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「ああ、いいぜ。しばらくここ使えよ」
エイジが言った。
「すまん、無理言って」
「何ならうちに来てもいいのに。俺がアパートを探す間にさ」
「いや、お前も色々忙しいんだろう。これ以上、世話を焼かせることは出来ないよ」
僕は契約が終わってすぐ川越に戻り、ミツハシ・エイジと会っていた。
僕はエイジに頼んで、エイジ達のグループが日々たむろしていた、あの廃倉庫をしばらく寝床に貸して欲しい、と頼んだ。エイジはそれを承諾してくれた。
「しかしここ、照明とか、電気もあるし、小山の中には水道もあるんだな」
「その代わりクーラーはない。この時期この倉庫で寝るとしたら、相当寝苦しいぞ。ベッドもないし、寝るとしたらソファーだしな」
「冬よりマシだ」
「ま、それは考えようだな。出来る限り早くアパート探してやるよ」
エイジは、僕よりふたつ年上の20歳だ。だから自分でアパートが借りられる。実際エイジは今アパートを借りて、一人暮らししているし。
僕はエイジに頼んで、もう一部屋、エイジの名義で部屋を借りて欲しい、と頼んだ。勿論家賃をはじめとした諸費用は僕が払う。ボーナスの2000万は失ったが、僕にはまだ日本代表で1ヶ月以上活動したことと、勝利給、キャプテンとしての仕事分の給料が残っている。国立大学4年間の学費を払いながら、4年間生活できるくらいのお金は十分残っていた。
とりあえず、僕はもうあの家に帰る気はなかった。それに、裁判所の強制徴収命令が出る日までは、出来る限り家族と顔を合わせたくない。それさえ出てしまえば、あの家族も完全に無力化、鎮静化するだろうけれど、それまでは、僕とあの家族は顔を合わせれば、必ず憎しみの火種が生まれるだろう。
そんなのはもう沢山だった。オランダから帰り、これから夏の大会もある。過密日程で体の疲れもピークだったし、少しでも今は心身ともに、ストレスから解放されたかった。
「悪いな、無理言って」
「別にいいさ。お前の才能を考えたら、ワンルームアパート踏み倒して、こっちに金の迷惑をかけるとは考えにくいし。お前、金に関してはしっかりしてるもんな」
「でも、万一のこともある。せめてアパートの違約金を払えるくらいの金、お前に渡しておこうか」
「はは、そんなのいいから、今日みんな集めて、パーッとやらないか? ヒラヤマ達も呼んで、お前達の帰国祝いと、祝勝祝いをさ」
「……」
「本当にすげぇよお前ら。俺達はそれに比べりゃちっぽけだけどよ。できたらお前たちと一緒に喜び合いたいんだよ」
――そんなエイジの希望もあって、僕達は夜、再びこの廃倉庫に集まった。
「マイさん、久し振り」
「サクライくん! 久し振り!」
既にユータ、ジュンイチ、マイ、シオリも僕の連絡を受けて、集まっている。シオリはリュートも連れてきてくれた。
「ジュンイチ、お前達は無理に来なくてよかったんだぞ。マイさんと二人きりで水入らずでやっててもよかったのに」
「いいんだよ、サクライくん」
マイが言った。
「私達は、結構オランダに行っている間も、メールとかで連絡取り合ってたし、なんか私も久し振りにみんなといたかったしね」
「……」
「それより、サクライくんこそ、いいの? 大会中、シオリと一度も連絡を取ってなかったんでしょ?」
「て言うか、昨日お前達会ったのかよ」
ジュンイチが訊いた。
「ああ、彼女の家に泊めてもらった」
「は?」「へ?」「え?」
ユータ、ジュンイチ、マイが僕の発言に大きなリアクションを取った。
「ど、どういうこと?」
「ほほう、詳しく聞きたいな」
「何だよケースケ、やりゃできるじゃねぇか」
僕は3人から問い詰められる。
「ケースケ」「ケースケ」
廃倉庫の中には、既にエイジ達の仲間も集まっていて、僕達は子供達に囲まれる。
「ああ、すぐ行くよ」
「おい、ちょっと待てよケースケ! 説明しろって」
シオリの家に泊まった、発言にフラストレーションを残すユータ達を置いて、僕は子供達の手に引かれるまま、倉庫へと入っていく。
「まあいいじゃないか、久し振りに日本に帰って、話すことも、話す時間もたっぷりあるんだ」
倉庫から出てきたエイジが僕に助け舟を出してくれた。
「さ、今日はケースケのおごりだ。とりあえず騒ごうぜ」
そう言って、エイジは僕達を倉庫の中に通す。もう倉庫の中には、エイジの仲間達が勢ぞろいしていて、僕達が中に入ると、拍手が起こった。廃倉庫の高い天井に、音が反響する。
「ケースケ! 試合見てたぞ、すげぇかっこよかった」
「ヒラヤマくんもエンドウくんも、お疲れ様」
僕達を中心に人の輪が出来、ねぎらいの言葉をかけられる。
「ところでケースケ、そういえばお前、中東に行くとか、マスコミが騒いでいたが、その話はどうなったんだよ」
宴の途中で、エイジが僕に訊いた。
「……」
「そうだよ、中東なんて、もったいないじゃないか」
「ケースケ、もっと僕達と一緒にいようよ」
エイジのグループの子供達が、心配そうに僕を見つめる。
「俺達の中には、結構心配してる声も多いんだ。お前のファンが多いからな」
エイジがグループとしての声を代弁する。
「そうそう、今日交渉やってきたんだろ? どうだったか、俺達にも聞かせろよ」
ユータが言った。
「……」
