表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
162/382

Lullaby


「あ、さあさあサクライさん! 玄関で立ち話もなんですし、どうぞ、上がってください」

 シズカはそう言って、スリッパを僕の足元に置いた。

「今更いい女ぶっても意味ないって」

 隣にいるシュンが冷や水を浴びせる。

「う、うるさい!」

 シズカはシュンの方を見て、むくれる。

「大体、サクライさんはシオリ姉の彼氏なんだ。色目使ったって――」

「私だって、はじめからお姉ちゃんの彼氏に色目使ってるわけじゃないわよ」

 シズカは言った。

「ただ――将来、お兄ちゃんになるかもしれない人だから、今のうちにいい妹振りを見せないとと思って」

「な!」「え?」

 僕とシオリが同時に声なき声を上げる。

「シ、シーちゃん! なな――な、何言ってるの!」

 シオリは顔を真っ赤にして、シズカに詰め寄る。

「え? お姉ちゃん、そのつもりじゃないの? この一ヶ月、サクライさんのことばかり考えて、携帯ずっとパカパカしてたくせに」

「わあああああああ!」

 まるで恥ずかしいワードをかき消すように、シオリは声を上げた。

「ケ、ケースケくん! と、とにかく、上がって!」

 そう言うと、シオリは僕の手を取って、僕を玄関に引っ張り上げる。

「お……」

 僕は履いていたローファーを脱いで、急いでスリッパに足を滑り込ませる。

 シオリは僕の手を引いて、玄関から伸びる廊下を先に歩く。

「キャー! お姉ちゃん、大胆なんだからぁ」

 後ろからシズカの声がした。

 シオリは顔を真っ赤にして、近くの部屋のドアを開けて、僕をそこに入れ、分厚いドアを閉め、鍵をかけた。

 部屋は八畳ほどの広さで、入り口から見て左手には棚があり、奥には本格的なステレオコンボがあり、レコードプレーヤーまである。部屋の真ん中にはソファーが鎮座していて、右には黒のアップライトピアノがあった。壁は概観と同じ木製で、木の香りの中に、芳香剤だろうか、それがかすかに香って、森林浴に来ているような、爽やかな香りがした。

「……」

「ご、ごめんなさい。うちの兄弟、みんなああで……」

「い、いや、それはいいんだけど」

 僕も照れてしまって、上手くフォローが出来そうにない。

「そ、その――手が」

 いきなりシオリが僕の手を取るなんて初めてで、僕は不覚にも少しどきどきしてしまっていた。

「え? あ!」

 シオリはばっと、僕の手を離した。

「うぅ……ごめんなさい……」

「い、いや、びっくりしただけだよ」

 何をやってるんだ僕は。付き合ってるんだよ、僕達は。手を握るくらい、普通じゃないか。今までだって何度かやってるし、さっき僕は彼女をあんなに抱きしめたりもしたし。

 ――何でこう、彼女を意識してしまうんだ? もう、彼女に対して、触れるのが申し訳ないとか、そういう気持ちは和らいでいるはずなのに。

「あ、あの、ここは私がいつも家で楽器の練習している部屋なの。この部屋は防音になってるから、きっと静かだよ」

「え?」

 僕は思わず声を上げる。

「ん?」

「い、いや――何でもない……」

 彼女の家。防音の密室。二人きり……

 こ、これは……

 何だか、そう考えると、シオリのワンピースから覗く体のラインが、妙に艶かしく見えてくる。

 僕は、自分の財布の中に入っている、ユータから貰ったコンドームの存在を思い出す。

 それを思い出すと、かあっと顔が熱くなった。

 な――何考えてるんだ、僕は。望んでいたのは、そんなのじゃないはずだろう。

 ちゃんとしっかり、好きだっていう気持ちを、自信を持って伝えたくて、その自信をつけるために、オランダで長い間頑張ってきたんじゃないか。目的がすり替わってるぞ。

「ケースケくん」

 部屋の冷房のスイッチをつけながら、シオリは僕を見た。

「ソファーに、横になって」

「え?」

 ちょ、ちょっと待ってくれ、それって……

「試合の後、急いで帰ってきて、疲れているんでしょう? お母さんがパートから帰ってきて、夕食ができるまでまだ時間があるし、その間、少し寝たら? ここなら静かに眠れると思うし」

