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Escape

「シオリ!」

 もう両親なんて、僕の眼中から消えていた。もう、嗜好も掻き乱れていたが、僕は脱兎の如く、倒れたシオリに駆け寄った。

「シオリさん」

 僕に殴られたのを見て、教室にいたユータ、ジュンイチ、マイも、心配そうな声を出す。

さっきまで皆の声が全然聞こえなかったけれど、今はちゃんと聞こえる。もう僕は、さっきまでの殺意に満ちた心が、我に返っていた。

 僕は彼女の前に跪いて、彼女の体を抱き起こした。

「!」

 僕に精神的ダメージを与える目的の親父の裏拳なんかよりも、はるかに大きなダメージだったはずだ。僕の殺意の篭もった一撃を食らって、シオリは右の頬を大きく腫らしていた。左頬に出来ている、親父の裏拳で受けた傷の青痣など問題ではない。シオリの可憐な顔を変形させているその大きな瘤は、何か悪性の腫瘍のようだった。鼻孔からは鼻血が溢れ、シオリの鼻から下は真っ赤に染まり、衝撃で体が震えていた。

 彼女の美しい顔を、こんな……

「ぐっ……うう……」

僕が――僕が付けたんだ。この傷を。

彼女のその、大きな傷と、歪んだ顔を見て、僕の心はもう賽の目に切り刻まれるような痛みを感じ、息苦しさまで感じた。親父に彼女が殴られそうになった時に感じた頭痛と吐き気が、その時の数倍の酷さで襲ってきて、もう自分が正気を保てているのか、倒れているのかも分からなくなった。

 彼女の頬に、僕の涙が落ちる。

 そして彼女は、ふっと目を開ける。

「ケースケ、くん……」

 うつろで、弱々しい目をして……それでも、僕の姿を確認すると、ふっと微笑んだ。

「よかった……正気に戻ってくれて」

「え……」

「目が――いつものあなたに、戻ってるから……」

シオリはふっと、僕を安心させようとしたのか、顔に傷が出来て、痛いだろうに、精一杯笑顔を作って、えへへ……と、力なく声を出した。

そして、その笑い声が、消え行くように力を失って……シオリの体はがくりと全ての力を消失させた。首が後ろ向きにがくりと倒れ、シオリは痛みに気を失った。

「……!」

 その時、僕は気付いた。

シオリを抱き上げる自分の腕も、自分の服も、露出している肌も、もう家族の血でドス黒く染まっていた。シオリの着ている白い服、白い肌が、僕の腕に付く血を吸って、純白は血に汚れた。

僕は――彼女を血に染めた。

何も守ることが出来なかった。

僕の浴びた返り血は――僕の大事な人を汚した。

僕が闇に捕まったせいで、生涯愛し抜くと誓った女性を、こんな……

「う……うわあああああああああああっ!」

 僕はその場で絶叫した。

怖い、とか、申し訳ない、とか、その絶叫は言葉では形容できない。精神の崩壊する音だ。自分の信じ続けたものの崩壊する音を、僕は自分の口から発したのだ。

 気がつくと、僕の足は自然と走り出し、教室を飛び出していた。

学校を出て、そのまま自転車に飛び乗り、全速力でこぎ始めた。

風のように走り、僕は自分のアパートに戻っていた。

中に入り、鍵をかけ、カーテンを閉め、真っ暗になった部屋に、僕は座り込む。

「……」

体が――とりわけ左腕が、疼くように震えた。

彼女を殴った、あの嫌な感触が、僕の左腕に、纏わり付いている。

色んな光景がフラッシュバックした。ジュンイチ、ユータ、シオリが親父に殴られる瞬間、自分が我を忘れる怒りに取り付かれた瞬間、親父を血だるまにする過程。

そして――シオリを殴ったあの瞬間と、シオリの最後の笑顔が……

それが一気に僕の脳に襲い掛かってくる。

「う……」

――頭が酷く痛かった。眩暈を起こしているのか、視界もふらふらする。

「……」

 くぅん、という声。

 横を見ると、部屋で僕を待っていたリュートが、僕に鼻を摺り寄せてきた。今の僕は、自分から漂う血生臭い臭いを、自分の鼻でも感じていたが、それでもリュートは僕に近づいてくる。

――逃げなきゃ。

僕はその時、そう思った。

逃げる対象は? 警察? マスコミ? それとも他の何かか? それも分からなかった。

今の自分は、何かから逃れようとしていることは確かだったけれど、少年院や、マスコミのバッシングというのとは、少し違った気がしていた。警察に自首することも、一瞬頭をよぎったが、心がそれよりも、今は逃げることを望んだ。自分の存在を許容してくれる場が、警察にないということを予感したからだろうか。

思考がまともに働かない今では、よくわからなかった。

 僕は服を脱ぎ、血のついた服を部屋に放り出すと、シャワーで返り血を洗い流した。それから僕はタンスをひっくり返すように、服や通帳やカードを無造作にスポーツバックに詰め込んだ。

