Negotiation
その次の日の夕方、僕は都内の高級ホテルのレセプションルームでユータ、ジュンイチをはじめとした代表メンバーと合流し、記者会見に臨んだ。
「まずは監督、出国当時は惨敗必至として、サポーターからもブーイングを浴びせ続けられる、厳しい戦いでしたが、結果は3位という、日本サッカー史上最高の結果となりましたが、そのことについて……」
まず質問は、当然席の中央に座る監督に向く。
基本的にはこの手の会見は、監督が質問の8割を受け持つものだ。
だが、今回は別だ。
監督にはじめ質問が飛ぶのは、いわば年長者を立てる建前。はじめからマスコミが、会見で多く話を聞きたい相手は、僕だ。
それだけこのチームの戦術が、僕の得意な『竜眼』こと先読み能力を土台として、臨機応変に変わっていたことを、サッカーファンは皆わかっているというわけか。
「サクライ選手、質問よろしいでしょうか」
ほら来た。
無数のフラッシュ、沢山のテレビカメラがこちらに向く。時間はちょうど夕方のニュースを各局がやっているころだ。もしかしたらこの会見はニュースを通じて生放送されているかもしれない。迂闊なことは喋れないな。
「今大会、予選には出場せず、本戦から出場し、国際試合のキャリアもない中で、いきなりキャプテンとなって、チームメイトを鼓舞する姿は、日本国民、皆感動さえ覚えましたが、何か心がけたことはあったのでしょうか?」
まあ、この時点での質問は、こんな感じのぬるい質問に決まっている。あくまでチームでの戦いについてのことを主眼に開かれた会見なのだから、あまり一人の選手の個人的なことにはあまり踏み込めない。
「うーん、とはいえ、別に私一人の力で勝ったというわけでもないですから。このチームは出国前には色々言われてましたが、元々これだけの戦果を上げる力やポテンシャルはあったんでしょう。それを引き出すための、選手同士のコミュニケーションや意見交換を密に行った――他のチームとしたことは変わらないんじゃないですかね」
「なるほど、では次の質問です。今大会、やはり緒戦のメキシコ戦での、サクライ選手のハットトリックが、日本を大いに勢いづかせた要因だと思うのですが、どうでしょう」
「いや、あれは――試合前の選手入場口で、メキシコの選手に女と間違われまして。一緒にダンスでもどう? って言われたのに少々腹が立って――じゃあ踊らせてやるぜ、僕の掌の中でな、って気分になったんで……」
そんな僕の発言に、選手もマスコミも笑いに包まれる。
大会が終わり、最終結果も出ている以上、適当に耳障りのいい言葉を並べる。結果が出た後の会見なんて、自分の発言に責任はほとんど付きまとわないんだから、楽なものだ。
約1時間半の会見は、終始和やかなムードで進み、終了した。どうやら僕達の戦いの反響をこの場が現しているように思えた。
選手達もホクホク顔だ。何人かは僕やユータ同様、海外クラブからのオファーや、練習参加の話もあったらしいし、この大会が自分の名を売り込む大きなきっかけとなったのだから。それをジャンプ台に出来るかはまだわからないけれど。
「では、記者会見はこれにて終了とさせていただきます」
JFAのスタッフである司会が、そんな和やかな空気のまま、会見を打ち切った。フラッシュが無数に焚かれる中、僕達は席を立つ。
その時だった。
「サクライくーん」
突然、席の最前列にいた僕に、マスコミが殺到し、僕は一斉に取り囲まれた。
――やっぱりな。
「サクライ選手、中東チームへの移籍というのは本当なのでしょうか?」
「今までプロ入りを表明していなかったのに、いつからプロに転向しようと思ったのですか?」
「アーセナルをはじめとした、オファーのあったほかのチームを蹴ってまで、中東を選んだ理由はなんでしょうか?」
矢継ぎ早に質問が飛び、マスコミは他社のジャーナリストにお互いもみくちゃにされながらも、僕にマイクを伸ばしてくる。
「……」
やれやれ、まるで芸能人にでもなったような騒ぎだ。基本的に目立つことは好きじゃないんだけどね。