「……」

 ――なんだ、そういうことか――って、何がっかりしてるんだ、僕。

「さ、来て」

 僕をソファーに促すシオリ。

 でも、僕がソファーに行く前に、なんとなく、入り口のすぐ目の前にある棚に目が行った。

 棚の中には沢山のトロフィーやメダル、賞状が飾られている。棚の上には記念盾がいくつか置かれている。

 よく見ると、それは全部、シオリ名義に送られたものだった。

 そのひとつに目をやる。

 全国中学ピアノコンクール、クラシック部門第3位?

 その隣には、同じ大会のバイオリン部門で2位のトロフィーもある。

「すごいな、これ」

 僕は思わず棚を覗き込む。

「君、フルートだけじゃなく、ピアノとバイオリンもできるって言ってたけど、こりゃできるなんてレベルじゃないよ」

「そんな――もう今じゃきっと大したことないよ。もうあまり練習してないし」

 シオリは僕に褒められ、照れたように笑う。

「……」

 前シオリが言っていた。音楽をやっていたのは、コンクールでいい成績を残すと家族が喜んでくれるから、何となく続けていたと。

 この無数の賞状やトロフィーの山は、彼女が家族のために必死で努力してきたことの証明なのだ。そう思うと、なんだかいじらしいような、可哀想なような、そんな気分になる。

「それより――今はゆっくり休んでよ。そのために、連れてきたんだから」

「あ、ああ……」

 僕は促されるままに、ソファーに横になる。

「冷房ついてるし、風邪ひかないように、タオルケット掛けるね」

 シオリは僕の体に、タオルケットを掛ける。干したての太陽の匂いがした。

「じゃ、電気、消すから。夕飯できたら、起こしに来るね」

「あ、待ってよ」

 僕は上半身を軽く起こして、シオリを引き止める。

「どうせなら、何か一曲弾いてくれよ」

「え?」

「なんか、眠くなるような曲をさ」

「えぇ……」

 シオリは突然気色ばむ。

「あ、あの――それは、弾きながら、私に歌えって、こと?」

「え? そこまでしてくれるなら、嬉しいな」

 付き合って何ヶ月にもなるのに、僕達はまだ遊園地にもカラオケにも行ってないから、まだ僕はシオリの歌声を聴いたことがない。

「む、無理だよ、そんなのしたことないし――私、音痴だし」

「下手でも文句は言わないからさ。無理にとは言わないけど」

 何だか彼女に久し振りに会ったからか、少し彼女を困らせたくなる。

 いや――違うな。多分僕は少し舞い上がってるんだ。彼女と久し振りに会えて、眠ってしまうのが勿体無くて、せめて眠るまで、一緒にいたいと思っているんだろう。

「うぅ――わかった。でも、一曲だけだからね。それでちゃんと寝てね」

 シオリが困った顔をしながら僕を見る。僕は目を閉じてタオルケットに包まった。言うことを聞きます、というジェスチャー。

 僕が目を閉じると、部屋に沈黙が訪れた。しばらくして、瞼が感じていた光が消え、部屋の電気が消えたのだとわかる。どうやら譜面も見ないで弾くみたいだ。相当な腕前なんだな。

 すーはーと、シオリの華奢な胸が息を吸い込む音がして、それからゆっくりとした、優しく静かなピアノの演奏が始まった。

 はじめは恥ずかしそうに震えた歌声が、歌う度に迷いを消していく。

 彼女の声は、ビブラートだとかファルセットだとか、そんなことは問題ではなく、ただどこまでも優しかった。ささやかな幸せを噛み締めるような、そんな情の深い声で、それが僕をとても心地よくさせた。

