表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
181/382

Collapse

 親父が僕達の方へ歩を進めるのを見ながら、僕は久し振りに、心の底から恐怖した。

今、こいつは僕の一番大切な人に、毒牙を向けている――

 その状況が、僕をこの上なく追い詰めていた。思考が全く働かず、頭がひどく痛くなった。平衡感覚がおかしくなったように視線がふらつき、吐き気がした。今この時、何が起こっているのかも、上手く整理できなかった。

 そんな僕は自分の体で、男の目から、彼女を隠した。まるで動物が、生まれたばかりの我が子を守る姿のように。

 その時。

 僕を強く抱きしめるシオリの体が、ぶるぶると震えだした。

「……」

駄目だ――こいつらはどんな理由があっても、彼女を傷つける。そのシーンを見せつけて、僕を従わせようとする。

 このままでは、ユータやジュンイチのように……

「離れて!」

 僕は言いながら、腰を上げる。

僕が親父の足を止める間に、教室を出て、彼女を逃がそうと思った。

それしかない――彼女をこんな理不尽なことで、傷つけるわけにはいかない。

 だけど、シオリは離してくれない。また、頭をぶるぶると振って、腕に力をこめるのみだった。

「離せない……」

 もう、彼女は涙で顔をくしゃくしゃにしても、語勢を弱めなかった。それくらい、彼女は必死に訴えていた。

「これを離したら、あなたはまた、昔に戻ってしまう……恨みや憎しみだけのあなたに――もう、あなたのあんな辛そうな姿――悲しげな目を、見たくないの……」

「……」

「ケースケ……」「ケースケ……」

 マイに支えられるジュンイチと、這うようにうずくまるユータが、僕の名を同時に呼ぶ。二人もシオリを守るべく、必死に立ち上がろうともがいているが、動けない。

もう皆、分かっているんだ。

シオリが傷つけられるのを間近で見たら、きっと僕の心が壊れてしまうことに。

「……」

 僕は……僕が、大切な人を傷つけた。

 僕が、こいつから、皆を守らなければ……

「フン、お前みたいな奴が、女はべらしてるのか。色気づきやがって」

 親父は、僕達二人の前に迫ってきた。

「早く、離れて!」

 もう一度僕はシオリに叫ぶように訴える。

 これでは動けない。このままでは、シオリが……

 こんな男の、僕への腹いせのために、傷つけられる。

 そんな事をされたら……僕は……

 だけど……

「お嬢ちゃん、そこをどきな。そのガキは連れ帰るからな」

 親父の声がした。

「――分かった」

僕は、苦虫を噛み潰す思いで、声を絞り出した。

「あ?」

親父はそれを見て、足を止める。

「――お前達の、要求に従う。だから、もう……」

「け、ケースケ……」

ジュンイチが、腹を殴られ、上手く出ない声で、僕を止めようと声を絞り出した。

「あはははは! やっと決心したわね」

教室の隅で、僕達の様子を見ていた母親が高笑いした。

「ふふ、そうだよ。はじめからそう言ってくれれば、俺達もこうして学校に来たりしなかったんだ。よくできました」

親父も僕を従わせたことで、優越感たっぷりの笑みを浮かべた。

「……」

 僕は歯を食いしばって、屈辱を堪えていた。さっき切った口元の傷から、血が溢れて、舌に苦い味を残した。

でも――もう、そうするしかない。

もう僕は、自分の甘さでユータとジュンイチ――二人の親友を傷つけてしまった。

この事態は、自分の甘さが招いたことだ。これ以上、こいつらを傷つけられるくらいなら、たった2年だ。耐えなければ……

「――させません」

しかし、そんな円満ムードの教室に、一陣の風が吹いた。

その声に顔を上げると、シオリが僕の前でひざを突いて据わりながら、両手を広げ、自分の体で僕を隠すように、家族の前に立ちはだかっていた。

「お嬢ちゃん、そこをどきな。やっとこのガキも、折れてくれたところだしな」

「……」

親父がにじり寄っても、シオリは威風堂々と構え、道を開けようとしない。

「あんたがしてるのは、日本サッカー界の損失だぜ? アンタの独りよがりでこいつを狭い日本に置いていいのかい? こいつがサッカーをすれば、こいつや俺達には金が入るし、アンタだっていい思いができるし、たくさんの人が喜ぶ。いいことずくめじゃねぇか」

