Baseball
「ワン!」
突然リュートが一鳴きしたので、僕の思考は現実に戻された。
僕はシオリの背中に手を回したまま、体を離して、リュートの方を見る。
「ふふ――僕を忘れるな、って」
シオリが僕の腕の中で、くすっと笑った。
「あぁ――ごめんリュート、お前のことを忘れてたわけじゃないんだ」
僕はようやくシオリから手を離し、その場にしゃがんでリュートの頭を撫でた。リュートは気持ちよさそうに頭を揺らす。
「やっぱり、あなたに一番懐いてるのね、リュートくん」
僕の背中越しに、シオリの声がした。
「……」
沈黙。
しまった――いきなりこんな汗だくの体で、所構わず彼女に抱きつくなんて、そんなはずじゃなかったのに。
「あ、あのさ――」
そうだ、と思い直し、僕は立ち上がる。
「ごめん――急いで帰ってきたから、オランダで何も土産を買えなかったんだけど、せめてこれを」
そう言って、僕はさっき花屋で買った、一輪の向日葵の花を差し出す。つかみに僕がぶち壊した空気を、少しでもフォローしようと思った。
しかし僕はその花を見ると、目を丸くしてしまう。
向日葵の花は、僕がさっき彼女を抱きしめた時に、力を入れすぎたせいで、花が潰れてしまっていた。周りの花びらが、もう半分くらい落ちてしまっている。
「あ――」
僕の口から、間抜けな声が漏れた。
「ふふふ……」
だけどそんな僕を見て、シオリは可笑しそうに笑った。
「ありがとう、嬉しいな」
そして、笑いながら僕の手から、向日葵の花を受け取った。
「え――そんな、いいよ、またすぐに新しいのを買ってくるよ」
「ううん、いいの」
申し訳なさを抱える僕を見て、シオリはかぶりを振った。
「だって、まだこの花、十分綺麗だし――それに、初めてあなたから貰った花だもの。この花でいいの」
そう言ってシオリは、その花びらの取れてしまった向日葵を胸の前で大切そうに両手に抱いた。
――それから僕とシオリは、土手の夏草の上に座って、河川敷の少年野球を見るでもなく、夏風に当たっていた。シオリは僕の持ってきたタオルを敷いて、その上に座っている。僕の横ではリュートが夏草の上に寝転んでいる。
「……」
だが、お互い久し振りなので、ちょっとあがっている。
「きゃっ」
夏風が少し強く吹いて、シオリは自分の被っている帽子の縁を掴んで、飛ばされないように抑えた。
「……」
そんなシオリを、僕はずっと見ていて。
僕は少し、戸惑っていた。
何で僕はこの娘を前に、今まで何もせずにいられたのだろう――
そんな思いが、僕の胸を去来していたからだ。
彼女が、皆が認める美しい女の子だということは、ずっと前から知っているつもりだった。外見だけじゃない、心はそれ以上に透き通っている。
だけど――
一ヶ月振りに見るシオリは、僕の目には、その美しさが、以前とは違って見えた。
今までは、彼女を如何に傷つけまいとして、触れることを恐れていた。花のような彼女を、こんなひねくれた僕の色に染めないようにと。
だけど今は違う。彼女に触れることに、まだ若干の戸惑いはあるものの、それ以上に彼女のことを、もっと欲しがってしまう自分がいて――
そんな自分の身勝手さを感じながらも、それでも気持ちが溢れてくる……
――上手く言えないけれど、全然綺麗な気持ちではない。
こんな気持ちを前にも味わった気がする。
確か、彼女とラブホテルで一夜を明かした時も、これと似た気分になった気がする。いやらしい気持ちや、快楽を求めてじゃなく、彼女のことを欲した時が。
でも――あの時の気持ちとは、似てるけど、また違う気がする。
あの時は、単に寂しさとか、不安を埋めたいとか、そういう、彼女を逃げ場所みたいに見る気持ちが強かった。彼女の優しさに、甘えていたのだと思う。
でも、今はそういうのではない。もっと、本質的に――
「その――久し振りだね」
そんな考えを巡らせている時、シオリが声をかけてきた。
「え? あ、ああ――そうだな」
ちょっと変なことを考えていて、返事が妙にしどろもどろになる。
「ちょっと、日に焼けたね」
「そうかな――」
僕は、自分の腕を見る。僕の肌は、男としては白い方だけれど、確かにちょっと日焼けしたかもしれない。
土手には夏草の陰にアザミが咲いていて、シオリの隣に座ると、シオリが塗った日焼け止めのひんやりした清涼な匂いが、夏草の香りに微かに混ざる。
「そうか――もう夏なんだよな。オランダの夏は涼しくて、あまりそう感じなかったよ」
河川敷の微かな情景に夏を感じ、日本のうだるような暑さもまた、今は少し風情があるように感じた。
