Relax
今のところ僕は、大会ベストイレブン候補にいるわけだけれど、僕自身はこの大会で、自分が世界的プレーヤーになれたという自負はあまりない。それどころか、自分のサッカーの伸びしろはもうここまでだと思ったくらいだ。チームの士気に影響するから、まだ誰にも言っていないけれど。
グループリーグは相手の情報不足と、日本に対する慢心を突けば何とかなった。だけど決勝トーナメントに進んでからは、さすがの僕も世界の壁を痛感した。
ベスト16のコートジボワール戦――アフリカ人特有の、並外れた身体能力は、僕の想像をはるかに超えていた。戦術や、動きは大体読み取れたものの、身体能力がすごすぎるせいで、先読みできてもそれを越える動きをされ、対応に四苦八苦した。ベスト8のイタリア戦は、イタリアの伝統的サッカー、カテナチオの前には、僕のパス、ドリブルでチャンスを作ることができなかった。そして昨日のオランダ戦は、長身で屈強な選手達のパワーに圧倒された。彼らの半分程度の体重しかない僕は、体を競らせてもほとんど意味を成さず、スピード勝負に持ち込もうと思っても、なかなか自由にさせてもらえなかった。
僕はユータのように、スポーツ向きの体ではない。サッカー選手として体格に恵まれていないと言われるリオネル・メッシよりも、更に20キロ近く体重が少ないのだ。高校サッカーではそんな体でも何とかごまかせたが、このレベルとなると、もうごまかしきれなかった。
僕にオファーを出すクラブは、まだ僕が17だから、体の成長の余地があるだろうと期待し、今からトレーナーをつけて、食事やトレーニングの英才教育を約束するクラブばかりだった。高校時代、大した指導者もいなかったというデータも集めたようで、指導者と体格矯正に恵まれたら、将来バロンドールも狙えるポテンシャルがあると評価するクラブも多かった。
確かにそうなれれば嬉しいが、僕の体が今更大きくなる保障もない。そんな不確定な要素にかけるよりは、まだ頭脳の方が伸びしろがあるように思えた。
僕は構え直し、もう一度バットを振った。
「――さあ。正直今はよくわからない。日本に帰って、自分の生活がどう変わるかもわからないし、帰って少し落ち着いてから、じっくり考える」
とりあえずそう言ってお茶を濁す。報道陣にもよく言う建前だ。
そう言ってから、僕はバットを下げ、ピッチに杖のように突いて立った。
「ただ――やっぱサッカーってのはいいスポーツだと思うよ。将来、仕事になるか趣味になるか、他の関わり方になるかはわからないけれど、できればこの先もサッカーに関わる何かができたらいいなとは思う」
「へぇ……」
ジュンイチが含み笑いを浮かべた。
「その台詞、野球のバット持って言う台詞かよ」
「これは僕の調整法なんだよ」
「お前、3年間ずーっとバット振ってたもんな」
ユータが言う。
僕は、この華奢な体格のために、体の回転を使って蹴るボールに威力を与えてきた。体の回転――つまり腰を軸とした遠心力運動、それには体の軸、体幹を強く意識することが重要だ。
色々試行錯誤した結果、僕がそれを意識する一番の調整が、このバットの素振りだった。中学時代は打率6割を誇る好打者だった僕は、中学3年間、嫌というほどバットを振っていたし、打撃フォームは体の軸がしっかりしていた。バットも腰の回転で振るという原理は同じだし、実際にボールを蹴るよりも体の負担が少ない。威力あるボールを蹴るために、野球経験者の僕が独自に取り入れた調整法だった。多分中学時代からバットを振っていた僕以外には意味のない調整法だ。
「それだけバット振ってりゃ、元々足と守備はすごいんだ。少しの調整で甲子園のスターどころかプロも狙えそうなもんだが――お前、もう野球に未練はないのか?」
ユータが訊いた。ユータは僕をサッカー部に一方的に勧誘したため、僕が無理して野球を捨てたのではないか、いまだに心配なようだ。
「ない」
僕はバットを構え直した。
「初めは色々迷ったし、サッカーに思い入れもなかった。成り行きでやっているだけだったが、それでも続けられたのは、サッカーが嫌いじゃなかったからなんだろう。今ではサッカーを楽しいと思ってやっているし、サッカーが好きだと思っている」
そうだ、今はサッカーが楽しい。
今まで、そう思ってサッカーをしたことはなかったけれど……
それに、サッカーを通じて、お前達と出会えた。サッカーを続けていたからこそ、今の僕がある。
僕は十分、サッカーをやってきた甲斐があった。プロになんてなれなくてもいい。それだけで十分だった。
「ユータ、ジュンイチ」
僕は二人に背を向けて、バットを構え直した。
「その――僕をサッカー部に誘ってくれたこと、今では感謝してるから。ありがとう……」
照れくさくて、声が尻込みしてしまう。
「あの――次の試合が終わったら、僕、お前達に伝えなきゃいけないことがあるんだ。聞いて貰っても、いいかな……」