今ここで、契約がどうなっているかを話すのは、得策ではないけれど。
でも、こいつらなら、まあいいか。
「とりあえず今日の交渉で、色々と契約内容に不備があったんで、法的に認められないそうだ。契約はとりあえず取り消しになったよ」
僕が言うと、倉庫内に、明るい声が響いた。
「何だ、よかった。あのサッカーは、中東でやるのはまだもったいないもんね」
「そうそう、やるならカンプノウでバルサをやっつけるとか、それくらいのサッカーして欲しいもんね」
エイジの仲間達が、互いにほっとしたような顔で言う。
僕はそれを見てから、ユータ達の方を見る。ユータ達もとりあえずはほっとしたような顔をする。シオリだけは事情を知っているだけに、僕に微笑を向けていたが。
「よかったじゃねぇか。一時はどうなるかと思ったぜ」
ジュンイチが言った。
「あとは、僕の家に振り込まれたって言う契約金を返すだけだ。それはちょっと手間取りそうだけど、少なくとも、僕はまだ日本にいるよ。これから夏の大会もあるし、お前達ともうちょっとこうして騒いだりもしたいしな」
そう、それが僕の願いだった。
仲間がいて、恋人がいて――それ以外、何もいらない。
僕はもう、そんなささやかな幸せさえあれば、十分だった。
――次の日、約40日ぶりに埼玉高校に登校した僕達は、校門前で早速生徒達に囲まれ、手洗い歓迎を受けた。
サッカー部の後輩達がいっせいにやってきて、僕達はされるがままに担ぎ上げられ、胴上げまでされた。校舎には、僕達3人の名前の入った横断幕や垂れ幕が掲げられており、学校中で僕達の帰国を歓迎していた。
「いやはや、すげぇな」
ユータは恥ずかしそうに頭を掻いた。
――その後、全校集会での報告会があった。ジュンイチの撮ったデジカメ写真をスライドで写しながら、オランダでの色々な体験を語り、好評を得た。
「いやぁ、これから10日間、空き教室使って、俺の撮った写真を展示してくれって、要望があってさ」
ジュンイチの写真は代表選手のオフショットも多く入っていて、生徒達から展示依頼が殺到する騒ぎまで起こった。
「ジュンは世界を回るジャーナリスト希望だもんな、その第一歩ってところか?」
ユータが言った。
「そうかもな。いずれ世界を回りながら、コラムとか書きたいし、自分で撮った写真とかと一緒に載せられたら、きっと楽しいかもな。大学は行ったら、カメラの勉強も、少ししてみるかな」
ジュンイチは自分の撮った写真が好評だったことで、またひとつ、大学に入ってやりたいことが見つかったようだった。
――そしてその5日後。
エイジが探してくれたアパートに、僕はようやく入居。
川越は、ワンルーム相場が6万円以上と、かなり家賃が高いが、エイジのアパートのように、少し郊外に出ると、4万円以下の物件ばかりになる。
僕はリュートを連れて入居するので、多少の家賃は覚悟していた。最悪の場合、大家に内緒でリュートを連れ込もうと考えていたが、ペットOKで、バス、トイレ別で家賃4万2千円という物件をエイジが見つけてきてくれた。さすがに一人暮らしをしているだけあって、物件選びには一日の長があったようだ。
場所は、埼玉高校まで自転車で20分、駅まで30分という不便さだが、それでも僕にとっては天国だった。
入居日には、ユータの母が車を回してくれて、皿や食器など、使っていないものを少し譲ってもらった。ユータやジュンイチ、シオリやマイも引越しの手伝いに来てくれた。といっても、僕自身の荷物はほとんどなかった。荷物は30分で運び終えてしまい、皆で引越しそばを食べた時間の方が長かったくらいだけれど。
結局僕達はその日も遅くまで語り合い、10時過ぎまで、話が続いた。
皆が帰って、僕はリュートとワンルームに二人取り残されると、リュートの頭を撫で、ベッドとテーブル、テレビしかないまっさらな部屋のフローリングに大の字に寝転がった。
「……」
この部屋に住むのは、半年程度。大学に行けば、僕は東京に住むつもりだから、短い間のねぐらになることはわかっていた。
だけど――それでも感慨深いものがあった。理想とは少し違ったけれど、ようやく念願の一人暮らしを迎えることが出来たのだから。
もう家族と関わることも、ほとんどなくなる。これからは自分のことは、自分でやって生きていく。ずっと僕の理想としていた生活が始まろうとしている。
それが出来ることが、嬉しいような、不安なような、二律背反した感情が、どうしても僕を高ぶらせた。
その日はなかなか寝付けなかった。
バルサ…スペインのプロサッカーリーグ、リーガエスパニョーラの超名門クラブ、FCバルセロナの略称。2011年現在、世界一強いサッカーチームとされる。100年以上の歴史を持つ。ちなみに、漫画「キャプテン翼」の主人公の翼くんは現在このバルセロナに所属しており、公式入団セレモニーまで行われている。
レギュラーのほとんど全員が母国スペイン人という特徴を持ち、2010年のワールドカップのスペイン代表のレギュラーは、ほとんどこのバルセロナのレギュラー選手と同じだった。普段からクラブで連携の呼吸を分かっているため、最近のスペイン代表がめちゃくちゃ強い最大の要因でもある。
カンプノウ…FCバルセロナのホームスタジアム。カンプノウで行われる、バルセロナと、そのライバル、レアルマドリーの試合チケットは、世界中のサッカーファンが憧れるプレミアチケットである。