Bronze
首都アムステルダムのスタジアム――僕達は現地時間の13時からのキックオフで、イングランドとの3位決定戦に臨んでいる。
日本はアジア規模での国際大会では、優勝経験があるが、世界規模の大会では、どの世代もいまだ表彰台に立ったことがない。それどころか、僕達がここで負け、4位に甘んじたとしても、国際大会の成績としては過去最高である。
だから、オランダ戦以来、JFAのお偉方まで現地滞在での視察をしている。別に今更そんなものでプレッシャーを感じはしないが、それだけ僕達は今、日本サッカーの誇りを賭けた試合に臨んでいるということ。
試合は両チームともスコアレスのまま、後半20分にさしかかろうとしていた。
ボールをキープする僕は、前線のユータにパスを出したいが、後ろから二人のフォワードにプレスをかけられている。2人がかりなんて、よっぽど僕を警戒しているんだろう。背中から激しく押され、何とか倒れないようにするので精一杯だ。
――全く、デカブツがこんなチビ相手におたおたするもんじゃない。こっちはもう手品のタネも尽きているってのに。
だが、それでもまだましな方かな。どのチームもゴール前では激しいプレーを少し躊躇するきらいがある。僕は今大会、フリーキックで3得点を挙げているし、フリーキックを与えたくないという意識は、海外の選手にも浸透している。おかげでユータへの当たりも甘くなるってわけだ。
なあユータ――こんな僕でも、この大会、少しはお前の役に立てたのか?
僕は上がってきているサイドバックにボールを預ける。
サイドバックは僕のスルーパスを受けて、何とかサイドの深いところまで侵入するが、相手の戻りが早く、ユータを狙って上げたクロスが中途半端になる。
長身のディフェンダーが頭でボールをペナルティエリアから掻き出す。ボールをバイタルエリアにいるボランチが受けて、カウンターの準備が始まる。
僕は今の味方陣形を見て、一瞬で相手の対応策を導く。
「中央を突破するぞ! ジュンイチ!」
僕の指示と同時に、ボランチは前線に強いパスを送る。
ジュンイチは自陣のバイタルエリアに走って、パスを受けた相手の司令塔をチェックする。僕も指示を出しながら、自陣へ戻っていた。
ジュンイチは腰を落とし、相手の動きをじっと窺う。
日本の同世代相手では、鉄壁の守備を誇るジュンイチだけど、さすがにオランダやイタリアといった世界の強豪相手では、マンマークでは相手の強さに押し切られている。ジュンイチも日本では十分長身の類だが、世界レベルとなるとそうはいかない。
だが――それでもジュンイチは、味方が戻るだけの時間稼ぎだけはしっかりやってくれる。腰を落とし、同じ抜かれるにしても、簡単には抜かせない。自分のすべき最低限の仕事をよくわかっている。
ジュンイチ――お前はいつもそうだ。飄々として、面白いことが大好きな快楽主義者のくせに、いつも影で体張って、皆を支えてるんだよな。
ジュンイチが粘ってくれたおかげで、僕もジュンイチのフォローに回る。ボールを持つ司令塔を徹底的にマーク。体の軽さを補うために、ガツガツ当たりにいく。
司令塔がじれて無理に僕を抜きにかかったところに、ジュンイチが足を出している。ダブルボランチを組んでいた頃に徹底的に二人で練習した連携ディフェンス。一人が相手の体勢を崩し、追い詰めたところをもう一人が確実にボールを取る。
僕は前線に走り出す。
「よし、全軍突撃! こっちもカウンターだ!」
僕の指示で日本の選手は一気に前線へと上がる。今度はこちらがカウンターを返す番だ。
ジュンイチも右サイドにボールを預け、自分も前線に上がる。
ディフェンスはすぐにサイドをケアする。しかしサイドの選手は、ジュンイチが走りこんできたのを見て、ワンツーパスでもう一度ジュンイチに預ける。ジュンイチはそのままディフェンスを振り切り、もう一度バイタルエリアに進入した。
既に僕とユータがペナルティエリア近くに侵入。右サイド付近を突き進むジュンイチから見てユータがニアサイド、僕がファーサイド、僕はシュートの打ちづらい、角度のある場所に侵入している。ディフェンダーは3人、うち2人がユータ、1人がユータを警戒しながら僕の方もケアしている。
ま、当然だな。ジャンプ力には自信あるけど、イングランドのディフェンダーと僕が空中戦やったら、勝てる気しないし。
ジュンイチがクロスを上げる。
ユータに馬鹿正直にクロスを上げても得点の香りがしないと思ったのか、ボールはユータの頭上を越え、僕の方へ飛んでくる。
しかし、遠目にいた僕の頭も優に飛び越えそうなほど、そのボールは高い軌道で飛んでいる。僕は落下点に走る。ディフェンダーも僅かに僕の動きに吊り出された。