もっともらしいことを言う。

「――そこに、彼の意志はどこにあるんですか?」

シオリは、へらへら笑う親父を、明鏡止水の目で見つめた。

「私はこの学校に入学してから――あなた達のことで苦しみ続ける彼を、ずっと見て来ました。そして、この半年、そのせいで壊れてしまった心を、手探りでも直そうとする、彼の一生懸命な姿も――それを、こんなことで邪魔させたくありません」

「……」

「これ以上、あなた達にケースケくんを傷つけさせたりしません」

「駄目だ! もうそいつは説得には応じない!」

 背中越しに、僕はそう叫ぶけれど、シオリは言葉を続ける。

「ケースケくんは、ずっと、苦しんできたんです……その彼を、もうこれ以上、傷つけないで……」

 背中越しに聞こえるシオリの声は、凛とした、張り詰めた声だった。泣き虫で、大人しいシオリが、この状況で、こんなにしっかりと、言葉を発するなんて……

「へぇ……このガキのことがそんなに好きか? 確かにお嬢ちゃんみたいな娘が横にいたら、こいつも幸せだろうなぁ」

「やめろ! 彼女は関係ない!」

「でもな……」

 そう言いかけると、親父はシオリの頬を、裏拳気味に叩いた。

 僕の前で、シオリは頬を張られ、横にどさりと倒れた。

「シオリ!」

 僕はそばに寄り、床に倒されたシオリの華奢な上半身を抱き上げた。

「う……」

 うつろな目で、僕の方を見る。

 左頬に、青い痣が浮かび上がり……口の中を切ったのか、口元から血が流れ出していた。

 ――ズクン。

 その時、僕は、自分の心臓の音を確かに聞いた。

「あ……あ……あ……」

 彼女を抱き上げる両腕が、怒りと悲しみに震えだす。

 怒りを感じることは、何度もあった。でも、ここまで血液が沸騰しそうなほどに怒りを感じたのは、生まれて初めてだった。

 ぼろぼろと、涙が溢れ出す。そして、体中の血管を締め付けるほど、歯をギリギリと噛み締めていた。

 その時だった。

 彼女を抱き上げ、まったく無防備だった僕の顔面に、親父の水平蹴りが横薙ぎに飛んできた。

 鼻っ柱にヒットしたその蹴りで、僕の体は後ろへ吹っ飛び、一回転して僕は、うつぶせに倒された。

「へっ、俺はお前の幸せなんざ、これっぽっちも興味がねぇ。下手に幸せになって、付け上がるだけなら、ここでお前の幸せとやらを、壊してやるぜ」

「……」

 だけど、僕にその親父の言葉は、もう届いていなかった。

 うつぶせに倒された僕は――

「うっ! ううううっ! ああっ! ああ! ぐっ!」

 そのまま拳を握り締め、地べたに何度も腕や頭を強く打ちつけていた。

 多くの感情が止められずに、大切な人達が傷つけられていくシーンが、何度も頭にフラッシュバックする。

 悔し涙が止まらない。

 それを打ち消すように、頭や拳を床に打ち付けて、自分の無力さを呪っていた。

「ケースケくん……」

「ケースケ……」

 僕が……僕がこいつらを止めておかなかったために、大切な人が傷ついた。

 あの時、完全にこいつらの息の根を止めておけば……

 それをしなかった僕の甘さが、皆を傷つけた。

 僕の、せいで……

 ――ズクン。

 この時、僕がこの半年、親友や恋人との時間で修復していった僕の心は、再び完全に壊れた。

 その衝動的な行動を繰り返し、涙と、打ち付けた跡でぐしゃぐしゃになった顔を上げた時……

「……」

 俺の目には、かつての――

 いや、かつて以上の、殺気に満ちた光を取り戻していた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
もしこの話をお気に入りいただけましたら、クリックしてやってください。 小説家になろう 勝手にランキング
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