 何故そうしたのかはわからない。ただ、考えるより先に、今の居場所を探そうとした。そして、ここは僕のいる場所じゃない、ということを感じた。とにかく逃げたい、という思いだけが、僕の体を突き動かしていた。

 玄関を出る時、一度鞄を置いて、靴を履く。

 そこで、玄関の前にリュートが立ちふさがる。

「……」

 僕は硬直する。リュートはじっと僕の方を見ている。その漆黒の瞳には、何か強い意志が秘められているようで、弱っている僕を一瞬金縛りにさせるに十分な力があった。こいつは賢い犬だから、今の僕の異常さを感じ取ったのだろう。

僕は一瞬迷った。

「お前も来るか?」

 僕は一度部屋に戻り、部屋の隅に置いてある餌と飯皿を荷物に追加して、外に出る。

 ちょっときついけど、自転車の籠に、リュートを入れる。後ろに自分の荷物を、縄でしっかりくくりつけて、僕は出発した。

 見慣れた町をひた走る。観光地で、蟻のように群がる観光客をかわして、5分もすると、めっきり人通りも少なくなり、僕の乗る自転車は、最高速になる。

 このまま世界の果てまでも逃げたかった。

 そう思いながら、この逃げ道の先に、僕が何を見ているのかも分からなかった。何も分からないまま、僕はただ、自転車をこぎ続けた。


 水も飲まず、一度も立ち止まらずに、僕は自転車をこいでいたが、やがて僕の足は、まったく動かなくなった。既に夜中になっていた。

 足をつくと、こんにゃくのようになっていた足は、膝から崩れ落ち、自転車ごと横倒しになった。自転車の前カゴにいたリュートは、倒れ際に飛び出して脱出した。

「……」

人気のない道路に倒れた僕は、立ち止まってようやく、耳に、ざぁ……という音が届き始めた。鼻には、生暖かさの中に、少し生臭いような、潮のような臭い。

 顔を上げると、今まで走ってきた道路の先は、左側に大きくカーブしていて、カーブの突き当りの先は、テトラポットが沢山積まれていて――

 その先には、大きな砂浜が見えていた。その先には、もう暗くて何も見えないが、空に浮かぶ月がゆらゆらと一点に反射して見える。大きな海が広がっているようだった。

僕は、もう踏ん張りが全く聞かなくなった足で、自転車を押しながら、テトラポットを登り、砂浜に歩を進めた。

 砂浜は明るく、近くの街路灯に、オレンジ色に照らされていた。

 僕は海岸に、生まれて初めて来たが、初めて見た夜の海は、世界を暗黒に染めたような不気味さが漂っていた。自分の心の色も、きっと、こんななのだろうな、と思った。

 近くにあった海の家の隣に、自販機があった。今頃足が痛くなり始めたが、僕は、産卵するために、陸に上がった海亀のように、這うようにしてそこへ向かい、ポカリスウェットを買った。

 荷物を置いた場所に腰を下ろした。砂浜の砂は、まるで、僕が取り逃がした幸せのように、さらさらと、僕の指の間をすり抜けていく。

 ポカリスウェットは、疲れきった体に染み渡って、美味かった。

体の渇きが癒されると、泥濘のように重たい眠気がまぶたを圧した。僕は、その場にぐったりと倒れこんで、空を見上げた。

もう僕は、一歩も動けなかった。

 空には、川越では見ることの出来なかった、無数の星が、真珠をばら撒いたように散らばっていた。磯の香りのするこの辺りの空気は、川越よりもスモッグに侵されていないようで、僕は知っている星座を探そうとした。

 北斗七星のある大熊座、北斗七星の七つ目の星の、延長線にある北極星、それを軸に回る小熊座。乙女座の一等星、スピカが、青白い光を放ち、僕の真上にあった。

 突然、僕の頬を舐めるものがあった。リュートが、物欲しそうな顔をして、僕の目を覗き込んでいた。僕は、上半身を起こして、リュートの頭を撫でる。

「そうか、お腹が減ったよな」

 鞄から、飯皿とドッグフードを取り出して、片方のくぼみに並々と注いだ。水を探そうと思ったが、ここらでもう水道を探す気にはなれなかった。自分のポカリスウェットの半分を、もう片方のくぼみに注いでやる。

 リュートは、よほど空腹を覚えていたらしく、あっという間にそれを平らげてしまった。それを見ているうちに、どんどん睡魔が脳を蝕んできた。リュートも、僕に寄り添うように、そこにしゃがみこみ、目を閉じていた。

 まるで、フランダースの犬の最終回のようだった。唯一違うとすれば、天使が迎えに来ないことだろう。でも、今はどうでもよかった。この疲れに身を任せて、眠りたかった。

 潮騒が、二人を、揺りかごのように包み込んでいた。


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