Summer
「え? じゃあ結局、ボーナスの2000万、全部返上しちゃったの?」
シオリは僕を見ながら、その大きな目をぱちくりさせる。
「――ああ、契約自体は取り消しの方向で話が進んでいる。これから僕は訴えられて、近いうち、裁判所から債務の強制徴収命令が出される。それで僕の家族の持っている金も、全部回収されて終わりだ」
僕は屋上の手すりに寄りかかる。
「――そっか。じゃあ、あの時の説明は本当だったんだね」
シオリはほっと胸を撫で下ろす。
僕とシオリは、今、埼玉高校の屋上に来ている。まだ時計は7時半を少し過ぎたくらい。
今回の大会の好成績から、僕の人気は今、日本中を駆け巡っている。僕はもう、表ではシオリとまともに外を歩くことも出来なくなってしまった。今ではもう、リュートの散歩にさえ、2人では行けない。こうして屋上という、見晴らしのいい場所でしか、2人でいることがかなわなくなってしまった。
僕はシオリだけには、本当の事情を打ち明けた。ユータ達は家族のことを知らないから、お金を返せば契約は終了、という言葉の意味が正確には捉えきれていない。それを補填した事情は、シオリにしか話せない。
「でも――いいの? 話を聞いている限りだと、多分ご両親は貰った契約金のいくらかは、もう確実に使い込んでいるでしょう? 間違いなく全額は集まらないんじゃない?」
「そうかもね……でも、あいつらにあぶく銭を持たせておくよりはいい」
「……」
屋上に、少し強い風が吹く。シオリの髪が風で少し揺れた。
僕は踵を返してシオリに背を向けて、屋上の手すりの向こうに広がる街並みを眺めた。
「――これからどうするの? お金を返しきれなかった場合は」
「ん? そうだな。JFAに聞いたら、今僕には仕事の依頼が殺到しているらしいんだ。CMとか、広告とか、テレビ出演とか。JFAが依頼されるのは、日本代表のユニフォームを着た僕の肖像権が絡む仕事だけだから、それ以外の仕事も合わせると、僕はどうやら金を稼ぐには、今事欠かない状態みたいだ。そういう仕事をやりながら、地道に返すのもいいし、Jリーグの強化指定選手になって、2、3年サッカーをやって、その報酬で返すのもいいと思ってる。その間、体が大きくなるように、プロのトレーニングも受けてみて、もし体が大きくなったら、1,2年、ヨーロッパのクラブに挑戦するのも悪くないかもしれないと思ってる」
家族は、この金で一生遊んで暮らすと言っていたし、まだそれほど派手な使い方はしていないだろうから、今の段階であれば、それで十分お金が返せると僕は見ていた。下手に違約金などを取られて契約を破棄するより、その方が被害が少ないと読んでいた。
「それか、もしかしたら、大学に行ったら、僕はホストをやってるかもしれないな」
「ホ、ホスト?」
僕の背中に、シオリの素っ頓狂な声が響く。
「実は埼玉高校に届いた僕のファンレターに、ホストクラブの勧誘があってさ。プロに行かずに大学に行く気なら、学生アルバイトでいいからうちで働かないか、って。君なら年間億単位の金も狙えるってさ」
「ふふふ……あはは……」
しかし、僕の背中に、シオリの笑い声がとめどなく浴びせられる。僕は後ろを振り向くと、シオリは本当におかしそうに笑っている。
「どうしたの?」
「ご、ごめんなさい――で、でも、あなたがホストなんてやるの想像したら、おかしくなっちゃって……」
「……」
「――あなた、お世辞とか、女の子にサービスするとか、女の子にへりくだった態度を取ったりするの、絶対無理だもの。絶対あなたはホストには向いてないよ」
「……」
僕だって初めから、ホストになる気なんてない。女の子の前でへりくだった態度を取ると虫唾が走ってしまう、自分のプライドの高さを自覚しているからだ。シオリのことだから、それでも本気にすると思って言ったのに、この反応だ。きっと同じことをジュンイチに言ったら、もう抱腹絶倒して笑い転げられただろうな。
「――だな」
僕は溜め息をつく。
「でも――いずれにしても、気の長い話だね。お金を返すなんて」
