Enemy
試合は20対14で、僕のチームが勝利した。コート外に戻る僕は既に精魂尽き、体育館の壁に寄りかかり、そのままぐったりと足を伸ばして座り込んだ。頭に持参していたアディダスのスポーツタオルをかける。20点全て僕が取り、相手の得点も全てユータがあげたもの。結局、僕とユータ、二人だけの試合だった。
タオルを頭にかけて見えなかったけれど、ギャラリーが僕を見ているのがわかった。普段は感情を表に出すことも珍しい僕が、これだけエキサイトする姿など、誰にも見せたことがない。
皆、僕がユータに勝つことなど予想していなかったのだろう。そういう認識を、クラスメイトは僕に持っていたのだ。『決して一番にならない男』――僕はそういう評価をされていたんだ。それは前から僕自身もわかっていた。
次の試合が始まっていた。呼吸が落ち着くと、体育館を出て、上のジャージを脱ぎ、近くにあった水飲み場の蛇口をひねる。静かに流れる柔らかな水流で、軽く手を濡らしてから、手桶で顔を洗い、蛇口を最大にひねり、激しい水流の下に、湯気を出しそうなくらい火照った頭を無造作に突っ込んだ。
秋の水は冷たい。頭が一気に冷めていく感じが好きで、僕は汗をかいた後よくこうする。
頭を上げ、振ってみる。飛沫が僕の髪の毛から飛び散った。それでもまだ、髪の毛の先や、顎から水が滴っていた。僕は両手で前髪をかきあげて、水を落とした。裸の上半身に、水滴がついた。
頭が冷めると考えがしっかりしてきた。僕は水飲み場近くの石畳に座り先ほどの試合を反芻する。
しかし思い返してみると、ユータに勝ったのに、気持ちはまったく晴れやかではなかった。湧き上がるのは、怒気にも似た、焼け付くような感情だけだ。アドレナリンが体の中で、伝達する場所を間違えた感じ――僕の精神は酷く掻き乱れていた。
恐らく、僕は心のどこかでユータを憎悪しているんだろう。いつも僕の上にいて、どうしても追い抜けない存在だった彼のことを。
あいつさえいなければ僕は一番だった。幼い感情だ。そして、心のどこかでもうわかっている。この小さな体では、僕は絶対にユータには敵わないことを。
わかっているが、それを認めると、自分はこれ以上、先に進めないような気がして……
「……」
水飲み場に手を突っ伏して、深く息を吸い、気持ちの浄化に勤めた。目を閉じて、思考をなるべく空っぽにしようと心がけ、深い深呼吸を繰り返していた。
「サクライくん」
背中から女子の声がした。僕は目を開けて、気持ちの落ち着かないまま、声の方向を向くと、ジャージ姿のマツオカ・シオリがいた。隣のコートであの試合を見ていたのだ。前で手を組んで、少しもじもじしている。恐らく僕の格好のせいだろう。
「こんな格好で、失礼」
「ううん、いいの」
僕は急いでまだ汗だくのジャージを着た。本当はしばらくここに置いて、髪がもう少し乾いた頃に着たかったのだけれど、女の子の前で裸でいるわけにもいくまい。
ジャージに袖を通している時に、シオリが言った。
「驚いちゃった。サクライくんって、何でも上手なんだね」
僕はジャージから頭を出す。
「わざわざそんなことを言いに来たのか」
言ってから、明らかに言葉の選択ミスだと気付いた。まだ気持ちの整理が終わっていなかったので、いくら平静を装ったつもりでも、心の奥のものまでは隠しきれていない。自分の口から出た言葉が、ぬるま湯の中の氷柱のように、後から冷たさを感じさせていた。
しかし、シオリのさっきの言葉も、次に言いたいことの枕詞のようなニュアンスだった。僕をおだてに来たわけではないだろう。それはこういう駆け引きに苦手な僕でもわかった。
「どうしたの? 今日」
シオリがおずおずと僕に訊いた。
この切り出し方は、きっと僕にとって、あまりいい話ではないだろう、と、僕は悟ったが、だからと言って、無視するわけにもいくまい。
「――どうしたって?」
