Last-day
終業式の日――その日は埼玉高校では、期末テストの結果が返ってくる日だ。そこで赤点がひとつもなかった生徒はそのまま夏休み、赤点があれば明日から補習――そんな明暗がくっきり分かれる日でもある。
「お、今回は同点か」
今日は朝一番から、国立文系クラスの成績発表が、進路指導室前の掲示板に張り出されている。僕は登校して、下駄箱で待ち合わせていたシオリと掲示板を見に行くと、僕はシオリと同点で学年トップを堅守していた。
「お、じゃないよ。私、今回はあなたのお尻に火を点けようと、勝つつもりでやったのに」
帰国してからというもの、中間テスト分の補習を受けずに実力テストを受け、東大合格クラスの点数を叩き出して以来、僕は体に残る疲れも手伝って、非情に怠惰な学校生活を過ごしていた。シオリはどうやらそんな僕に天誅を下すべく、僕を負かせてやろうと考えていたようだった。
「あれだけサッカーやってて、勉強も少しは遅れたはずなのに……」
「そうでもないさ。オランダでちゃんと勉強はしてたよ。あいつらに付き合ってさ」
そう言って僕達は教室に戻る。
「わはははは!」
なんとも景気のいい笑い声が、廊下からも聞こえていた。
「あ、ケースケ! 見ろよこれ!」
ジュンイチが僕に駆け寄り、手に持っていたA4の用紙を僕に見せてきた。
それは数学のテストで、性格同様大雑把に書かれたジュンイチの名前の横には、赤ペンで68と書かれていた。
「へぇ……」
僕は自分の机に鞄を置く。
「どうだ? お前の突きつけた最低ノルマの50点を大幅更新だぜ!」
ジュンイチは自分がこんな点数を取れたことが、まだ信じられないようだったが、とにかく嬉しそうだ。
「――ま、これくらいやってもらわないとな。オランダで一ヶ月みっちりお前を特訓した意味がない」
「何だよぉケースケ、俺が数学で70点近く取るなんて奇跡だぜ? 冷たいなぁ」
「くっつくなよ、暑苦しい」
県立高校の教室にはクーラーがない。まだ朝の8時を回ったばかりだというのに、既に教室は不快指数70を越えるほどに蒸し暑い。窓が全開に開け放ってはいても、風は生温くて気持ち悪い。
「ま、いずれにせよ、俺もジュンも高校入って初の赤点ゼロだ」
ユータが感慨深そうに言った。
「高校3年目で初かよ……初めて普通に夏休みを迎えるってことか」
赤点なんて取ると、その分休みが減る。何でこいつら、そんな非効率なことをずっとやり続けてこれたのだろう。
「で? サクライくんとシオリは、今回は仲良く同点首位だったのよね」
マイが僕達を見て、仲睦まじいのを祝福するように微笑む。
「だけどサクライくんって、すごいわね。オランダから帰って、すぐ日本の大会に出て、疲れてただろうに……」
「ケースケは、勉強もサッカーもすごいが、それ以上に、コンディションでの好不調の波が小さいんだよな。いつも平均以上のパフォーマンスが出来る――俺も見習いたいもんだぜ」
ユータが言う。アスリートからすれば、好不調の波が少ないというのは、地味な部分だが究極奥義だろう。その意味を知っている故の言葉だ。
「まあいいや。取り合えず無事皆、夏休みを迎えられるということで、俺からひとつ、提案があるんだ」
そう言ってユータは、自分の鞄から雑誌を取り出し、「ジャーン!」という自我擬音と共に、雑誌のページを開いて、僕達に見せた。
その雑誌のグラビアには、青い空、白い雲、きらめく砂浜に水平線、眩しい太陽、ビキニ姿のおねーちゃん――海の写真が掲載されていた。
「俺達の大会が終わったらさ、ここにいる5人で海に行かないか?」
ユータが提案する。
「埼玉だと海がないから、一泊くらい泊まりでさ」
「いいねぇ」
ジュンイチはすぐ賛同する。
「お前達も受験生なのは分かるけど、夏に少しくらい外に出る時間くらいあるだろ?」
ユータはそう言いながら、僕の方を見る。
そんなことを言っているけれど、ユータがわざわざこんなことを提案したのは、きっと僕のためだろう。
シオリを抱きたくて仕方がないという僕の心を見抜いているから、これを機に、シオリを抱いてしまえ、ということ。恋愛に対してヘタレの僕に、センタリングを上げてくれたんだ。
「そうだな――お金が出来たから、そういうのも悪くないかな」
そう言ってから、僕はシオリの方を見る。
「――君は、どうかな?」
「――お金ができたら、行きたいな、ケースケくんと」
「ヒューヒュー」
ジュンイチが高い声を出す。しかしそれ、今時の高校生のリアクションか?