「嫌か? この先数年間、貧乏になることが確定している男といるのは」
僕は訊いてみるが、シオリはふふ、と笑った。
「うちの家族が言ってたでしょ? 私はお金のかからない女だって」
「……」
シオリは僕の隣に歩み寄り、僕の横に立って、屋上からの景色を眺める。
「いいよ。私も、今はこうして、あなたや、皆と過ごせる時間があれば、それで十分だわ」
「――そうか」
僕は空を見上げた。入道雲が、空の風を遮っているみたいに、でんと居座っている。
「……」
沈黙。
「あの、ケースケくん」
シオリが風に揺れる前髪を、軽く手で直しながら、僕の横顔を覗き込んだ。
「あの――私がお礼を言うことじゃないけれど、どうも、ありがとうね」
「ん?」
「ほら、うちで言ってくれたでしょ? 家族と戦って、また前みたいにぼろぼろになるまで戦い続けるよりも、私やエンドウくん達と、もっと一緒にいたい、そんな未来を大事にしたい、って。私それを聞いて、すごく嬉しかったの」
「あぁ……」
僕は記憶を反芻する。
「僕にとっては今それが、一番の贅沢だからな」
「……」
それを聞いて、シオリは、手すりに置いてある僕の手の上に、自分の手を重ねて、きゅっと軽く握った。
「……」
僕はふう、と息をつく。
「――本当は、君を離したくないんだよ」
僕は口を開く。
「でも――もうしばらくは、ずっとは君の側にいてあげられないんだ」
「うん、わかってる」
シオリはすぐに頷いた。
「これから、高校最後のサッカーの大会――エンドウくん達とサッカーが出来る最後の機会だもんね。そこで最高の結果を出して、一生忘れない絆を作りたい。だから今は、私に甘えたくない――でしょ?」
「――ああ」
僕は返事をしながら、少し驚き、そして少し嬉しかった。やっぱりシオリは僕のことを、ちゃんと見ているのだと思ったから。
「でもさ、それが終わったら、僕が高校ですべきことはとりあえず終わる。それから先は、受験もあるけれど、その中で君ともっと一緒にいれたらいいな、と思うよ。夏祭り行ったり、買い物したり、遊園地に行ったり、美味しいものを食べに行ったり、一緒に勉強したり、予備校行ったり――」
「……」
「――すまん、随分待たせて、帰ってきたばかりなのに、勝手な物言いだな。甘えたくはないと思っていても、実際は君の寛容さに甘えてるんだよな」
「――でも、仕方ないよ。今しかできないことだもの。私は、あなたが私を必要としてくれる限り、どこにも行かないし……一緒にいようと思えば、いつでもいられるもの」
「……」
その言葉が、僕を切なくさせる。
私と結婚しない? と、前にシオリは僕に言った。少しでも、僕の力になりたいと思って、自分の身を僕に捧げようとした。
それに比べて、僕はそれに応えられるほどのことを、まだ彼女に出来ていないから。
「シオリ」
その思いが、僕を駆り立てる。
「そろそろこうしてこそこそ付き合うのも、やめにしないか?」
「え?」
「彼女がいますって、おおっぴらに公表してもいいか、ってこと」
「……」
「今までそれを言わなかったのは、それによって君や、君の家族の生活に大きな影響を与えるのが忍びなかったからだからな。でも、君のご両親に、交際の許可ももらえたし――もう我慢することもないのかな、って。勿論、君や君の家族にも、少なからず影響のあることだから、家族とも相談した方がいい。すぐ答えることはないけど、もしそれができたら、君ともっと外を出歩きやすくなるしね」
「……」
それを聞いて、シオリは思案にふけるように、屋上から見える空に広がる入道雲を見上げた。
「――なんか、ケースケくん、変わったね」
「え?」
「なんか、私に対しての接し方が……なんか、強引というか、甘いというか――」
「……」
「なんか、私、今のあなたと一緒にいると、変にどきどきしちゃうな……」
「ん?」
「あ、ううん! 何でもない! 何でもないの! えへへ……」
彼女はあわててかぶりを振り、照れ笑いを浮かべた。
「……」
そんな、彼女の恥らう顔が可愛くて。