ユータとジュンイチが、足を止めてその様子を見ている。もう二人には、家族のことはうまく伏せながら、事情は話してあるんだ。
「まだ回答できる段階じゃありませんけど、交渉はします。その結果は後日はっきりすると思いますよ」
本当はこの場ですぐに否定したかったのだが、それは出来なかった。否定をした場合、この会見の様子はすぐにメディアを通じて日本中に流れてしまう。つまり、僕の家族も僕が中東に行かないつもりで行動していることがばれてしまう。そうするとあの家族のことだ。僕を妨害してくるかもしれなかったから、僕はきわめて隠密裏に行動をするしかなかった。
会見の後、僕達は会見先のホテルで、JFA会長をはじめとした、日本サッカー界のお偉方の計らいで、祝賀会が行われ、僕達はそれに参加した。
だが、僕はこの場でJFA会長と接触し、今後の交渉に協力して欲しいと頼んだ。当然、日本の至宝を、若干17歳で中東に売り渡すような真似は、日本サッカー界にとっても損失だから、JFAは僕に協力的だった。JFAとしては、僕に日本に残って日本サッカーの人気を底上げしてもらうか、ヨーロッパの強豪クラブで活躍して、今後の日本選手のヨーロッパ移籍の太いパイプを作ってもらいたいと願っているのだから。JFAにとっても、僕がこの時点で中東に行くことは、デメリット以外の何者でもないのだ。
協力を得られたことで、まず僕は、JFAの名義で、僕を獲得したチーム、バスコ・ダ・ガマにその日のうちに連絡を入れ、明日すぐに交渉を行いたいと、僕の意志を伝えた。
そして翌日、僕はバスコ・ダ・ガマのスカウト担当と、JFAスタッフの同席の下、都内ホテルで交渉に臨んだ。
交渉に来たのは、中東の、肌の浅黒い中東人で、イスラム教徒なのか、スーツではなく、白いローブのような服を着ていた。当然日本語が喋れないようなので、通訳がつく。
勿論僕も弁護士を連れている。JFAの顧問弁護士、国際法にも詳しい敏腕な弁護士らしい。
「ではまず、そちらがサクライ選手との入団交渉が完了したと言うに足る、契約書類を拝見させてください」
弁護士はまずそう提案する。
当然向こうはそれを交渉理由としてここに来ている。当然僕にそれを見せるつもりだったのだろうし、すぐにそれを差し出した。
「……」
僕は弁護士と一緒にそれに目を通す。契約書は日本語なので、内容も理解できる。
契約書に目を通すと、ちらほらとボールペンか万年筆かでの直筆の部分がある。家で見ているから知っている。これは親父の字だ。
オヤジ達の言うとおり、契約は2年、契約金は、報道よりもさらに多い600万ユーロ。ご丁寧なことに、この契約を途中破棄した場合、契約金を全額返金、しかも300万ユーロの違約金が付くとまで書いてある。
ふざけやがって。僕がこの契約を断ったら、ただでは済まない用件を作り出して、無理やりにでも契約させようとしてやがる。おまけに契約書には、親父の名前の下に、僕の名前が書かれており、親父の方は名前の横に既に拇印、僕の名前の横には、僕の実印が既に押されている。オランダにいっている間、自分の部屋の、鍵付きの引き出しの中に保管しておいたのに、どうやら鍵をぶち壊して、実印を持ち出したようだ。
「あの、この印鑑と、僕名義のサインは、誰が?」
弁護士の邪魔はしたくないが、僕は訊いた。
「ああ、それはお父様とお母様が。サクライさんは、元々ご両親には、プロであれば、行くチームはどこでも構わない、僕は忙しいから、いい条件のところがあれば、契約しちゃっていいよ、と、言い残しているとのことで」
「……」
そんな人生の大事を、親とはいえ、自分で判断せずに決めると思うか普通。なめてるのか。
「なるほど――でも、これではっきりしましたね」
弁護士は、視線を契約書からはずした。
