっておいた方がいい。勿論僕は承諾した。
しかし、見ず知らずの人の家に上がる以上、身分を証明できるものを提示できればよかったのだが、あいにく僕は、そんなものを何も持っていなかった。
女性は僕に、まずシャワーを貸してくれた。体が潮風で冷えきっていたので、ありがたかった。シャワーから上がると、僕は自分の鞄から、新しいTシャツと短パンを出して、食卓の席に向かった。
畳の部屋に、ちゃぶ台があって、そこに胡坐をかいての食卓だった。そこには、さっきの中年の男と、リュートにじゃれていた、5歳を少し過ぎたくらいの男の子がいた。
「オレ、タケル。お前は?」
少年が僕の隣に座って、そう訊いて来た。
「こら、タケル。お客さんにお前なんて、失礼だろう」
上座に座る男が、新聞を読みながら、少年を叱った。
「なぁ、あのイヌの名前は?」
少年はお構いなしに質問を続ける。
「あぁ、あいつはリュート。それで、僕は……」
言いかけて、言葉を止める。
どうやらまだこの家族は、僕の正体に気付いていないようだ。そりゃそうだろう。まさか連日テレビを騒がしている僕が、朝に大荷物を枕に、砂浜で寝ているなんて、誰も思わないだろう。
騙すのは気が引けるけれど……偽名を使っておいた方が、後々安心だ。
「えっと、ユーイチ」
「ユーイチ?」
少年は首を傾げる。なんてことはない、男の名前を考えていた、ユータとジュンイチの名前を合体させただけだ。
「ユーイチ! ユーイチ!」
それでも少年は、僕の名前をしきりに連呼していた。どうやら、僕に懐いてくれたようだ。
見た感じ、新聞を読んでいる男と、あの女性は、夫婦というよりは、親子のようだ。ということは、この少年は父親がいないのかもしれない。
だからかな。僕のような男に、とても懐いてくれる。