僕は河川敷で試合をしている野球チームに目をやる。子供のバッターがボールを引っ掛け、ショートゴロに倒れ、子供は悔しそうにうなだれる。さっきから見ていると、この少年野球チームは、実力はたいしたことはなさそうだけれど、皆楽しそうに野球をやっている。
「あの中に、君の弟がいるんだね」
「そう」
「まさか――お父さんも?」
「ううん、お父さんは今日は仕事。ここにはいないわ」
「そうか――よかった」
僕はほっと胸を撫で下ろす。まさかこんな唐突に、彼女の父親に、僕と彼女が一緒にいる姿を見られたら、どうしたらいいか途方に暮れそうだ。
「しかし、弟の試合をわざわざ見に来るなんて。君は家族思いなんだな」
言いながら、僕は妹のことを思い出す。僕の妹は僕の名を騙って、ブランドバッグや服を集め、中学から高校にあがったばかりだというのに、あぶく銭のために人としての品性を失った。同じあぶく銭を稼ぐにも、援交でもしている奴の方が、自分の体を張っているだけまだあれよりはマシな気がする。そんな妹の姿を見たばかりだから、こうして兄弟の試合を見に来る兄弟像というものが、殊更僕には信じられなく思えた。
「ううん、普段はあまり、見に来ないの」
「え?」
「ただ――家族に言われちゃって。イングランド戦が終わって、あなたが帰ってくるって思ったら、何だか急に時間が長く感じられちゃって――ここ2日くらい、ずっと上の空だったから。だから弟に、家でいつまでも景気悪い顔するな、って怒られちゃって。外に連れ出されちゃったの」
シオリはえへへ、と、照れ笑いを浮かべた。
「あの試合、見てたのか? 日本じゃ深夜にやってたはずなのに」
「私、全試合見たよ。リアルタイムで」
「……」
「まあ、私だけじゃないけど。学校の人、大体みんなあなた達の試合を見ていて、試合の翌日はみんな眠そうで、1,2時限は授業にならなかったわ。私も初めて授業中寝ちゃって、怒られちゃった、えへへ」
「君が授業中寝たのか? それはよっぽどだな」
いつも真面目なシオリが授業中寝るなんて、想像できなかった。
「しかしそれは、教師達が心配するだろうな。僕の影響がどうかとか」
「もう言われたわ」
「え?」
この通り、いつも真面目で素直で努力家のシオリは、一般生徒だけでなく、教師達からも絶大な人気があった。そんなシオリが、学校始まって以来の問題児とされる僕と付き合ったことが教師に知れた時は、教師達もひどく悲しんだという。今でもシオリは教師に、サクライに憧れたりしちゃ駄目だぞ、とか、よく釘を刺されるらしい。
「やれやれ――いまだに僕、教師に嫌われてるからな。最近はちゃんと、授業に出てるのに」
「もうそんな次元じゃないって」
隣にいるシオリがかぶりを振った。
「ケースケくん、今日本じゃあなたの噂で持ちきりなのよ。あなたが合宿で、日本代表チームをサポーターを率いてやっつけちゃったとか、メキシコ戦、開始8秒でゴールを決めて、ハットトリック決めちゃうとか。この一ヶ月、あなた、毎日テレビに出ていたわ」
「そうなのか?」
「うん、この一ヶ月のあなたのしてきたことも、テレビでかなり放送されていたわ。あなたが日本代表に喝を入れたんでしょ? 運は天にあり、鎧は胸にあり、って」
「……」
「何故日本代表が強くなったのか、みたいな特集番組を沢山やってたし、あなたがどうしてあの時ああいう行動をとったか、みたいな事は、大体みんな知っていると思うよ」
「……」
――想像以上にすごいことになっているようだな。今の日本は。
「どうだった? 世界大会に出てみて」
「うーん、やっぱりこの体だと、世界で一流になるのは無理だろうなって、改めて感じたかな。予選リーグ突破してからは、もう騙し騙しやってたけど、さすがに自分の力の弱さを痛感した」
「そっか」
シオリはただ、頷いた。
「ちゃんと、言えた?」
シオリは僕に、そう訊いた。
「ん?」
「ほら、言ってたじゃない。あの二人に、ちゃんと友達だって言うって」
「あぁ――うん。帰る直前に、言ってきた」
「二人は何て?」
「ジュンイチには爆笑された。ユータは号泣した」
「えぇ?」
シオリは首を傾げながら笑った。
「全く――どっちも馬鹿正直な反応だったよ」
「でも――言えて良かったね」
シオリは、自分のことのように感慨深そうにそう言った。
「……」
それはそうか。僕はこの大会で、自分を認められるように頑張ってくると大口叩いて彼女の許を去った。もし自分に自信が持てるようになったら、彼女にも伝えたいことがあるって、言ったもんな。
――どうする? 彼女にこの場で言ってしまうか?
