poisonous‐fang
そしてもう一度、攻撃を仕掛けようと、腰を上げかけると、後ろから、ぐいと体に圧力がかかり、僕の動きは止まった。
ユータだった。ユータは、僕の体をしっかりと羽交い絞めて、僕を制していた。
「やめろ! ケースケ!」
目の前の親父は、羽交い絞めを受ける僕を見て、せせら笑ってジュンイチを見下した。
「お前ら、何か勘違いしてねぇか? 俺は自分からは手は出してねぇ。好きでお前らを相手にしてるんじゃねぇんだよ。要はお前が俺達の言うことを聞いて、サッカーをやってくれりゃいいんだよ。その交渉をしてるんだ。それさえ誓ってくれれば、俺達もすぐ帰るんだぜ?」
「……!」
僕は親父の足元でうずくまるジュンイチを見る。
「そんな――そんな勝手な理屈で、ジュンイチを殴ったのかよ!ふざけやがって!」
「やめろ、ケースケ!」
殴りかかろうと勇む体は、またユータの羽交い絞めに制される。
「離せユータ! あいつ、ジュンイチを・・・・・・ジュンイチを!」
荒い息のまま、僕の絞り出した言葉は、苦い敗北感と、屈辱で言葉が詰まった。僕のかつてない剣幕と眼光に、横のシオリが、僕に怯えるような目を向けていた。
するとユータは、強引に僕の体を引っ張り、そのまま押し倒した。僕は仰向けに倒され、ユータは僕の体の上で四つんばいになり、僕の両方の手首をしっかりと掴んでいた。
ふと、僕の頬に、何かが落ちた。そして、僕は見た。
ユータは泣いている。
僕の上で、しっかりと僕の目を見ているユータの表情は、僕が今まで見たことがないほど真剣で、その目からは、大粒の涙がボロボロとこぼれていた。
「やめろケースケ……もうこれ以上――あんな奴の犠牲になるな!」
ユータは声を振り絞って、叫んだ。僕は、ユータに気圧されたのか、抵抗が止まった。
「シオリさん」
ユータはそれを確認すると、顔を上げ、目の前にいるシオリの姿を見た。
「ケースケを頼む」
シオリはすぐ駆け寄った。ユータはゆっくりと僕の枷を解き、体を起こして、僕の体をシオリに預けた。シオリは、膝を折って僕の横に座り、僕の体を黙ってそっと抱きしめた。
彼女は僕の体にしがみついたまま、僕の目を強い眼差しで見つめながら、ふるふると首を横に振る仕草をし、僕を諌めようとしていた。
その間に、ユータはまだうずくまっているジュンイチの元に駆け寄り、手を伸ばした。
「立てるか?」
ユータはジュンイチの手を取る。
「――ああ」
ジュンイチは返事をする。しかし、あれだけ腹を強く殴られたんだ。しばらくは動けないだろう。
「マイさん、ジュンに付いていてやってくれ」
ユータはマイを呼び、教室の隅に行くように指示をした。マイは心配そうな顔で頷いてジュンイチに駆け寄った。
「……」
それからユータは、親父を睨みつけた。
すごい目だった。普段穏やかで、基本平和主義者のユータの目とは思えないような目だった。
「貴様……」
「正当防衛だろうが? 弱いくせに向かってくるから怪我したんだ」
親父は笑みを浮かべて、ユータに吐き捨てた。
「帰れ!」
ガラスがビリビリ震えるような、初めて聞くユータの怒声。
「もう、二度とケースケに近付くな!」
「フン、いやだ、と言ったら?」
親父はユータの気迫を切り捨てる。
「――お前もさっき俺にかかってきたガキも、要領を得ねぇな。俺はうちのガキに、サッカーをやるよう交渉してるだけで、別にテメエらに用はねぇんだ」
「交渉? ふざけるな! あんたがやっているのは、暴力でケースケに無理やり言うことを聞かせているだけだ!」
ユータは激昂する。
「育ててもらってる親に反抗的なガキは、殴ってでもしつける。うちの教育の問題だ。何でもかんでも虐待なんて言葉で片付けんじゃねぇ。こいつが今まで学校を休むようなケガを、俺達は一度も負わせちゃいねぇ」
「クソが! ケガの重い軽いの問題じゃねぇ!」
「……」