僕はそんな彼女の顎に手を当てて、くいっと顔を上げさせた。
「きゃっ」
シオリはまだ照れが収まっていないから、びっくりしたような表情で、目をぱちくりさせる。
「強引な僕は、嫌か?」
僕はシオリの目をじっと見る。
「……」
シオリの顔は、みるみる真っ赤になっていく。既に耳まで赤い。早朝の屋上で、誰かが来る可能性が低いとはいえ、学校だし、まさかこんな空気になると思っていなかったんだろう。
「――ううん――嫌じゃ、ないけど……」
シオリは僕の視線を受け止めきれず、目を泳がせて、照れの向け場を探していたけれど、精一杯の声を絞り出して、そう言った。
「――大会が終わったら、覚悟しておいた方がいいかもよ」
僕はシオリの顔に、自分の顔を少し近付けて、わざとらしいほどににっこりと笑った。
「僕、まだ君の事に関しては、今の気持ちを制御できる自信、ないから」
そう言って、僕はシオリの顎から手を離す。
「――なんてね。あまり会えなくて、スキンシップが足りないと思って、少し君をどきどきさせようと思ったんだけど――どうだった?」
そう、今日はここまででいい。大会が終わるまで、きっとお互いの気持ちを整理する時間は少し必要なんだ。
シオリの家出した、初めてのキス以来、僕とシオリの関係は、随分変わってしまったから。
「……」
シオリはそんな僕の言葉を聞いて、目の奥に感情の坩堝が出来ていった。怒っているようにも、恥ずかしがっているようにも見えるけど、そのどれも違う気がする。何かを一生懸命考えているようで、何も考えていない、何も考えられないのかもしれない。そんな感じ。
そんなシオリは、僕から目を逸らしながら、まだ真っ赤な顔のまま、あわてて自分の前髪を手にやり、髪を直す仕草をした。額に少し汗を掻いたのか、細い前髪が何本か、シオリの小さな額に張り付いている。
「怒るなよ」
僕は苦笑いした。
「――怒ってないよ」
シオリは僕に話しかけられ、もう顔を合わせるのを諦めてしまったのか、僕に背を向け、もう一度、屋上からの景色――夏の広大な空を手すり越しに眺めた。
「……」
沈黙。
「――何だか、受験生にあるまじき発言かもしれないけれど」
シオリはそんな景色を見上げながら、遠い目をした。
「今年の夏は、何だか色んなことがいっぱいありそうな気がする」
「――だな」
僕はシオリの背中に微笑みかけた。
「きっと楽しいことでいっぱいさ」
僕、ユータ、ジュンイチの3人は、帰国してから5日間は、サッカー部の練習に合流せずに、休みを貰っていた。オランダで過密日程を戦い、これから夏の炎天下の下、埼玉県予選から、全国までの長い道のりがある。とにかく今は体を休めろという指示があったというのもあるけれど。
実際その5日間、僕はともかく、ユータ達を待っていたのは、1ヶ月学校に出てこなかった分の、盛りだくさんの補習であった。
僕達は5月の終わりに休学届けを出したため、中間テストを受けていない。だから今から中間テストを受けるの。補習はそのための猶予とチャンスを学校が与えてくれたというわけ。
僕は志願により、補習前に、中間テストを受けさせてもらい、平均点98点オーバーを叩き出したため、補習は参加せず、ゆっくりと体を休めることに専念できた。勿論その傍若無人な僕の行いに、僕を嫌う教師達はすごい顔をして僕を睨んでいたが。
そしてその5日間、僕の部屋にはユータ、ジュンイチが入り浸り、初めて僕の部屋で赤点対策勉強会が開かれた。
「おええ……サッカーやってる方がずっと楽だぜ」
ユータはやっとテストから解放されたと思っていただけに、勉強がひどく苦痛のようだった。
「文句言うな。お前はもう試験は俺達とは違うんだからな」
ジュンイチの言うとおり、埼玉高校3年生で唯一就職コースのユータの試験は、学年唯一の特別製になることが決まっている。いわゆる高1でやるような、高校カリキュラムの基礎中の基礎ができていればそれでいい、ということになっている。