 ――演奏が終わる。

 ふう、という溜め息。

 僕はこの時、寝たふりを決め込んでいた。

 こんな歌を歌うなんて、彼女はきっと相当無理して頑張ってくれたのだと思う。そんな彼女に、何と言ってあげたらいいのか、まだ僕にはわからない。いや、多分彼女は今の僕に、自分の顔を見て欲しくないんだろうと思った。だったらせめて、今の彼女を僕が見ていないことにしてあげるのが優しさだと思ったからだ。

「……」

 しばらくして、僕が寝たと思ったのか、シオリは立ち上がって、足音を立てないように気をつけているのか、変に小さな足音で、僕の横を通り過ぎる気配を感じた。

 かちゃ、という音の後、何か小さな声が聞こえた。

「シーちゃん?」

 声を殺したシオリの声。

「サクライさん、寝ちゃったの?」

 シオリよりちょっと高めのシズカの声。少し声が弾んでいる。

「うん、すごく疲れてたのよ。ちょっとそっとしといてあげて」

「どれどれ……」

 足音が僕に近づいてくる。僕は目を開けたい衝動を耐えながら、寝たふりを続行した。

「わ、ほんとに寝てるぅ。寝顔もいいなぁ」

「何言ってるの、もう部屋を出ましょう」

 シオリが妹を諌める声。

「お姉ちゃん、チャンスじゃない? どうせならサクライさんに、チューしちゃえば?」

「え?」

 シオリの驚いたような声と同時に、僕の心臓も大きく高鳴った、

「な、何言ってるの?」

「だってぇ、お姉ちゃんだって、もっとサクライさんとずっとくっついてたいんでしょ? 今ならサクライさんも寝てるしさ……やっちゃいなよ」

 い、いや――ちょっと待ってくれ。僕にも心の準備が――で、でも今更起きたら、彼女はきっと恥ずかしくて泣いちゃうかもしれないし……

「ううん、そういうんじゃないんだよ」

 気が気じゃない僕の脳裏に、彼女の声が爽やかに響いた。

「そういうの――この人にとっては、もっと精神的なことなんだよ。きっと」

「精神的?」

「うん――多分、そういうドサクサまぎれとかで、無理にしようっていうんじゃなくて――お互い、気持ちを綺麗にしてから、ってことなんだと思う。だから、いいの。今はこうして、側にいてくれるだけで、嬉しいもの」

「……」

「ふふ――お姉ちゃんも、恋する乙女ですねぇ」

「え?」

「ちょっと安心した。この一ヶ月、お姉ちゃん、元気なかったけど、久し振りに嬉しそうなんだもの」

「う――も、もういいでしょう? 彼、すごく疲れてるんだし、もう出ましょう」

「はぁーい」

 僕の近くの人の気配が消え、ドアが閉まる音がした。

「……」

 精神的なもの、か――

 女の子って、そういうの、そういう風に考えるんだな。

 もう付き合って半年以上――まだキスもしてないんだよな、僕達。

 でも、本当に、自分でもよく我慢できたと思う。

 自分に対しての引け目が消えたからか、今では彼女への想いが溢れてくる。一歩間違えると、彼女のことを壊してしまいそうなくらい、彼女の全てを独占したいと思う。

 子供っぽくて、わがままで、重くて――こんな気持ち、彼女に知られたくないと思っても、どうしようもないくらい、彼女に焦がれてしまう。

 そんな心の疼きに耐えながら、感じているんだ。僕の心の場所が、どこにあるのかを――

「……」

 僕の心にも、泥も汚物もある。それが真実なのだろう。

 だって、確かに心が疼くのだから。今までは、自分への引け目が、それから目を背けさせていただけ。

 きっと――こんなどうしようもない気持ちと戦うことが、きっと愛と呼ぶのかなと、何となく僕は思った。


シオリが歌った曲は、絢香の「今夜も星に抱かれて」という曲です。シオリはケースケと、別に特別なことをしたいんじゃなくて、ただ側にいてくれればいい、そんなささやかなことで十分だと思っているので、この歌がぴったりなんじゃないかと思って、この歌を選んでみました。

「スカイ・クロラ」という映画の主題歌なんで、知っている人もいるかもしれませんが。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
もしこの話をお気に入りいただけましたら、クリックしてやってください。 小説家になろう 勝手にランキング
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