Father
僕は心の中で、来たな、と思った。
最大の難関、シオリの父親。
こんなできた女の子の父親だ。さぞかし心配が絶えないだろう。
そんな女の子が、こんな馬の骨にたぶらかされたと思われても、不思議はないと思う。
ずっと前から、会うとなれば、ゲンコツ一発くらいは覚悟しておこうと思っていた。
リビングの扉が開き、蒸し暑い熱帯夜に汗だくになったワイシャツを肌に張り付かせた男が入ってきた。
「あー、涼しいなぁ――」
部屋にほのかに効いている冷房に、ほっと一息ついているその男性は、家族を一瞥し、やがて僕の前で視線を止めた。
「な!」
感嘆の声を上げて、男は腰を抜かす。
「う、うわわ! ホンモノ?」
持っていたビニール袋をどさりと落とし、フローリングにぺたんと座り込んでしまう。何ともコミカルな動きだった。
「あ――」
僕は、何と言えばいいか途方に暮れる。
「ほらお父さん、早く立ってください」
アユミがそんな男を叱咤する。
「ごめんなさいねサクライさん、恥ずかしいところを見せて」
そう言って、僕に会釈した。
「や、やっぱりホンモノなんだな! 本当に!」
男は立ち上がりながら、目をキラキラさせる。
「うおほほほほほほほ!」
そして、声を上げた。
「うわぁ、うわぁ、恥ずかしいところ見られちゃったなぁ!」
「――はぁ」
全く予想外の反応だった。
「お父さん、サクライさんが引いてるよ?」
シズカが溜め息をつく。
「て言うかオヤジ、その袋……」
シュンが椅子に座ったまま、男が腰を抜かした時に落とした袋に目をやった。
「え?」
どうやらそれは、さっきアユミがメールして買わせたケーキが入っているようだった。
男は箱を拾い上げ、ビニールの中の無地の紙箱を開けると、中に入っていたケーキが崩れ、ショートケーキやティラミスがぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。
「オヤジ……」
シュンが溜め息をつく。
「あ――あはははは……やっちゃったなぁ」
頭を掻きながら、照れくさそうに人懐っこそうな笑顔を浮かべる。その照れ笑いは、どこかシオリのそれに似ていて、僕は初対面なのに、何となく懐かしさを感じた。
「も、もう一度買ってくるよ」
そう言って男はその照れ笑いを浮かべながら、リビングを出て行く。
「……」
玄関の扉が閉まる音がした。
「ごめんなさいねサクライさん、うちの人、いい人なんだけど、ちょっと抜けてて」
アユミが言う。
「あの人は、マツオカ・ゴロー。私の夫です。ごく普通のサラリーマンですけどね」
「……」
「どうしたんですか? サクライさん」
僕の様子がおかしいと思ったのか、シズカが気を回した。
「いや――なんか、予想と違う反応だったな、と思って。普通女の子の父親って、僕みたいな存在を嫌うものだと思ってたから」
「うちのお父さん、サッカー見て、あなたのファンになっちゃったのよ」
シオリが言った。
「あなたのオランダの試合、うちで一番熱心に応援してたのよ」
ゴローは本当に、新しいケーキを買って、帰って来た。別にケーキなんていいのに。気を遣われ慣れていない僕は恐縮してしまう。
ゴローはすぐに部屋着に着替えて、食卓に着き、再び6人で美味しい料理を堪能した。
「しかし、シオリがこんないい人をつかまえるなんてなぁ」
ゴローは刺身を口に含みながら言う。
「本当ね。シオリちゃん、意外と面食いなんだから」
「隅に置けないよねぇ」
アユミとシズカもシオリの方を見る。
「うぅ……」
困ったような表情を浮かべるシオリ。
「ま、まったく……シオリも大きくなっちゃって……」
「ちょ、ちょっとお父さん、何泣いてるのよ!」
「オヤジ、そういうの見たら、サクライさん、重いって思っちゃうだろ」
父親が入っても、相変わらず賑やかな食卓だった。5人とも、表情や感情が馬鹿正直で、両親も子供っぽいせいか、親子の垣根も感じない。そこには一切の隠し事がないような、そんな気がした。
こんな、人を信じるのが難しい時代で、ここまで澄んだ心を持つ人達というのも珍しい。この人達からは、現代人にありがちな、心の奥底の腐った臭いを全く感じなかった。
「う……」
「――サクライさん?」
隣のシズカが、僕の横顔を覗き込んだ。
僕の茶碗を持つ手が、静かに震えた。
僕の視界が滲み、僕の目からは涙が止め処なくこぼれた。
「あ、あれ――」
自分でも、何でこんな時に涙がこぼれるのか、わからなかった。
ただ――ずっとコンビニ弁当とか、冷や飯ばかりをひとりぼっちで食べてきた僕は、こんなにぬくもりに溢れた食事は生まれて初めてだった。
心の底が、ぽかぽかと暖かくなって、とても幸せな気持ちだったのに、何故涙がこぼれるのか……
「ど、どうしたんだい? サクライくん」
「何か、お気に召さないことでも?」