「ん? 何だろう?」
考えを整理しようとしていると、シオリが声を上げた。
「誰か、こっちに来るよ」
僕はそう言ったシオリの視線の先を見る。
河川敷から土手を登って、一人のおじさんがこちらに向かってくる。怪訝な顔で僕達はそれを見ていたが、僕達の前に来ると、おじさんは被っていた野球帽を脱いで、僕に頭を下げた。
「あの――サクライ・ケースケさん、ですよね」
おじさんは僕に訊いてくる。
「――はぁ、そうですけど」
「やっぱり。こんなところでお目にかかれるとは光栄です」
改めておじさんは僕に頭を下げた。
「あの――もしよろしければサクライさん、私達のチームに入って、子供達と野球をしていただけませんか? 少しでいいんです。きっと子供達も思い出になると思いますので」
「え?」
「サクライさんは中学時代はかなりの野球少年とお聞きしてますし、代表でも選手同士でボールを打ったりしていたと、テレビで見ましたので、子供達も何か教わりたいと言ってまして」
そんなことまでテレビで報道されていたのか。
でも――確かに、さっきまでうじうじ悩んでいたし、悶々としているよりは、体を動かしたい気分だった。
「ええ、僕でよければ、喜んで」
「本当ですか?」
おじさんは後ろを振り返って、両手で丸を作る。それを見て、グラウンドにいる子供達、そしてベンチにいる奥さん達も声を上げて喜んだ。
「さ、どうぞどうぞ」
僕は立ち上がり、河川敷へ降りていく。シオリはリュートのリードを引いて、僕についてくる。
「見て見て、本当にサクライくんよ」
「あ、握手してくれませんか?」
ベンチに入ると、僕は奥様方にやたらモテた。握手をねだられたり、大変だったが、それを夫に諌められ、何とか解放された。
「お父さんチームのピンチヒッター、サクライ選手!」
僕を呼びに来たおじさんが、代打を告げると、守備についている子供達が、うおおお、と叫んだ。
僕はチームの黒いヘルメットとバットをおじさんに渡される。
「じゃあ――これ、預かっていてくれ」
僕はスーツのジャケットとネクタイを脱いで、ベンチに座るシオリに渡した。
「うん、頑張ってね」
シオリは両手で握り拳を作って、僕に言った。
「頑張れって言われても――それって大人気なくないか?」
僕はそう言いながら、バッターボックスに向かう。バッターボックスの一歩外でゆっくり素振りをし、体をほぐしながら、小学生用バットの軽さと長さを確かめる。
「すっげぇ、カッコいい!」
守備についている子供達の声。
ヘルメットを被り、左バッターボックスに入ると目の前のピッチャーは好奇の目を僕に向けながら、帽子を取り、宜しくお願いします、と、深く頭を下げた。
ああ、この感覚、久し振りだな。バットを振り続けてはいたけれど、実戦の打席は3年振りだ。
思い切り振って、ゴロを打ったら、小学生には打球が速過ぎるかも知れないからな――子供が怪我しないように、できるだけフライを打たないと。
ピッチャーは嬉しそうに、僕に第一球を投げた。
低めにいい球が決まっていたけれど、振り子でバランスを取った僕は、そのボールを下から掬い上げた。
きぃん、と金属バットの快音響いて、打球はライトの頭上を越えていく。
わぁ、と、敵味方問わず声を上げる。
はぁ、まさかあんな飛んでくれるとは思わなかった。これで凡退したらすごくかっこ悪かったからと思うと、僕はファーストベースを回りながら、ほっとため息をついていた。
今更なんですが、この作品もお気に入り登録が100人を越えまして。たまに登録が減ることがあるので、様子を見ていたのですが、もう大丈夫かと思って。登録してくれた方々に、この場を借りてお礼を――ありがとうございます。
自分で掻いていて思うのですが、この作品の恋愛模様は、どちらかというと男性向けですよね…女性読者が読むと、ケースケの行動は、一人よがりすぎて共感があまり得られないかもしれません。作者もできることなら、女性読者がきゅんとするような恋愛模様を書きたいのですが…
さて、本編はこれから新キャラクターが登場します。