「はは、今ケースケ、シオリさんのギリギリチョップな水着姿に思いを馳せただろ?」
ユータがにやけながら僕を見る。
「な?」「え?」
僕とシオリ、同時に声が出る。
「わぁ、やっぱりサクライくんも、シオリの水着姿、見たいんだ。ワンピとビキニ、どっちが好きなの?」
マイまで僕をからかいに来て、僕は途端に恥ずかしくなる。
シオリの水着姿――体細くて小さいけど、シオリも出るところはそれなりに出てるからな……多分Cカップくらいあるのかな。
シオリって、夏でも肌を露出した服をあまり着ないからな……ビキニなんか着たら、どんな感じなんだろう……
「わ、私ビキニとか、無理だよ。幼児体型だし、体小さいし……」
シオリも真っ赤になって、頭を振る。
「えぇ、でもケースケはきっとシオリさんの水着姿、見たいと思うぜ」
ユータの笑みが更にいやらしさを増す。
「な? ケースケ?」
そしてその笑みを浮かべたまま、僕を見る。その横ではジュンイチが、僕が何と言うのか、期待するような好奇の視線を送っている。
「――そりゃ、見たいよ……」
僕はもう、正直に白状した。変に否定して、シオリのスタイルまで否定するようなことはしたくなかった。
「そりゃ見たいさ、シオリの水着姿……」
「わはははは!」
羞恥的なことを言わされる僕を見て、ジュンイチは大笑いする。
――この野郎。
「じゃ、決まりだな。シオリさんもマイさんも、とっておきの水着を用意してくるといい。二人とも魅力的だから、ナンパもたくさんされちゃうかも知れないけど、そこは二人のナイト様がお守りするってさ」
ユータは女の子だけに見せる、物腰柔らかい笑顔を見せる。
「言っておくが、4人とも俺を差し置いて、夏期講習代わりの勉強会にしちゃだめだぜ。遊ぶ時はきっちり遊ばないと、冬場持たないからな」
「……」
こうしてユータが念を押すということは、やっぱり、夜は二人きりの時間を過ごせ、ということなのだ。
しかし、どうしよう。夜の海を散歩して、花火でもして――僕は彼女の手を引いて、旅館の二人部屋へ。そこに行くと、二人分の布団がぴったりくっついて敷いてあって。
部屋で二人きり――僕もシオリもそんなに話は上手い方じゃないし、お喋りで引き延ばせる時間は、多分1時間が限界。ふと沈黙がやってきたら……
でも、そこから先、距離を縮めるには、どうしたらいいんだろう――そうだ、電気を消そう。電気を消せば……でも、その先は?
そんなことを考えている時間は、僕の人生の中で、とても幸せな時間の一部だったと思う。
空っぽの心を持った僕が、もうすぐシオリのぬくもりを、一番近いところで感じることが出来るまでのところまで来ている。
誕生日ケーキのろうそくに、一つ一つ火を灯すような小さな幸せが、ようやく形になろうとする時が、もう手の届く位置にまで来ている。
そう。そのはずだったのに……
突然勢いよく扉が開いて、教室にいる誰もが、雑談を中断し、その音の方に目を向けた。
担任のスズキが、のっそりと教室に入ってきた。
まだ朝のHRまでには十分以上ある。いつだって時間より早く来たことのない、このさえない男が、何故?
怒られたり、没収されたりすることはないけれど、とりあえず皆、社交辞令として、持ってきていた、校則違反の携帯電話などを、机に押し込んだ。スズキは、戸口に立って、きょろきょろと教室内を見回していたが、僕と目が合うと、ニワトリみたいに動かしていた首の動きを止めた。
「サクライ――」
担任のスズキの青ざめた顔が、いつにも増して、鮮明に写っている。
「さっきご両親が、退学届を学校へ・・・・・・」