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Hug

「――私も逢いたいから、いいけど……」

「――ありがとう、今どこにいる? 僕がそこに向かうよ」

「えっと――河川敷。弟の野球の試合を見に来ているの。リュートくんも一緒」

「――わかった。すぐに行くよ」

 それだけ伝えて、携帯電話を切る。

「……」

 ――何言ってるんだ、僕は。

 状況は最悪、しかも逼迫しているのに、女の子と逢っている場合か?

 現実逃避か? 現実逃避するために、彼女と逢うのか? 正気かよ、サクライ・ケースケ。

「はぁ――頭痛くなってきた……」

 一ヶ月以上続いた、日本代表の拘束、世界の強豪とのタフな試合の連戦、おまけにその後不眠不休で、家族の醜行を聞かされ、僕の体には疲れが一気にまとめてのしかかってきたようだった。

 自慢の思考も停止寸前まで鈍っている――

 ――でも、男が一度、女性の許に行くと言った以上、行かなきゃ。

 僕はベッドから起き上がり、着ていたスーツのまま、家を出た。

 ――あ、しまった。急いで帰ってきたから、またシオリに土産を買って来れなかった。久し振りに会うっていうのに……

 ――なので河川敷に向かう途中にあった花屋に寄る。シオリの影響で、花についての造詣が増え始めた僕だけど、母親にカーネーション1本送ったことのない(て言うか買える小遣いすら貰えなかった)僕は、花屋なんて来るのは生まれて初めてだった。

 金はあるから、今ならドラマみたいに大きな薔薇の花束なんかも買えるけど、あんなでかい花束を生ける花瓶なんて、どこの家にあるってんだ――だから、小さな向日葵を一輪、フィルムに包んでリボンをつけてもらった。何となく、シオリにはでかい花束よりも、こうして一輪の花を愛でる方が合っているような気がした。

 その向日葵を左手に握り締め、僕は河川敷へと走った。7月で、天気は快晴の炎天下――ワイシャツを汗で濡らしながら。

 河川敷は、僕の家から走って15分くらいの距離にある。川べりの土手に着くと、僕は土手の坂を舗装したコンクリートの階段を上る。土手の向こう側には河川敷が広がっていて、その向こうには川が流れている。

 今日は日曜日だから、沢山の人が河川敷でスポーツをしている。サッカーやゲートボール、フリスビー……

 その中で、僕は目当ての小学生の野球チームを探す。シオリは弟の野球チームの試合を見に来ていると言っていた。多分その近くにいるのだろうと思う。

 そのチームと思われるチームはすぐに見つかった。学区内に野球チームなんて複数あるものじゃない。どうやら父兄チームと小学生チームで試合をしているようだ。力は父兄の方が上だろうが、どの父兄もこの暑さにもうバテバテで、ライトゴロでもアウトになりそうなくらい足が動いていない。だから結果的に小学生の方が若干押しているようだ。

 僕はその試合をしているグラウンド周りを見る。遠くからでもシオリはリュートを連れているから、すぐにわかるはずだ。だが、それらしき姿は見えない。ファールグラウンドには、選手の母親らしき女性が何人か、大きな日傘の下にブルーシートを敷いて、その中で試合を見守っている。多分麦茶を作ったり、マネージャーのような仕事もこなすのだろう。

「……」

 携帯で、メールを送ってみようかと思ったけれど、やめた。いくらなんでも僕が早く来過ぎだ。まさか電話して早々、会いたい、なんて言われるとは、彼女も思っていなかっただろうし、僕が急かすこともない。

 夏の河川敷の土手は、夏草が当たり一帯に伸びていて、ちょっと青臭い臭いがする。セミの鳴き声が、炎天下を更に暑いものに感じさせ、河川敷の向こうの川は、陽炎で若干ゆらゆらして見える。

 僕もここまで走ってきたから、息も切れていたし、汗も掻いていた。オランダは夏でもそこそこ涼しかったから、その気候の差もあって、ひどく空気が湿って、自分の体にまとわり付くように感じた。

 僕は夏草の生える土手に座り、そのまま仰向けに倒れこんだ。夏草の臭いが強く感じられ、その夏草が風にそよぐ音が耳に近くなる。視界の端に、眩しいばかりの太陽があって、蒼穹の空に大きな入道雲がうごめいている。

「……」

 しかし――こんなことしている場合じゃないぞ本当に。どうすればいいんだ。

 法律的な知識には自信がないが、僕達未成年者は、保護者――親権保有者の同意がなければ、法律行為が行えない。あの親を民事裁判にかけることも、僕一人の力ではできないわけだ。