ゴールの位置を一瞬確認、角度は狭いが、シュートを打てない程ではない。一か八か、狙ってみるか――
だが、ディフェンダーの二人が僕のシュートコースを塞ごうと動いたのを見て、気が変わった。
ジュンイチのクロスが大きく外れたのを見て、ディフェンダーは僕を追ってこない。僕はゴール10メートルのところから、ヘディングでゴールを狙おうと体を反らしながらジャンプした――
――が、その動きはフェイク。
僕は反らした胸でボールを受け、ボールの勢いを殺すと、そのまま空中で左足を出し、とん、とインサイドで軽くボールを蹴った。
ただ当てただけのボールはふらふらと宙を舞い、僕の右後方へ飛んでいく。
しかしこの時、ディフェンダーは僕がヘディングをすると思って、シュートコースを塞ぐために左に吊り出され、キーパーも、打つと見せかけてのフェイクに、完全にバランスを崩していた。
それにイングランドのディフェンス陣が気付いた頃には、ユータが既にボールに背を向けて飛び上がり、オーバーヘッドキックでボールを捉えていた。
ボールはがら空きのゴール右隅に飛んでいき、ゴールネットを揺らした。
「おおっしゃぁ!」
クロスを蹴ったジュンイチ、パスを出した際に体勢を崩してピッチに倒れた僕、シュートを打って背中からピッチに倒れたユータが、ほとんど同時に歓喜の声を上げた。
このゴールは、後の日本サッカーの伝説となるゴールだった。ジュンイチのクロス、僕のフェイクからのラストパス、勢いを殺しきれなかったとはいえ、それを見事に決めたユータ――この3人の息が、見事に合っていたからこそできたゴールだった。
僕もゴールが決まった時、何だかとても嬉しかった。最後の最後でこのオランダの地で、僕達3人で大輪の花を咲かせられたような気がして。
――僕達はそれから残り時間、必死になってこの1点を守りきり、強豪イングランド相手に大金星を挙げ、日本サッカー史上初めての、国際大会の表彰台に上ることとなった。
オランダの午後の夏空に長いホイッスルが響き渡ると、スタンドの日本サポーターが歓喜の声を上げた。スタンドのブルーの部分が激しくうごめき、何だか、たまたま隣にいた知らない人とも抱き合っているような、それくらい歓喜を露にしたサポーターの姿が印象的だった。
ユータは笑顔を爆発させ、駆け寄ったジュンイチと抱き合って喜んでいる。他の選手も皆各々に体で喜びを表現している。抱き合ったり、叫んだり、選手同士で握手をしたり――
僕はそんなピッチに仰向けに倒れこんでいた。
この一ヶ月の戦いが、これで全て終わったと思うと、一気に力が抜けた。いつもより10分も長い試合、いつもより強い相手――そんな今までのホームとは違う環境で、何とか勝ち進まなければならなかった。
いつもよりも走り、いつもより激しく頭を回転させ続けた、そんな一ヶ月が、遂に終わった。この数試合、体の小さな僕にとっては激しい試合が続いたのも相まって、僕の体はもう疲弊しきっていた。
だが――心地いい疲労だった。
背中が揺れているように感じるサポーターの歓声、そして、耳に聞こえるチームメイトの喜びの声。
こうしてピッチのど真ん中に寝転がっていると、それを強く感じた。
「ははっ! おい、ケースケ!」
僕の許に、ユータとジュンイチが駆け寄ってくる。
「キャプテンがこんなところで寝てるんじゃねぇよ。サポーターに挨拶に行くぞ」
二人に手を引かれて体を起こされ、僕はサポーターのいるスタンドへ、二人と共に走る。他の選手もそれについてくる。
「お前ら最高だ! よくやったぞ!」
「感動をありがとう!」
サポーターは皆笑顔で僕達を迎えてくれた。ほんの数週間前までは批判の対象だったこの代表に、今ではこうして賛辞をかけてくれる。
それについて、もはや現金だとか、そんな感情は抱くはずもない。終わりよければ全てよし――どの選手もそれを笑顔で受け止めていた。
「ほら、行って来い」
僕はユータとジュンイチに背中を押される。バランスを崩しながら、僕は前に出される。
「……」
行って来い、と言われても……一体僕は何をすればいいんだか。
そんなことを僕が考えていると。
スタンドにいるサポーターは、僕が前に出るのを見て、全員が席を立ち、スタンディングオベーションした。
「サクライー! 代表に来てくれてありがとう!」
「最高のキャプテンだった!」
サポーターから、僕への賛辞が飛ぶ。
「……」
僕はサポーターを一瞥する。
皆、充実感に満ちた笑顔を湛え、浮遊感さえ味わうような幸福の中にいる顔だ。
――僕は今まで、自分は誰かを幸せな気持ちになんてできやしないと思っていた。
だけど――この目の前の沢山の人達の笑顔が、今僕に向けられていた。
確かに、向けられていたんだ。