ゴローとアユミが、心配そうな顔をする。
「い、いえ、何でもないんです」
僕は慌てて肉じゃがを箸に取って、そのまま左手に持つ茶碗のご飯を一気に口にかっ込んだ。
「う、美味いです。あったかいです」
何とかそう口にして、涙を誤魔化そうとした。
喉を通る暖かさが、僕の心を締め付ける。
――あぁ、これが幸せってやつなのかも知れないと、僕は思う。
幸せ過ぎると、胸が痛い程に締め付けられて、嬉しくて、涙が出る。
こんな、ささやかな場面で、この僕がそんな風に思えるなんて……
「……」
――ああ、そうか。
僕の人生は、ろくでもないことばかり、汚いものばかりだったけれど……
でも――だからこそ、こうして暖かなもの、幸せなことを、より確かに感じられるのかも知れない。
それで、僕のあの、腐ったような日々は、少しは報われるだろうか……
「あ、サクライさん」
そんな僕にシズカが声をかけた。
「食事の後、よかったら、花火やりませんか?」
食事の後、僕とシュンは二人で、マツオカ家の所有する駐車場に出ていた。僕の横にはリュートもいて、大人しく僕の横に座っている。
「そうか、もう7月なんだよな」
「ええ、もう七夕も終わってしまいました」
シュンは夜空を見上げる。
僕もようやく真っ暗になった夜空を見上げる。昼間ほどではないけれど、夜でもまだ蝉が鳴いている。一ヶ月前に見る空と、星ががらりと変わっている。ベガ、アルタイル、デネブ――夏の大三角が見えるようになっていた。
織姫星のベガ、彦星のアルタイルと比べると、デネブは日本ではメジャーさに欠けるが、デネブは太陽の数千倍のエネルギーを持つとんでもない星だ。地球からベガまでは25光年、アルタイルは18光年なのに、デネブは1800光年(推定)も遠くにある。今見えているデネブの光は、聖徳太子が生きている頃や、ゲルマン民族が大移動している時――あるいはもっと昔。諸葛孔明が五丈原で生涯を閉じた頃、デネブが発した光かもしれない。そんな途方もない話を可能にしている星だ。
「全く――たかが家でやる花火で、わざわざ浴衣に着替えてこなくてもいいと思うんですけどね」
シズカの提案で、シオリとシズカは今、自分の部屋で浴衣に着替えており、僕達は先に外で待っているというわけだ。
「しかし――シオリさんとシズカちゃんの性格は随分対照的だね。シズカちゃんはシオリさんより、ずっとませてる」
「ですね。シズカ姉はああいう名前の癖に、やかましい女でして。特に恋バナが大好物なんですよ。男前に弱くて、あなたがサッカーをしている時、アンタもサクライさんみたいな男になりなさいよ、とか、散々言われました」
要は年頃の女の子ということ。
「あなたとのことも、シオリ姉から色々聞いてるようで、きっと、あなたに可愛いところを見てもらえるよう、助け舟を出してるんでしょう。シオリ姉はそういう、自分を可愛く見せるとか、一番苦手な分野ですから」
「なんだ、いい妹じゃないか」
僕は言った。
「シオリさんから聞いた。君は今日、僕を待ってしおれているシオリさんを、外に連れ出してくれたみたいだね。しけたツラしてるなら、外に出ろ、って。君も皮肉屋だが、言動にお姉さんへの想いが見え隠れしている」
「……」
「いい弟、妹だよ。君も、シズカちゃんも」
本当にそう言った。この子に僕の妹の話をしたら、きっと耳が腐るだろうな、と思いながら。
「……」
僕の言葉に、シュンは何か考えているようだった。
「――サクライさん」
だが、やがて意を決したように、僕の名を呼んだ、
「弟の俺が言うのも変ですが、シオリ姉は本当にすごいんです。小さい頃から俺やシズカ姉の世話を焼いてくれて――おまけに努力家で。今もそうです。今だってシオリ姉は、自分よりも、俺達家族のために……」
「……」
「俺はずっと、シオリ姉に甘えてばかりで――でも、俺もそれなりに大きくなって、そういうことにコンプレックスがあるんです。俺も男だし、せめてもっと、しおり姉に心配されない程度の男にはならなくちゃ、って」
そう言うと、シュンは僕に深々と頭を下げた。
「サクライさん、どうかこれから、俺に色々指導をしてくれませんか?」
「え?」
「俺――シズカ姉の言うことも間違ってないと思うんです。俺は男だから――もっと強くならなくちゃ、って。俺も、サクライさんみたいになりたいんです。だから……」
「……」
すごい、これってまるっきり、少年漫画の弟子入りシーンだ。
そして、シュンが僕に初めから興味を示していたのは、ずっとそれを僕に伝えたかったからだということも、わかった。
「――昔、僕に似たようなことを言った人がいたよ」
僕は笑った。シュンは顔を上げる。
「その人は、僕ともっとやりとりをしたい、だったけれどな」
シュンはそれだけでは意味がわからなかったのだろう。怪訝な顔で首を傾げた