Collapse
親父が僕達の方へ歩を進めるのを見ながら、僕は久し振りに、心の底から恐怖した。
今、こいつは僕の一番大切な人に、毒牙を向けている――
その状況が、僕をこの上なく追い詰めていた。思考が全く働かず、頭がひどく痛くなった。平衡感覚がおかしくなったように視線がふらつき、吐き気がした。今この時、何が起こっているのかも、上手く整理できなかった。
そんな僕は自分の体で、男の目から、彼女を隠した。まるで動物が、生まれたばかりの我が子を守る姿のように。
その時。
僕を強く抱きしめるシオリの体が、ぶるぶると震えだした。
「……」
駄目だ――こいつらはどんな理由があっても、彼女を傷つける。そのシーンを見せつけて、僕を従わせようとする。
このままでは、ユータやジュンイチのように……
「離れて!」
僕は言いながら、腰を上げる。
僕が親父の足を止める間に、教室を出て、彼女を逃がそうと思った。
それしかない――彼女をこんな理不尽なことで、傷つけるわけにはいかない。
だけど、シオリは離してくれない。また、頭をぶるぶると振って、腕に力をこめるのみだった。
「離せない……」
もう、彼女は涙で顔をくしゃくしゃにしても、語勢を弱めなかった。それくらい、彼女は必死に訴えていた。
「これを離したら、あなたはまた、昔に戻ってしまう……恨みや憎しみだけのあなたに――もう、あなたのあんな辛そうな姿――悲しげな目を、見たくないの……」
「……」
「ケースケ……」「ケースケ……」
マイに支えられるジュンイチと、這うようにうずくまるユータが、僕の名を同時に呼ぶ。二人もシオリを守るべく、必死に立ち上がろうともがいているが、動けない。
もう皆、分かっているんだ。
シオリが傷つけられるのを間近で見たら、きっと僕の心が壊れてしまうことに。
「……」
僕は……僕が、大切な人を傷つけた。
僕が、こいつから、皆を守らなければ……
「フン、お前みたいな奴が、女はべらしてるのか。色気づきやがって」
親父は、僕達二人の前に迫ってきた。
「早く、離れて!」
もう一度僕はシオリに叫ぶように訴える。
これでは動けない。このままでは、シオリが……
こんな男の、僕への腹いせのために、傷つけられる。
そんな事をされたら……僕は……
だけど……
「お嬢ちゃん、そこをどきな。そのガキは連れ帰るからな」
親父の声がした。
「――分かった」
僕は、苦虫を噛み潰す思いで、声を絞り出した。
「あ?」
親父はそれを見て、足を止める。
「――お前達の、要求に従う。だから、もう……」
「け、ケースケ……」
ジュンイチが、腹を殴られ、上手く出ない声で、僕を止めようと声を絞り出した。
「あはははは! やっと決心したわね」
教室の隅で、僕達の様子を見ていた母親が高笑いした。
「ふふ、そうだよ。はじめからそう言ってくれれば、俺達もこうして学校に来たりしなかったんだ。よくできました」
親父も僕を従わせたことで、優越感たっぷりの笑みを浮かべた。
「……」
僕は歯を食いしばって、屈辱を堪えていた。さっき切った口元の傷から、血が溢れて、舌に苦い味を残した。
でも――もう、そうするしかない。
もう僕は、自分の甘さでユータとジュンイチ――二人の親友を傷つけてしまった。
この事態は、自分の甘さが招いたことだ。これ以上、こいつらを傷つけられるくらいなら、たった2年だ。耐えなければ……
「――させません」
しかし、そんな円満ムードの教室に、一陣の風が吹いた。
その声に顔を上げると、シオリが僕の前でひざを突いて据わりながら、両手を広げ、自分の体で僕を隠すように、家族の前に立ちはだかっていた。
「お嬢ちゃん、そこをどきな。やっとこのガキも、折れてくれたところだしな」
「……」