 それに、普通に考えて、目の前に数億の契約がぶら下がっていて、それに飛びつかない僕の方が世間的に見ればおかしいことは明らか。あの親に法定代理人の資格がないと証明できれば簡単だが、さっき親父達が言っていたように「子供の幸せのために、将来しばらく安泰なお金を手にすることが必要だと思った」と言えば、裁判官は、あの家族に法定代理人としての資格が『著しく』欠如しているとは認めてくれないだろう。親権停止なんて珍しいケース、余程『著しい』と認められない限り、受理されるわけがない。日本も韓国や中国程ではないが、儒教的考えがいまだ色濃いのだから。つい数年前まで尊属殺が重罪とされていた国だし。

 それに実際、あの家族は世間体のためとはいえ、僕を小学校時代は塾に通わせ、私立中学に通わせた。家庭は崩壊していたとはいえ、小さい頃から僕のために尽くしたという外観が出来上がっているのだ。それはかなり大きい。

 僕は確かに長年家族から暴力も振るわれているが、それによる被害も小さい。せいぜい転んで捻挫するとか、それと同レベルの傷がせいぜいで、虐待の訴えとして成立する可能性は低い。被害妄想――子供の感情論として扱われ、法的効力はほとんどないだろう。

 僕が親を認めないと言ったら、恩を仇で返した最低の人間と烙印を押されるのは僕だ。うかつに訴えを起こせば、僕はかなり高い確率で敗訴――サッカークラブとの契約を司法の監視の下、受理しなければいけなくなるかも知れない。

 僕の報酬を不正に受け取っているというのも、多分証明は難しいだろう。多分あの口ぶりだと、僕の契約する中東のクラブが報酬を振り込む口座は、家族が作った僕名義の口座だろうし、親が子供の報酬を預かるのも「海外で自分で日本に税金を納めたりするのは面倒だから、代わりに私達がやってあげるため」とでも言えば理由として通る。財産処分の根拠としては弱い。

 家族が各クラブから受け取っていた接待や裏金の存在を暴露するのも――そんなことしたら、日本中を巻き込む大スキャンダルだ。下手したらJFAやJリーグ全体に捜査のメスが入る。下手をしたらしばらくJリーグは試合自粛、最悪の場合、リーグが消滅するかもしれない。

 そしたらユータはどうなる? あいつは世界で名を売ったが、それがまぐれと言われないように、Jリーグでこれから結果を出さなきゃいけない時だ。ユータがこれからって時にJリーグが運営自粛されたら、あいつの将来が……

 何より、それを暴露したところで、世間的に裁かれるのは金品を受け取った家族ではなく、渡したクラブの関係者だ。それでは意味がない。

 ――訴訟を起こすには、どの選択肢も不利だ。僕が未成年である以上、尊属である両親をはじめとした家族相手の不利は避けられない。

「……」

 ――しかし、まさか、家までもう売っているとは思わなかったな。もう僕の意志関係なしに、契約しなければ大変なことになる状況まで作り出されてる。億ションの頭金とか言っていたが、お金が全額手元にないのであれば、額が額だ。もう円満に契約を取り消すことなんてできないだろう。

 億ションの契約を取り消して、頭金を返してもらう? ――駄目だ。あの家族のことだ、契約した億ションがどこで、契約する不動産会社がどこなのかを僕に知られるヘマはしないだろうし、あの様子だと数日のうちに引越しが完了しそうだ。それが終わってから契約を解除しても、支払いは残る。

 頭金を返してもらえないんじゃ、契約したクラブとの契約金を全額返して、遡及的に契約を無効にしてもらうこともできない――だとしたら違約金は発生するだろうな。

 いくらだ? 新聞じゃ僕に支払われた契約金は500万ユーロとされていたが(というか僕はまだ正確な契約金の額を知らないってどういうことだ)、500万ユーロって、日本円で言うと6億あまりだ。その違約金が、半分の3億だとして――

 ――どうやって返せばいいんだ。17歳にして3億の負債者? はは――ギャンブル漫画じゃないんだぞ。もはや恐ろしくて、そんな冗談のような状況に、笑うことさえできない。

 家族が全部契約しました。僕は何も知りませんで開き直っても、多分駄目だろうな。ある程度僕の責任も追及されるだろう。完全に八方ふさがりだ。

「……」

 ――契約を受けるしかないのか。

 まだ僕も17だし、たった2年くらいどうということはない、2年くらい意に沿わない人生になっても、それでもまだ20歳で、その頃僕はそれなりに金を手にしている。文句を言われる筋合いはない――

家族はきっとこういう気持ちで契約したのだろう。

 実際そうだ。2年我慢するだけ――サッカーをするだけで、6億の金が入る。給料だって莫大にもらえる。

 だけど――中東だぞ? 言語もわからないし、いきなり生活しろといわれても困る。

 それに――中東に行くって事は、2年間をあの家族のためだけに費やすってことだ。あの連中が大金を手にし、一生遊んで暮らすための片棒を担ぐ――僕が中東に行っている間、あいつらは毎日遊んで暮らすのだ。僕がこの契約を受けるってことは、あの家族の残りの人生を、王族並みに絢爛豪華にすることを確定させることになる。

