Terrace
その時。
僕の着ている短パンのポケットに入っている携帯電話がぶるぶると震えた。
その音に皆が気付き、三者三様の反応が止まる。
「すみません」
僕はそう断ってからフリップを開けて、通話ボタンを押した。
「もしもし――はい、ご苦労様です。はい――そうですか、はい――はい、わかりました。明日の夕方ですね。はい、失礼します」
電話に出て、1分程の会話で電話を切る。
「どなたですか?」
シズカが訊いた。
「ん? JFAだよ。日本サッカー協会」
僕は携帯をふたつに閉じる。
「どうやら僕以外の代表メンバーが、今さっきオランダを発ったらしい。だから明日の夕方、都内で帰国会見をやるから、キャプテンとして何か言うことを考えておけ、って連絡」
電話の主はJFAの事務担当だった。随分と声が弾んでいた。どうやら今大会で、日本サッカーこれにありと、JFAはFIFAに相当アピールできたようだ。日本は近いうち、ワールドカップを一国開催したいと目論んでいるから、それにぐっと近づいたし、よいことずくめというわけだ。僕達の帰国も、凱旋と言っていいということ。
「あ……」
それを聞いて、シズカの顔色が変わった。
「そういえばサクライさん、日本代表のキャプテンだったんですよね」
「……」
「すみません。だってサクライさん、ここに来てからボケ倒しなんですもん。あのサッカーしているサクライさんとは大違いで……」
「……」
まあ、そんな反応をされるのが当然か。実際の僕って、メディアが報道しているより、ずっとダサい奴だからな。
「あ――そ、それじゃ、静かな場所を用意しましょうか。考え事をするのにいいでしょう」
アユミが先程からの流れを仕切り直した。
「2階のテラスに上がってみたらどうです? 静かだし、夜風が気持ちいいですよ」
そう言われ僕は、2階のテラスに一人上がった。テラスは6条ほどの広さで、木造の足場には、チェスのポーンの頭を水平に切ったような形のテーブルと、背もたれのない椅子が2つある。シオリを家に送る際、よく見えていた場所だ。手すりには風鈴がひとつぶら下がっていて、ちりりんという涼やかな音が、風が吹くたび夜風に響く。
「……」
この時の僕は、ちょっと落ち込んでいた。
溜め息。
――まさか、よりによって「シオリさんを僕にください」はなかったよなぁ……
気持ちが高ぶりすぎて、つい勢いで口走ってしまった。
勿論いい加減な気持ちではないけれど、まだ定職もない人間がそれは、ちょっと非常識というか――地に足がついていないガキの言い分だよな。
――おっと、それよりも。
明日の夕方の会見か――そこで間違いなく、僕の今後の去就は質問されるだろうな。
さて、どうするかな……
今の僕が分かっていることが、ひとつだけある。
それは自分がこの先どんな対応をとろうとも、易々と中東に渡るという選択肢を取ることはありえないということだ。
あの家族は、僕がいくら激高しても、自分が悪いことをしているという自覚が全くなかった。それがない以上、あいつらが今の自分達の行為を省み、反省することはない。反省がしない奴は、改心もしない。
この時点で、僕はあの家族と和解することは、今後一切ありえないということが決定した。もはや僕はあの家族に一片の信用も置いていなかった。まさかここまでの暴挙には出るまいと、豆粒ほどの譲歩の欠片を残してはいたが、今ではその自分の愚かしさを呪うのみだった。
母親は、僕が中東にいるのは2年間、それが終われば僕は20歳になっており、親権が切れるから、もうそれ以上は僕に干渉しないと言ったが、そんな口約束、信用できるはずもない。あぶく銭なんて、10万だろうが数億だろうが、馬鹿は数年で使い切ってしまう。都内の億ションをかりて、一生遊んで暮らすなんて言っていたが、親の人生は、日本人の平均寿命を考えれば、あと30年はあるのだ。とてもあの金の亡者共が、一生遊んで暮らせるほど、計画的に金を使うとは思えなかった。
金に窮すれば、あの手この手を使ってあいつらはまた、20歳を過ぎた僕の前に現れるだろう。ああいう手合いとは、口約束なんて屁とも思ってはいないのだ。
それに――なんであんなクズのために、僕がそんなところへ行かなくてはならないんだ。
せっかく親友に、心からの気持ちを伝えられたのに。
僕が今、とても素晴らしい女性を愛し始めたというのに。
その理不尽さを考えるだけで、心がざわざわした。
「……」
家族から、あの暴挙を聞かされた時、僕は確かに感じたんだ。
自分の心の奥底に、封じ込めたはずの、深い闇を。
シオリやユータたちの優しさに包まれ、僕はがらんどうで出来た心をゆっくりと満たし、修復していった。
