Kiss
「どうして? だって、このままじゃ――」
「確かにあれを使えば、100%勝てる」
僕はシオリの顔を見ずに、話し始めた。
「だが、あれをばら撒くことは、僕があの家族に宣戦布告したことになる」
「……」
「話を聞くだけでも分かっただろう。あいつらには罪の意識なんてこれっぽっちもない。だから反省もしない。だからあいつらを本気で止めるとしたら、本当に息の根を止めるまでやるしかない――宣戦布告したら、僕はあいつらの息の根を止めるまで、徹底的にあいつらを殲滅しなくちゃならない――そんな戦いの渦に、身を投じることになる」
「……」
「それに、多分家族は自分の利のために抗うだろう。ゴキブリみたいに生命力があって、そのくせ汚い奴等だ。悪あがきして、戦いが長期化することは目に見えている。宣戦布告して、待っているのは、終わらない泥仕合だ――勝っても僕が得るものは何もない――不毛に争って、疲れきって、消耗して、次第に僕はあいつらに殺したいほどの憎しみを抱くかもしれない。そうなったら、また僕は以前に逆戻りだ。あの家族と、憎しみのみで戦うようになったら、僕はこの半年積み上げてきたものを、自分の手で壊してしまう――君やユータ達がこの半年、教えてくれたことを、否定することになってしまう」
「……」
「――そんなの、出来ないよ」
僕はシオリの横顔を窺う。
「……」
沈黙。
「ふふ……」
僕の口から、力ない笑みが漏れた。
「――君に――逢いたかった」
僕は呟いた。
「家族から、帰国早々その話を聞かされた時――僕の心は酷く掻き乱れた。自分の心が、前のように、闇に染まっていく感覚を感じた。そんな時――君にすごく逢いたくなった。君の笑顔を見たいと思った」
「……」
「情けない限りだが――その時、僕は自信がなかったんだ。自分ひとりで、家族から再び伸ばされた闇に、一人で逃げ切れるか」
そう、僕は不安だった。闇に掴まりたくないと、抗って――
気が付いたら、彼女の許に、走っていた。彼女という、光に向かって。
「でも、君に逢いたいと思って、逢えた時、気付いたんだ。僕がずっと前から、君のことばかり考えていたんだってこと――大阪での代表合宿でも、オランダにいた時でも、僕の心の真ん中に、いつも君がいたんだ。君の言葉に何度も奮い立ったし、君の声が聞きたい、笑顔が見たいと思った。僕は、ずっと前から、君の光に照らされていたんだ」
「……」
沈黙。
――違う。今言っていることは、似ているけれど違う。僕の心に溢れる気持ちじゃない。
「――ねえ、ケースケくん」
その空気を察したのか、シオリは急にもじもじする。
「あ、あの――」
さっきの強気な彼女は鳴りを潜め、普段の謙虚なシオリに戻っていた。
つまり、それは――彼女の不得手な分野、恋愛に関すること。
「あ、あの――さっき、お父さんやお母さんに言ってた、あれ……」
もう僕と目を合わせてくれなかった。目を合わせられないのか。
「その――本気、だったの?」
「……」
その言葉を聞いた時、僕は自分の情けなさに少し笑えた。
もしかしたら――彼女はずっとその返答を待っていたのかもしれないじゃないか。それを女の子から催促させるなんて、僕は本当に甲斐性なしだ。
「――やっぱり、女の子にそういうことを言わせるのは、ずるいよな」
そう呟いてから、僕は彼女の両肩に手を置いて、彼女に僕の方を向かせた。
「あ……」
彼女の頬が赤く染まる。
「逸らさないで」
僕は声で彼女を制する。
「大事なことだから、ちゃんと、目を見て言いたいんだ。だから、聞いて」
そう言ってから、僕は高鳴る鼓動を沈めるように、ひとつ深呼吸して、言った。
「前からも、今も、これからも、僕は、君が――マツオカ・シオリがめちゃくちゃ好きだ。君を、愛してるんだ」
言った。
「だから――もし君が望んでくれるなら、ずっと僕の側にいてくれ」
既に感情はいっぱいいっぱいだけど、さっきシオリの両親に告白した、捨て鉢な気分というのではなくて、頭が妙にクリアになっていた。
でも――言ってから、急に恥ずかしさが襲ってきて、僕の緊張した顔が、一気に緩んでしまう。
「は――はは、言えた。やっと言えた」
僕の喉から、引きつった笑いが漏れる。
考えてみれば、僕はずっと前から、彼女にこの気持ちを伝えたかったんだ。そのためにオランダくんだりまで行って、過去の経歴から、弱気になってしまう自分と戦ってきた。そこまでしてようやく辿り着いた現状に、今更感慨深いものがやってきて、熱い塊を飲み込んだような熱さが胸を満たした。
ああ――痛みに鈍い僕だから、気付かなかったけれど、僕もそれを言えなかったこと、心の底では、辛いと思っていたんだ。
そんなことに気付けたことも、何となく嬉しかった。自分がまた少し、まともな人間になれたような気がして。
「ごめん――君に言う前に、家族に言っちゃって。順番が変になっちゃったから、しまらないな……」
「……」