だからユータはともかく、ジュンイチは大変そうだ。大阪の合宿からの約1ヵ月半、僕に毎晩数学を見てもらっていたとはいえ、それ以外の勉強はほとんどしていない。ただでさえ試験は受験生仕様になって、難易度も上がっており、範囲も膨大になっているし。
「しかし、ジュンイチ、お前、随分頑張るんだな」
僕はワンルームの、狭く薄暗いキッチンで、湯を沸かしたポットを手に取り、3人分のインスタントコーヒーを入れながら、言った。
「ん? だってよ、このテストでせめて数学50は取らないと、国立受かるなんて夢の夢だしよ」
「……」
いや、マイの目指す東京外語大だと、50でも話にならないけれど、それは黙っておく。こいつにとって数学で50点を超えるというのは、サッカーで全国大会に出場するのと同じくらい途方もないことなのだ。
僕は3人が勉強するには小さすぎるテーブルに、コーヒーのマグカップを置く。
「――て言うか、今日も泊まっていくのか?」
僕は窓際の壁に寄りかかって座る。隣では、リュートがうつぶせになって僕達の様子を見ている。僕は自分のマグカップに口をつける。インスタントコーヒーだが、眠気覚ましに思い切り濃く入れたから、苦くて美味い。
「自分で言うのも何だが、この面白味もない部屋に、よく入り浸れるな」
僕の部屋は、テーブルとテレビ、学校の教科書や参考書類、それと好きな小説が何冊かが入った小さな本棚と、ベッドしかない。元々僕は貧乏暮らしが長かったし、家には寝に帰るだけだったから、家でやる暇つぶしを何も持っていない。
おまけに僕の部屋のベッドは、僕の身長に合わせてのものだから、身長180センチを超えている二人が寝るには足がはみ出してしまう。布団も同様に小さいし、お世辞にも泊まり心地のいい部屋とは言えない。昨日も2人はタオルケットに包まって、フローリングで雑魚寝だったし。
「――確かに、何の面白味もないな」
ジュンイチは部屋を見回して、笑った。
「エロ本の一冊もないんだな。漫画である、表紙のすげ替えとか、机の引き出しの二重底とかも警戒したが、一冊も見当たらなかったぜ」
「……」
「ま、少しは大目に見ろよ」
ユータはマグカップのコーヒーに口をつける。砂糖もミルクも入った、甘いコーヒーだ。
「お前、地元の癖に、3年間一度も自分の家に俺達を招待してくれなかったんだしさ。お前ときたら、いつもバイトがあるから呼べない、だったもんな」
「……」
「それにお前、シオリさんを部屋に呼びたくても、パパラッチされるのが怖くて呼べないんだろ? だから悶々としているんじゃないかと思って、それを慰めるために俺達がお前の寂しさを紛らわせてやろうと思って」
ジュンイチが悪意に満ちた微笑を見せる。
「ま、ここに入り浸るのは、俺達なりの愛だな」
「……」
こんな汚い愛の形を僕は初めて知った。
だが――僕は自分のベッドを見る。
何かの歌の歌詞ではないが、寝返りを打つ度に軋む音のするような、華奢なパイプベッドだ。こんなベッドでAV撮影をしたら、きっとベッドの軋む音が五月蝿くてたまらないだろうと思う。
でも――ここ数日、帰国してからの僕は、確かにこの部屋に帰ると一人悶々としていたのも確かだ。
公然と言うのもどうかと思うが、率直に所憚らずに平たく具体的に言ってしまえば、僕はあれ以来、シオリを抱きたくて仕方がないのだった。
さて、第2部も終盤に差し掛かろうとしています。
この物語は次の第3部で終了しますが、第2部が終わったら、そのまますぐ第3部に行ってしまった方がいいでしょうか。それとも、別キャラのアナザーストーリーをやった方がいいでしょうか?
ただでさえテンポの悪い作品なので、これ以上間延びさせるのもどうかと思いつつ、ストーリーの補填をした方がいいのかとも思い…
一応用意できるアナザーストーリーは、埼玉高校入学後すぐの、シオリ目線でのケースケへの恋を膨らませていくストーリーと、ジュンイチ目線の、埼玉高校入学後からの3バカトリオの歩みについての話なんですけど…どちらか読みたい話があったら、教えてください。別になくてもいいなら、第2部終了後、第3部にすぐ移りますので。