僕達の試合の後に行われた決勝戦、オランダ対アルゼンチンは、どちらも世界一を決めるに相応しい戦いぶりだったが、激戦を制したのは開催国のオランダだった。
だが僕達は、もう決勝戦どちらが勝つかなどということは興味の外にあり、試合が終わってユニフォームを着替え、決戦の汗を流すと、ただひたすらに喜びに興じた。
その後の閉会式で、僕達は一人一人、FIFAの会長から銅メダルを授与され、更に僕には優秀選手賞も授与された。ユータはイングランド戦で1点を決めたものの、1点差でリードしていたアルゼンチンのフォワードも決勝でゴールを決めてしまい、得点王を逃してしまった。
――閉会式も終わり、ホテルに戻ると僕達は代表の監督、コーチ、スタッフ含めて祝勝会が開かれた。
オランダは16歳から飲酒が認められる。チーム最年少の僕でも17歳なので、酒まで振舞われた。
「いいのか、こんなおおっぴらに酒飲んじまって」
ユータは困惑した。
「明治時代に陸奥宗光が世界的に治外法権を撤廃させたから大丈夫だよ」
僕が言った。
監督が乾杯の音頭を取って、皆近くにいる人同士、グラスを鳴らし合った。選手は全員銅メダルを首に下げ、それを噛んでみたりすることで、自分達がメダルを手にした実感を得ようとしていた。
「いやぁ、サクライくん! 君のキャプテンとしての働きは大したものだったよ! ありがとう! 今後の日本サッカーが楽しみだ!」
そのパーティーの中、僕はJFAのお偉方から賞賛の言葉を浴びせられ、格段の接待を受けた。もう飲めないというのに酌をされ、少し食傷気味だ。お偉方と言っても、平たく言えば酔っ払ったオッサンなんだから。
だが、この日本サッカー史上最高の成績に、JFAは僕達各選手に、2000万円のボーナスを出すことに決定したらしい。今までの日給に、勝利給、出場給を合わせると、僕にも数千万のお金が入ることになる。
その発表に、選手達は大いに沸いた。金のために皆サッカーをしていたわけではないが、今まで頑張ってきたことが多方面で認められ、よいことずくめだった。
一通り僕の周りが落ち着くと、僕はもう酔いが回っていたし、人に囲まれ過ぎて疲れてしまい、一人ホテルの中庭に出ていた。建物に囲まれた狭い中庭で、白い砂が敷き詰められ、小さな花壇のある中庭のベンチに腰掛ける。
「……」
ここに来てから、僕は沢山の人に褒められた気がする。あまり人から褒められたことのない僕は、こういう状況にいると、何だかくすぐったいというか、居心地がよくないとさえ思ってしまう。
それに今のところ、自分が人に褒められるようなことをしたという実感はあまりない。
まあ、そんなものなのかもしれない。勝てば官軍とも言うし、完全なる勧善懲悪なんてものは存在し得ないのだろう。この世に絶対的に正しい存在など、ないのだから。
結局、そうしてわからないながらも、自分が胸を張れるような生き方を自分なりに選択して、皆生きていくしかないのだろう。
きっと、今の状況を居心地悪く感じるのも、今まで自分がそうして、自分の生きる道を信じようとすることから逃げていたからなんだろう。誰も傷つけたくなくて、自分の周りの世界に影響を与えないように、息を潜めるような生き方をして――まだ僕は、他人に影響を与えるような行動を起こすことに慣れていないだけだ。本当にこういう雰囲気が嫌いというわけじゃない。
「おう、ケースケ」
声をかけられる。
声の方向を向くと、既に僅かに千鳥足を踏むユータとジュンイチがいた。
「どうした、日本史上初の表彰台の立役者が、何一人でチビチビやってるんだよ」
相変わらず酒を飲むと陽気さに拍車のかかるジュンイチが、笑顔で僕に言った。
「……」
3人とも、同じメダルを首に下げている。
「いやぁ、しかし今日のゴール、最高だったな!」
ジュンイチが痛快そうに笑った。
「ああ、俺達3人、見事に絡んで決めた、最高のゴールだった」
ユータもあのゴールに満足気だ。オーバーヘッドという難しいゴールだっただけに、それを決められたことがフォワードとして嬉しいのだろう。
「そしてそのゴールのおかげでメダルも獲れた。言うことなしだ」
「ああ、俺は長年の夢だった、海外でプレーする道も開けそうだし」
二人はメダルをそれぞれ相手にかざしながら、感慨深そうに微笑んでいる。
「……」
誰の笑顔を見るよりも、この二人の笑顔を見れたことが、柄でもないが、嬉しかった。
出会ってから3年という月日は、人生の中では微々たる時間かも知れないが、その3年間でこいつらに迷惑をかけたことは数知れず。
だけど、少しはマシな奴になりたいと思って、僕はこいつらから逃げずに立ち向かった。
――今の僕は、少しはマシな人間になれただろうか……