照れ笑いを浮かべても、シオリは反応しない。ゴローと同じく、呆然としている。
だけど――
そうして、呆然と僕を見つめるシオリの目から、またどんどん涙が溢れてくる。
「お、おい――」
僕は狼狽する。
「ご、ごめんなさい……嬉しくて」
「……」
本当に、涙腺の枯れない女の子だな。
でも――そういうところも好きだ。
笑ったり、泣いたり、悲しんだり、そんな感情が欠落してしまった僕にとって、そうやって正直に表情に出てしまう君のその正直さが、とても好きだと思ったから。
「……」
僕は座ったまま、シオリの肩に手を回して、シオリの頭を僕の肩に引き寄せた。そしてそのまま、シオリの頭を撫でる。
「――シオリ」
普段、さんを付けていたけれど、僕はシオリを呼び捨てにした。
「僕はもう、家族を潰すまで、喧嘩とか、そういうことをしたいんじゃないんだ。そんなことで過去と同じ過ちを繰り返したくない。それなら、君とのこれからの時間を大事にしたいんだ。言ってただろ? 君は僕が合宿にいく前、大会が終わっても、こんなささやかな時間が続くといいね、って。君が今も僕と過ごす、ささやかな幸せを望んでくれるなら、僕はそれを全力で築き、守るよ」
「……」
「僕も、君とのささやかな幸せを積み重ねながら、この先自分が生きていく道を見出したい。この力で、誰かを守り、救える道をもう家族への恨みや憎しみなんて、どうでもいい。君がいれば、僕はそれを捨てられる」
そう、それが僕が、この一日、シオリの家族と過ごして出した答え。
僕はシオリを愛しているし、今日一日、シオリの家族が、どれだけシオリを愛しているかを知り、それを託された。
そして、シオリが望んでいるのは、家族を叩き潰した上に来る平穏なんかじゃない。今までどおり、ささやかな時間の積み重ねでよかったのだと、さっき、アユミとの話で気付かされた。
それで全てわかった。僕がすべきこと、僕が守るべきものは、シオリや、ユータ達と、今までどおり、ささやかだけど、幸せな時間なのだと。
「シオリ――これからは、ずっと君の側にいるから」
「……」
沈黙。
腕に抱くシオリの頭が、少し僕の肩に体重をかけ、僕に体ごと寄りかかるのがわかった。
「――だけど」
シオリは呟いた。
「私は――それだけで十分幸せだけど――でも、あなたを少しでも、自由にしてあげたいよ」
シオリは僕の肩に身を預けながら、言った。
「――あ、あの、ケースケくん」
そして、おずおずと口を開く。
「わ、笑わないで、聞いてくれる?」
「え?」
「き――嫌わないでね」
「どうしたんだよ。大丈夫だよ。言ってみて」
「……」
僕の腕から、シオリの緊張が伝わってくる。
「ケ、ケースケくんって、誕生日、10月だよね」
「え? ――うん、10月31日だけど」
「そっか――」
シオリは沈黙する。
「あ、あのさ、ケースケくん」
深呼吸の音がした。
「も、もしよかったらなんだけど――ケースケくんが18歳になったら――わ、私と、結婚しない?」
「……」
――え?
「……」
シオリの体が硬直するのが手に伝わる。
それと同様に、僕も喉の奥まで硬直して、声が出ない。
「あ、あの――な、何か言ってくれないと、私……」
「あ、ああ、ごめん」
僕は腕を離して、もう一度座り直し、シオリの顔を窺う。
シオリの顔は真赤で、全く余裕を失った表情をしていた。
「びっくりして――で、でも……」
「だ、だってケースケくん、結婚すれば、18歳でも未成年じゃなくなるから――未成年じゃなくなれば、もっとやりたいことを自由にやりやすくなるでしょ? だ、だから……」
「……」
そうか――その手があったんだ。
確かにその手は知っていたけれど、今まで人とのつながりを排除して生きてきた僕にとって、その選択肢はありえないと思っていたから、いつしか頭の外に消してしまっていた。
20歳にならなくても、未成年の肩書きを消せる方法が、一つだけあるじゃないか。
それは、婚姻を結ぶこと――結婚してしまえばいいのだ。
日本の法律では、夫婦となるのに、未成年としての法律行為の制限が残るのであれば、生活に不具合が生じるからという理由で、結婚した未成年者は成年として認められるとされている。
法律上、男の僕は18歳になれば結婚できる。女の子は16歳で結婚できるから、シオリはもう条件をクリアしている。
結婚すれば、僕から未成年の肩書きが消滅する。そうすれば、僕は単独で法律行為も行えるようになるし、両親に握られている親権も消える。今まで以上に、僕は家族から自由になれるし、法律上、家族が僕を縛ることはほとんど出来なくなる。
シオリは別に、幼い感情に任せて結婚を提案したのではない。結婚して、僕の未成年の肩書きを消して、僕を少しでも自由にさせるために、結婚を提案したのだ。
「――だ、ダメかな……」
だがそれでも、シオリは真面目故に、自分の提案があまりに突飛だと、自分で分かっているのだろう。僕にその意味がちゃんと伝わっているか不安で、自信なさげに俯いている。