「あなた方はオランダで、サクライ選手に交渉を持ちかけている。その時サクライ選手は言っています。今は大会中で、明確な答えは出来かねる、大会が終わったら、熟考の後、返事をする、と。そう言ったことは、オランダでサクライ選手と一緒にいた、日本代表スタッフも確認、証言を得ています」
その通り、僕自身は覚えてはいないが、僕の手帳には、オファーを出してきたチームがひとつ残らず記されていた。このチームも、あまりに多く集まったオファーに記憶が曖昧になっているだけで、僕とオランダで接触している。そして、僕は全チームに向けて、弁護士が言ったように、現在は契約の話は出来かねる、と、宣言している。
「つまり本人には契約を現時点で行う意志がないことを明確にここで表している。確かにサクライ選手は未青年で、制限行為能力者です。その代理人は親権所有者、すなわち両親であり、両親がサクライさんの代理人をしていた、ということは、確かに説明が付きます。ですが、この場合の契約には、いくら実印が押されているとはいえ、本人が押し、自署したものでない以上、サクライ選手が追認したという証拠にはありません。まだサクライ選手は代理人の代理行為に対する追認拒否権を持っていますし、そもそもサクライ選手の契約に対する意思表示と、両親に伝えた、契約してもいいよ、という意志には明らかに錯誤が見られます。よってこの契約は、サクライ選手とご両親の間、そしてそのご両親と、契約者様の間に、意志の錯誤があったこともあり、サクライさんが追認拒絶すれば、契約は取り消し、無効となります」
「……」
民法95条の錯誤の要件は4つ――意思表示の存在、意思と表示の不一致、表意者がその不一致を知らない、法律行為の要素部分に錯誤があること。これさえ揃えば、錯誤があって行った法律行為は無効となる。
僕はオランダで、しっかりと大会中は契約を行わない、と宣言している。だが、両親が何らかの形で勘違いし、僕の契約を両親に一任すると勘違いし、僕はそれを知らなかった。それに僕は、表向きで家族に契約を一任したと告げた意思表示はないし、僕に落ち度がない。
つまりこの契約は、僕の意思表示が、両親の意思表示と一致していないこと、また、大会中は契約をしないと言っていた僕と、それを聞いているはずなのに、契約をいった中東チームの間で2つの錯誤がある。よってこの契約は無効となる。
――まあ、実際は錯誤ではなく、僕の家族が金を得るために、中東チームを騙した詐欺の要件なのだが。だがその要件で揉めると、中東チームは激怒して、僕の家族と衝突することが目に見えている。錯誤という形で、中東チームにも過失があったんだ、という形を取って、契約を無効にするのが、一番波風の立たない方法だった。そう思って、僕は弁護士にあらかじめ、そんな感じで中東チームに過失があることを証明してくれ、と頼んでおいた。
弁護士の説得もあり、初めは中東チームもごねていたものの、元々の契約段階で、自分達が明らかに本人を無視した契約行為をしていたという自覚もあったのだろう。早々に折れてくれた。
「し、しかし、もうこちらは先方に、小切手で600万ユーロを払っているんですよ。これに対して全額払い戻せるんですか?」
中東チームの通訳が、弁護士に聞いた。
そう、それは問題だ。契約は取り消されるということは、遡及効――つまり、初めからなかったも同然という状態に戻すことだ。そのためには、僕も中東チームに、お金を返さなくてはいけない。
だが、僕は現状、家族が隠匿しているその多額の契約金のありかが分からない。その上あの家族は、億ションの頭金か何かを払うために、もう契約金の一部に手をつけてしまっている。僕は未成年者である異常、億ションの契約――つまり不動産契約を一人では取り消せないし、今から僕一人で、600万ユーロを全額回収するのは不可能だった。
だから――
「そのことなんですが、僕を訴えてくれませんか?」
僕は自ら申し出る。
「え?」
その言葉に、中東チームの顧問も目を丸くした。