うちの家族は、こちらが怒れば怒るほどに、それを小馬鹿にして、相手を追い詰めるんだ。ユータもその術中にはまりかけていることを、僕は察知する。
ここままじゃ、ユータもジュンイチのように……
そう思考した時、親父はユータの横を通り過ぎて、僕の前に再び歩を進めた。
「さあ、帰るぞ。あんまり手間をかけさせ……」
そう僕に言いかけた親父の言葉が止まる。
親父の肩を、ユータが後ろから掴んで、親父の体を制していた。
親父は首だけを後ろに向ける。後ろには、鬼の形相をしたユータがいる。
「……」
硬直。
「で? 掴んだだけで終わりか?」
親父がせせら笑いながら、肩越しにユータに言った。
「……」
ユータは、唇を噛んでいた。
「――いたいなぁ。これ、俺に危害を加えるつもりで掴んでるの? なら俺も、正当防衛の範囲で身を守らせてもらうがな」
「やめろ!」
僕はシオリに抱きとめられたまま、叫んでいた。
「こいつらは関係ない! 関係ない人間を、お前達の事情に巻き込むな!」
「やめて! ケースケくん!」
立ち上がろうとする僕に、シオリはがっしりしがみついて、離してくれなかった。
この時、はじめて自分の目から、涙が溢れ出しているのに気がついた。
親友が僕をかばおうとして、傷ついているのをただ見ているだけ……
その悔しさが、僕の忘れていたはずの憎しみの炎と呼応し、涙を流させる。
その時だった。
親父は僕を見下ろして、せせら笑った。
「やっぱり……こいつらのせいか」
「……」
「半年前から急に調子付きやがって。そうか、こいつらがお前に何か吹き込んだのか」
そう言うと、肩をつかむユータの手を逆につかんで、ユータの方を振り向いた。
親父の睨みに、体は大きいのに、元々人を殴ったり出来ないお人好しのユータは、一気に腰が引ける。
「だが――ダチ一人守れないで、友情か……笑わせやがる」
そう言って、親父はユータを哄笑した。
「ユータ!」
僕は叫んだけれど、もう間に合わなかった。ユータはもう、僕を守るために、平和主義者の自己を捨てて、拳を振り上げていた。
しかし、親父ははじめから、それを待っていたのだ。
拳が入る前に、親父は手近にあった学校の椅子を右腕で掴み、ゴルフスイングのように下段からユータの左足に、椅子を振り下ろした。
「ぐああああああああっ!」
硬いものがぶつかり合うような、ごん、という音と共に、ユータの顔が苦痛に歪んだ。弁慶の泣き所を強く叩かれ、ユータは倒れこみ、足を押さえて悶絶する。もしかしたら、骨が折れたかもしれない。
「あーあ、お前、テレビで見たから知ってるぜ。将来有望なサッカー選手らしいな。可哀想に……うちのガキが、お前より自分のことを可愛がるばっかりに、お前はこうして足をケガするんだ」
親父は狂的に笑った。もうとても精神がまともとは思えない。金に窮したことで、もう全ての事象が崩壊したような、異常な笑いだった。
あいつ……ユータにとって、足がこの先、どれだけ大事が知らないで!
「あ……あ……」
僕はユータが足を打たれ、その場にうずくまる姿を、呆然と見ているしかなかった。
「おいおい、俺を恨むのは筋違いだぜ。お前がさっさとサッカーをやるって決断してくれりゃ、こいつらはケガすることはなかったんだ。こいつらを傷つけたのは俺じゃねぇ。我が身可愛さに、友情を踏みにじったテメエさ」
「話をすり替えてんじゃねぇ!」
涙声で僕は叫んだ。
ちくしょう……ちくしょう……
もう一度苦い敗北感が胸を侵しはじめ、僕は膝の上で拳を握り締めていた。
しかし、その握り拳に、シオリは軽く手を添えた。彼女の顔を見ると、シオリは、涙で潤んだ目を僕に向けて、ただ、首を横に振っていた。
「これ以上、友達が傷つくのは、嫌だろう? 嫌ならそろそろ、こっちにしたがってもらえないかねぇ」
親父の粘着質の声。
「それとも――お前の女も危険にさらす気か?」
その声に、僕の体はぞくりと震えた。
男は毒牙を彼女に向けた。僕達に歩み寄ってくる。