 ――理不尽すぎる。あんな奴等がいい思いをしている間、僕はこんな金目的の契約を結んだことで、世間から大悪党呼ばわりされているだろう。

 何より――それには埼玉高校を退学しなければいけない。

 ユータや、ジュンイチや――シオリとも、離れることになる……

「……」

 ――嫌だ。

 折角やっと、気持ちを伝えられそうなのに。これからもっとあいつらとしたいこと、話したいことが沢山あるのに。

 まだ、あいつらの優しさに、何も応えられていないのに……

「……」

 僕は太陽の光を遮るように、腕で目を覆い、震えてしまう息を漏らした。そうしながら、ただとにかく、泣かないように、必死で堪えるしかなかった。

 あいつらのことを考えると、胸が痛くて、どうしようもなかった。

 その時――

 ワン、ワン、という、犬の鳴き声が聞こえて、鳴き声が段々僕に近づいてくる。

 僕はその声に体を起こす。

 土手の向こうから、白と深い茶色の美しい毛並みの小さな犬が、僕に向かって走ってくる。

 リュートだった。

 リュートは僕の前に止まると、僕の胸に鼻を摺り寄せ、甘えてくる。

「リュート……」

「すいませーん!」

 すぐ後ろから、慌てたような女の子の声がする。

 顔を上げると、白いワンピースに、縁の広い帽子を被った女の子が、パンプスの底を鳴らして走ってくる。

「はあ、はあ――すいません。急に走り出しちゃって……助かりまし……」

 女の子は一礼して礼を言い、顔を上げると、言葉を止めた。

「ケースケ、くん……」

 マツオカ・シオリだった。

「……」

 夏風。

「え、えっと――ごめんね、待たせて。ちょっと汗掻いちゃって、あなたと会うの恥ずかしかったから、ちょっと汗の処理をしに、一度家に帰ってて。で、でも急にリュートくんが走っちゃって。また汗掻いちゃった……えへへ……」

 妙にしどろもどろになって、彼女特有の照れ笑い。照れている時はいつもこうなんだよな――

「……」

 でも――

 何だかその笑顔を見ると、心が何か、暖かいもので撫でられたような、そんな、緊張の解けるような、安息感が心を満たした。

 それを感じると、次の瞬間、悲しいような、苦しいような、そんな想いに襲われて――

 僕は次の瞬間、立ち上がり様、問答無用で彼女の体を抱きしめていた。

「え……」

 彼女の戸惑う声が、耳元で幽かに聞こえた。

 何度か彼女を抱きしめたことはあったけれど、今回のそれは、今までの包む込むようなそれとは違う。

 彼女の細い体を、潰してしまうんじゃないかというくらい、僕は彼女を、強く抱きしめていた。彼女の背中から、彼女の髪に触れて、髪を撫でる。彼女の髪に、こうして触れるのも、初めてのことだった。

「――ごめん」

 僕の喉から、言葉が漏れた。その一言を絞り出すだけで精一杯だった。

 真夏のうだるような炎天下の中でも、彼女のぬくもりは、別のものとして、確かに感じられる――

「ちょ、ちょっとケースケくん、まずいよ。あ、あなた日本じゃ今すごい人気なんだから、誰かに見られたら……」

「……」

「――その……落ち着いて? わ、私はどこにも行かないよ?」

 シオリは状況が整理できないような、戸惑ったような声で僕をなだめようとする。

 でも、僕はどうしても今は、彼女を抱きしめる腕を解くことができなかった。

 今は彼女の全てが欲しかった。体温、重さ、匂い――何か、彼女を感じられるものが、無性に欲しかった。狂おしい、という感情があるとすれば、今この時の感情だったのかもしれない。

「……」

 ――ああ、そうか。何でこんな時に、彼女に逢いたいと思ったのか――

 家族から、何か自分の大切なものを全て汚されたような気がした時――僕は確かに感じた。自分の心が、半年前と同じ、再び真っ暗な闇の中に叩き落されるような感覚を。

 僕は、その闇の中で、光を求めたんだ。植物が太陽に向かって茎を伸ばすように。

 理屈じゃない。それを無意識のうちに選択した。どうしようもなく、彼女に逢いたかった。光を探していたんだ。

 彼女がずっと、僕の光だったんだ。

 ――馬鹿だ僕は、今頃気付くなんて。

 自分が思っている以上に、僕は彼女を好きだったんだ。ずっと前から、こんなにも。


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