それは、まだ完了してはいない。今だって、僕はまだ、まともな人間になれたとは言いがたい。ひどく情緒不安定で、感情に流されやすい。自分の力に、感情の成熟度が追いついていないのだ。
それは、つまり――
その時、ガラガラ、と、テラスの後ろの引き戸が開く音がした。
僕は振り向くと、アユミが立っていた。
「ここ、風は気持ちいいんですが、夏は蚊が出ちゃって――蚊取り線香、焚きますね」
「……」
アユミはテラスの隅に蚊取り線香を置き、チャッカマンで火をつけた。線香の独特の香りが広がる。
「あと、アイスミルクティー。よかったら、どうぞ」
カランと氷がグラスに触れる音がして、ミルクティーの入ったグラスを僕の前のテーブルに置く。
「……」
だが、僕はこの時、針の筵というか、再び夏の夜の生ぬるい風の中、背中に嫌な汗を掻いていた。
あの世紀のアホな告白をしてしまった直後だけに。
「ふふ、後悔してるんですか?」
アユミがそんな僕の心を見抜いたように訊いた。
「え?」
「シオリさんを僕にください、って、言ったこと」
「……」
「ふふ、また赤くなった。サクライさんって、何だか可愛いなぁ」
「か、からかわないでください」
虚勢を張るが、僕は顔を上げられなくなる。
「……」
もう10時になるっていうのに、蝉の声がする。
「あの――シオリさんは?」
僕は訊いた。
「あぁ――どうやら恥ずかしくて、部屋に閉じこもってしまったみたいです。うち、シオリちゃんとシズカちゃんは二人で一部屋なんですけど、シズカちゃんは部屋に入れないからって、今、テレビを見てて」
「……」
「お父さんも、ああ見えて娘離れできない人なんで、まだボーっとしてます」
そう言って、アユミはくすくす笑い出す。
「……」
そりゃそうだ。笑われて当然――いや、怒られないだけまだマシかな。
認めたくないものだな。自分自身の、若さ故の過ちというものを。
「でも、私は嬉しかったな」
アユミは言った。
「え?」
「人間、ああいう時に、素の人格が出るんだと思うんですよ。サクライさん、「シオリさんを僕にください!」の前、何て言ったか、覚えてます?」
「え……」
僕は記憶を反芻する。しかしあまりに切羽詰っていたから、何を言ったか、はっきりと覚えていない。
「ちゃんと私達のこと、認めて、気遣って、まだまだ自分は力不足だって、正直に言ってくれたんですよ」
アユミが解答を示した。
「自分の力不足を言い訳にしないで、ちゃんとそのことを私達に謝ってくれた。私達にとって、シオリちゃんが大切な家族であることも考慮しているからこそ、サクライさんもしっかりそれに向き合ってくれた。そして、私達が認めるまで待つって、自分への厳しさも持ってる」
「……」
「それだけで、あぁ、シオリちゃんは本当にいい人から、こんなに愛されたんだなぁ、って、感激しちゃいましたよ」
「……」
アイスティーのグラスを両手で握り締める。ひんやり冷たい。
「あの――怒らないんですか? 力も定職もない男が、あんなこと言って」
「高校生じゃ、それが普通ですよ。たとえサクライさんが、どんな力を持っていてもね」
「……」
「それに、もしシオリちゃんを貰う気があるなら、私達もサクライさんと家族になるんですよ? そうなる気があるなら、もっと甘えてもいいんですよ。私達に。それが家族ってものじゃないですか?」
「……」
沈黙。
そこで、また僕の携帯が、ブーッと振動した。今度は着信ではなく、メールだ。だからすぐにバイブが収まる。
僕は短パンから携帯を取り出し、メールを確認する。
「はっ」
それを見た時、僕の口から息が漏れ、心臓が一度大きく高鳴った。
「どうしたんですか?」
アユミがそんな僕の様子に気付いたのか、訊いた。
「あ、いえ、何でも」
僕は携帯を閉じる。
「……」
また沈黙。風鈴がまたちりりんと鳴る。
「サクライさん」
アユミが口を開いた。
「シオリちゃんのこと、宜しくお願いしますね」
「え……」
「あなたが側にいるだけで、シオリちゃんは笑いますから。それだけで、シオリちゃんは幸せだと思います。今まで一緒にいられなかった分、これからは、あのこと一緒にいてあげてくれると、私も嬉しいです」
「……」
そのアユミの言葉に、僕の思考は一気に光を得、ひとつの答えに達する。
――そうか。初めから僕の取るべき道はひとつだったじゃないか。何でこんな簡単なことに。
僕はテーブルに置いた携帯に目をやる。
さっきのメールは、シオリからだった。
その内容は――
『みんなが寝静まった頃、あなたをはじめに通した部屋で待っています』