「い、いや、とっても嬉しいよ。だけど――いいのか? 結婚なんて、そんなことでやっちゃって」
そう、それではまるで僕の都合に合わせて、彼女が籍に入るということじゃないか。それではあまりに彼女に申し訳ない。
「私は、構わないよ」
だけど、シオリは迷いなく、そう答えた。
「私も――結婚するなら、あなたしかいないと思っていたから。ずっと前から」
「……」
迷いない目を僕に向けてそう言った、シオリの言葉。
大好きな女の子に、こんなことを言ってもらえたことが、僕の心をどうしようもない程の幸福感が満たしていった。
「お母さん達も言ってたでしょ? 私、お金のかからない女だし――贅沢は言わないよ。私も働くし、大学に行ったら奨学金だって貰うし。二人で暮らすなら、問題ないよ。だから……」
そう思っても、僕だって、もう、そういうことをする相手は、シオリしかいないと思っている。一生側にいたいし、両親に、シオリを僕にくれ、とも言った。僕だって、シオリとの未来を望んでいた。それはつまり、そういうことではないのか。
だけど――
「あのさ――とっても嬉しいんだけど、まだ無理だよ」
僕は言った。
「未成年の婚姻には、保護者の同意がいるんだ。君の親は説得の余地があるかもしれないけれど、僕の両親が同意することはありえない……だから僕が18になっても、結婚できる条件が揃わない」
「……」
「それに――僕は君のご両親に誓ったんだ。まだ僕は、君をご家族のように笑顔にさせることは出来ていないけれど、いつかそうなれるように、努力を重ねていく、って。だから、そうなれないうちには、君にマツオカの姓を捨てさせるわけにいかないよ。僕が男として、君を幸せにできるまではさ」
「――そっか――そうだよね」
シオリは俯いた。
「ごめんなさい。私、考えなしに――」
「いや、いいんだ。嬉しかったよ。その気持ちだけでさ」
「――い、今頃恥ずかしくなっちゃった。えへへ」
シオリの照れ笑いが出る。
「ごめんなさい――あ、あなたに、まさかあんなこと、言ってもらえるなんて、思ってなくて――わ、私、嬉しくて。ちょっと舞い上がっているって言うか――欲が出たのかな」
「え?」
「――あなたを、独占したい、って」
「……」
「あ、あはは――あなたは、朝顔みたいに、誰のためでもなく、自分のために咲いて欲しいなんて、言ってたのにね、私……」
「いいんじゃない、欲張っても」
照れ笑いを浮かべるシオリに、僕が声をかける。
「え……」
シオリが息を漏らした頃。
僕はもう一度、シオリの体を右手できつく抱き寄せ、左手で、シオリの頬に触れた。
「僕も――好きだって言えて――この気持ちに気付いて、少し欲が出てきちゃったから。おあいこってことで」
そう言って、僕はそのままシオリの体を引き寄せ、自分の唇を、シオリの唇に合わせていた。
その瞬間、シオリの体がびくっと反応し、唇が震えたのが分かった。
でも、抑え切れなかった。ずっと、シオリに触れたくて仕方なかったから。僕達が、初めて欲を現すなら、まずは僕からやらなくちゃと思ったんだ。
「ん……」
どうやら本当に、男とキスをしたこともないようだ。息を止めているのがわかる。鼻息を僕に当てないように、鼻の息まで止めている。
でも――シオリのその小さい唇は、柔らかくて、温かくて、今まで以上に、シオリの存在を近くに感じた。
その次の瞬間、僕の体も一瞬震えた。
シオリの唇に触れたその興奮と、強烈な感激――幸せすぎて、震えるなんてことがあるのだということを、僕は初めて知った。
同時に、少し怖くなる。愛する人と、こうなれたことが、幸せすぎて、離れることを心底怖いと思った。
でも――その震えるような歓喜と恐怖が、僕の想いをよりクリアにした。
シオリ――僕は君を愛している。
離れることは出来そうにない。出来ればこの幸せが、死ぬまで続くように……
その想いに呼応するように、僕の体をシオリの腕が包み込み、そっと僕の体を抱き寄せた。
その時分かった。シオリも、僕と同様に、僕のことをこんなにも求めてくれていたのだと。
口に出さなくても分かる。ニュースを見た時から、本当はずっと僕が中東なんかに行ってしまうんじゃないかと不安を抱えていて――そんなところに行かないで、と、強く思っていたのだと、分かった。
こんなにも、二人の気持ちがふたつに重なっていることを実感できたキスはなかった。僕の生涯の中で、このキスほどに真剣で切実な思いに駆られたキスはなかった。
――これが僕とシオリの、初めてのキスだった。
僕達はこの時、二人が世界から取り残されていてもいいと思う程の幸福感の中で、キスをした。
しかし――
次に僕とシオリが唇を合わせるのは、このキスから7年も後のことになる。
それが、氷のように冷たく、悲しい想いに満ち溢れたキスになることを。
僕達はまだ、何も知らなかったんだ。