親父がにじり寄っても、シオリは威風堂々と構え、道を開けようとしない。
「あんたがしてるのは、日本サッカー界の損失だぜ? アンタの独りよがりでこいつを狭い日本に置いていいのかい? こいつがサッカーをすれば、こいつや俺達には金が入るし、アンタだっていい思いができるし、たくさんの人が喜ぶ。いいことずくめじゃねぇか」
もっともらしいことを言う。
「――そこに、彼の意志はどこにあるんですか?」
シオリは、へらへら笑う親父を、明鏡止水の目で見つめた。
「私はこの学校に入学してから――あなた達のことで苦しみ続ける彼を、ずっと見て来ました。そして、この半年、そのせいで壊れてしまった心を、手探りでも直そうとする、彼の一生懸命な姿も――それを、こんなことで邪魔させたくありません」
「……」
「これ以上、あなた達にケースケくんを傷つけさせたりしません」
「駄目だ! もうそいつは説得には応じない!」
背中越しに、僕はそう叫ぶけれど、シオリは言葉を続ける。
「ケースケくんは、ずっと、苦しんできたんです……その彼を、もうこれ以上、傷つけないで……」
背中越しに聞こえるシオリの声は、凛とした、張り詰めた声だった。泣き虫で、大人しいシオリが、この状況で、こんなにしっかりと、言葉を発するなんて……
「へぇ……このガキのことがそんなに好きか? 確かにお嬢ちゃんみたいな娘が横にいたら、こいつも幸せだろうなぁ」
「やめろ! 彼女は関係ない!」
「でもな……」
そう言いかけると、親父はシオリの頬を、裏拳気味に叩いた。
僕の前で、シオリは頬を張られ、横にどさりと倒れた。
「シオリ!」
僕はそばに寄り、床に倒されたシオリの華奢な上半身を抱き上げた。
「う……」
うつろな目で、僕の方を見る。
左頬に、青い痣が浮かび上がり……口の中を切ったのか、口元から血が流れ出していた。
――ズクン。
その時、僕は、自分の心臓の音を確かに聞いた。
「あ……あ……あ……」
彼女を抱き上げる両腕が、怒りと悲しみに震えだす。
怒りを感じることは、何度もあった。でも、ここまで血液が沸騰しそうなほどに怒りを感じたのは、生まれて初めてだった。
ぼろぼろと、涙が溢れ出す。そして、体中の血管を締め付けるほど、歯をギリギリと噛み締めていた。
その時だった。
彼女を抱き上げ、まったく無防備だった僕の顔面に、親父の水平蹴りが横薙ぎに飛んできた。
鼻っ柱にヒットしたその蹴りで、僕の体は後ろへ吹っ飛び、一回転して僕は、うつぶせに倒された。
「へっ、俺はお前の幸せなんざ、これっぽっちも興味がねぇ。下手に幸せになって、付け上がるだけなら、ここでお前の幸せとやらを、壊してやるぜ」
「……」
だけど、僕にその親父の言葉は、もう届いていなかった。
うつぶせに倒された僕は――
「うっ! ううううっ! ああっ! ああ! ぐっ!」
そのまま拳を握り締め、地べたに何度も腕や頭を強く打ちつけていた。
多くの感情が止められずに、大切な人達が傷つけられていくシーンが、何度も頭にフラッシュバックする。
悔し涙が止まらない。
それを打ち消すように、頭や拳を床に打ち付けて、自分の無力さを呪っていた。
「ケースケくん……」
「ケースケ……」
僕が……僕がこいつらを止めておかなかったために、大切な人が傷ついた。
あの時、完全にこいつらの息の根を止めておけば……
それをしなかった僕の甘さが、皆を傷つけた。
僕の、せいで……
――ズクン。
この時、僕がこの半年、親友や恋人との時間で修復していった僕の心は、再び完全に壊れた。
その衝動的な行動を繰り返し、涙と、打ち付けた跡でぐしゃぐしゃになった顔を上げた時……
「……」
俺の目には、かつての――
いや、かつて以上の、殺気に満ちた光を取り戻していた。