「残念ながら今の僕は、そちらから受け取ったお金のありかを知らないのです。僕がそれを回収して、今から皆さんに返すことはできません。なので、裁判所に債権回収の強制執行命令を出させてください。勿論、それまでの費用は僕が出します」
そう、契約が無効となった以上、僕には契約金の返還義務――中東チームには、債権回収の権利が出来る。つまり僕は、借金を背負い、それを返済していく義務を負ったのと同じ状態になる。
だが、現状僕には弁済能力がない。なので僕を訴えることで、裁判所に債権回収の強制執行を僕に通達させる。
そうすれば、未成年の僕に弁済能力がない以上、その効力が、制限行為能力者である僕の後見人――すなわち両親に及ぶ。
さすがにあの家族も、裁判所の強制執行の前では、億ションの契約だろうが何だろうが、金を隠匿してはいられないだろう。まだ契約してからそれほど日も経っていないし、一生遊んで暮らすといっている以上、現金はまだ多く手元に残っているはずだし、きっとすぐに返せる。
「――残念ながら、僕がお金を返すには、裁判所の力で口座を差し押さえてもらうしかないんです。お金のありかが分からないので。ですからお願いします。お手間をかけますが、どうか僕を訴えてください」
これが僕の選択した道だった。
中東チームにも過失があることを認めさせた上での契約無効と、裁判所の強制執行を起こさせるために、家族ではなく僕を訴えてもらう。
これが現状、最も波風立てずに僕の身を守る方法だと、僕は判断した。こうすれば、とりあえずは家族の詐欺行為が世間にもれるリスクは最小限に抑えられる。僕がこの先も望む、平穏な暮らしに戻るには、多少の身を切っても、これが最良と判断したのだった。
そして僕は、交渉の後、中東チームに、今大会の3位入賞ボーナス2000万円をまず支払い、僕の無理を聞いてもらえるよう、精一杯の誠意を見せた。さすがに未成年の僕が、そこまでして、それ以上無理強いをすることができないと判断した中東チームは、僕の言うことに従うことを約束してくれた。
「しかし――本当によかったのかい? まだ仕事についていない君とすれば、2000万は大金だろう? あんな簡単に手放してよかったのかい?」
交渉の後、僕はJFAの会長から慰労された。
契約は無効になったとはいえ、僕は相当に身を切った。それに対する同情だった。
「今回、僕の言葉足らずで、あのチームにも手間と損害を負わせましたからね。穴埋めにはならないかもしれませんけど」
それに、どうせ僕を訴えてもらう以上、不必要にお金を持っていても、いずれは差し押さえられてしまうし。
「しかし、裁判所の強制執行がかかっても、全額回収できなかったら、君はその不足分をどう補うつもりなのかね」
JFAの会長が僕に訊いた。当然の質問だ。いくら裁判所が、家族から強制徴収をかけても、使ってしまった分は元に戻すのは難しい。どうしても多少は返還しきれない部分が出来てしまうかもしれない。それは僕も想定していた。
「さぁ――そうなったら大学に行きながら、Jリーグの強化指定選手になるなり、今の人気を利用して、テレビで出演料を稼ぐなりして、何とか返しますよ」
僕は自分の未来を自嘲した。
「それより、この交渉については、絶対マスコミにはオフレコにしてくださいね。この話は、波風立てずに終わらせたいので
いずれにせよ、僕はその後しばらく、中東チームの裁判所への訴えが受理されるのをひたすら待つことになる。
その間、僕にはまた、次の戦いが始まろうとしていた。
高校サッカー、夏の全国大会である。
僕達は今年の正月で高校サッカーを引退するはずが、結局今も高校サッカーに席を置いている。来年の正月まで、席を置けるが、それでは僕達の引退を待っていた2年生に申し訳が立たないため、夏で高校サッカーを引退することを決めていた。
これが、僕、ユータ、ジュンイチが揃って出場する、高校サッカー最後の大会だった。そのため、なんとしても全国優勝を果たし、僕達の名前を高校サッカー史に残したかった。
僕は裁判所による執行の時を待ちながら、その新たなる戦いに、目を向けていた。