袖を通しながら、僕は訊き返す。
「その……」
彼女は、懸命に言葉を捜そうとしている。
「いつもの……サクライくんらしく、ないなぁ、って、思って……」
「――僕らしい?」
喉から押し出すように発したシオリの言葉に、ジャージを着た僕の手の力は消失した。
「うん、今日のサクライくん、何かおかしい。変にイライラしてる感じ」
「……」
悪意のない顔だったのはわかっていた。
しかし――
今までの惨めな自分を、僕のアイデンティティ扱いされたような気がしたのは勿論だが、自分の抱える焦燥感を、彼女の聡明な明鏡止水の瞳が、あまりに見透かしてしまうので、僕は彼女に対して、何とはなしに五月蠅い気持ちを覚えた。
「君が僕の何を知っているんだ……」
「え……」
僕の呟いた言葉に、シオリは何かを感じ取ったのか、僕を恐れるような顔をする。そんな女の子に、僕は詰め寄った。
「僕らしいって何だ? 君が僕の何を知っている?」
胸にどす黒いものがこみ上げてくる。それを吐き出したくて、早口でまくし立てる。自然と口調がきつくなる。下手をしたら、胸倉を掴んでしまいそうになった。それをこらえようと、本能的に悟ったのか、僕の手は自然と大きなジェスチャーで、空を切り続けた。
「僕だってどうでもよくなる時だってあるんだ。僕はいい奴でも、優しい奴でもない。君の中で作った固定観念を、僕に押し付けないでくれないか。そういうの迷惑……」
ぶちまけられる言葉に、必死に急ブレーキをかけ、後半の方で、言葉が尻込みした。
シオリが、華奢な肩を震わせ、仔犬のように悲しげな表情をしたからだった。その表情で、一気に頭が冷却された。
「――ごめん……」
そう言って、茫然と立ち尽くすシオリから、僕は目をそらす。
血の気が引いた。これが僕の本性――それを、他人にさらしてしまった。胸のナイフに手がかかってしまった。
何てことをしてしまったんだろう、と、思ったが、もう遅かった。
「ううん……」
シオリが小さく首を横に振った。
「そうだよね。私達、お互いのこと、よく知らないのに、意見するなんて、でしゃばったことして」
言いかけて彼女は言葉を切った。自分が何気なく恥ずかしい台詞を口にしたことに、気がついたのだろう。恥ずかしさをごまかすように、赤面した顔を隠そうとする。もしかしたら、涙を隠しているのかもしれない。
どうしよう、と思った。彼女とは、もっとうまくやりたいのに。彼女には、何も悪いところはないのに。
「その――」
何でもいいから、謝罪の言葉を言おうとしたが、その上にシオリが言葉を被せた。
「ごめんね、気にしないで。じゃあ、また」
何度も頭を下げながら逃げるように体育館の中に消えていく華奢な体を見送って、僕はその場に立ち尽くしてしまった。
「……」
何をやっているんだろう、僕は。あんないい娘を悲しませ、傷つけるようなことして。
昨日は優しくして、今日は突っぱねて――
1年近く、無視していたんだ。昨日、彼女はちゃんと僕と話せるようになったと思って、喜んでいたじゃないか。その翌日に、こんな酷い事を……
これもいつからかわかっていたこと。
ほぼ同じ能力でしのぎを削っていた中で、自分と似ている、自分に近しい存在だと、友情じみたものを分かち合ったと思った時もあったけれど、避けるようになってしまった今では、二人の距離感はもう変わってしまったんだ。
避けたことで、ただの競い合うだけの仲になって、負け続けるうちに、僕にとって彼女は『敵』になってしまった。
どうしても勝てない、彼女さえいなければ、という、ユータと同じ、羨望が変質した憎しみの気持ちをぶつける対象に。
こんな時に涙も出ない自分に腹が立った。僕の『悲しい』という感情は、一体どこに行ってしまったんだ。そんな喪失感とともに、怒りが込み上げた。悲しいとか、自分に腹が立つとか、そういう感情だけは妙にリアルなくせに。