情けない。ずっと前から、それを聞いて貰うためにやってきたというのに、今更そんなことを言うことが、柄でもないことに気付くなんて。
「サクライくーん」
複数の人の声が、僕を呼ぶ。
僕は振り向くと、日本、オランダ、世界の報道陣が、僕の方へやってくる。
僕はバットを手近に置いて、自分の鞄からウインドブレーカーを引っ張り出す。
「あ、いいよそのままで、3人のリラックスムード、絵になるよね。写真撮ってもいい?」
報道陣の一人が、僕が服を着ることを制した。
「あ、どうぞどうぞ」
僕が答える前に、後ろのユータが答えた。
「ファンサービスファンサービス」
ジュンイチが僕に言う。
「……」
大事な話をしていたのに……
「サクライくん、キャプテンとして今大会、目覚しい活躍だよね。いくつかこの大会でのことと、昨日のオランダ戦、明後日のイングランド戦のことについて、インタビューしたいんだけど、30分くらい時間取れるかな」
「はぁ……別にいいですけど」
ここに報道陣が来るということは、代表スタッフの許可を取っているということだろう。ということは、むしろインタビューを受けろということだ。僕は一応、この代表の広告塔ということにもなっているし、キャプテンとしての責任もある。
「そう! 助かるよ。日本でも君の人気が更に過熱しているみたいでね。君のインタビュー、いやでも持ってこいって上がうるさいんだ」
「……」
この時僕は、日本に帰って、自分の生活がどんな風に変わるのか、そんなことを考えていた。
でも――問題なのはそんなことじゃなかったんだ。
もう既にこの時、日本ではとんでもないことが起きていたんだ。僕はまだ、それを知らなかった。
「――昨日のオランダ戦は確かに日本も粘りましたが、やはり選手の力に圧倒的な差がありました。世界の壁を痛感しましたね――すいません、予定ではもうちょっと走れるつもりだったんですが、どうやら僕も激しいプレスに体力を奪われていたみたいです。次のイングランド戦ですか……正直メダルがどうとか考える余裕はないです。イングランドなんて、皆サッカーをはじめた頃から、勝つことを夢見ているチームですし、今までの試合どおり、まずは意地を見せることに専念します」
「それじゃあ個人的な話を――この大会で、親友のヒラヤマ選手と、サクライ選手が世界的に評価されていますが――得にサクライ選手は、キャプテンとしての存在感や、戦術家としての評価も高まっていますが、その点について何かコメントを」
「僕のことは、まだ実感がないので、コメントできかねます。ただ、ヒラヤマくんは高校時代から海外でプレーしたいと言っていたので、喜ばしいことじゃないでしょうか。ただ、あいつが今海外に行ったら、言葉が通じなくて四苦八苦するでしょうけど」
――そんなインタビューを、練習場にある広間で行い、僕は練習場に一人戻る。
「どわ! このノーコンめ! ちゃんとストライク投げろよ」
練習場から楽しそうな声が聞こえる。
練習場を見ると、選手のほぼ全員が集まって、ピッチのそこかしこに散っている。
「何やってるんだ?」
僕は皆に駆け寄って訊く。
「あ、サクライ。ちょっとお前のバット気になっててな、ちょっとお遊びだ」
近くにいたマスダが教えてくれる。
よく見ると、確かにピッチの一番向こうにいる選手がバットを持って、目の前のピッチャーのボールを待っている。ボールはゴムボールだ。
「いやぁ、調整といっても、何かスカッとしたくてさ、ボールをかっ飛ばしたら、気持ちいいかなと思ってさ」
ジュンイチが言った。どうやら他の選手は球拾いのつもりらしい。
「しかし、みんな野球なんてほとんどやったことないからな。ストライクが入らねぇんだよ」
ユータは呆れ顔で笑う。
「……」
ピッチャーがボールを投げるが、確かにデッドボールを怖がって、外角にボールが外れる。
しかし――このチームも変わったな。僕が来た頃は、こうして皆で和気藹々としたムードなんてなかった。試合でも、試合以外でも、選手同士で同じことを共有することがなかった。チームがバラバラだったのに。
「――貸してみな。僕が投げてやるよ」
僕はピッチャーにボールを催促する。
「皆に打たせてやる。だけどあまり全力でバット振るなよ。こんなお遊びで怪我なんかしたら、洒落にならん」
僕が言うと、選手達が沸き立った。
僕は軽いゴムボールを、超低速で投げる。バッターの選手はそのボールにバットを出し、ボールは僕の頭上はるか高く、オランダの夏空に飛んでいく。
皆の笑い声。
――このチームは、本当にいいチームになった。
この調子なら大丈夫、次の試合、必ず勝って、世界に僕達の力を見せてやる。
そして――この大会で、綺麗に咲き誇って、僕の光で、大切な人を照らしてやるんだ。
真夏の朝顔のように――
カテナチオ…イタリア語で、「ゴールに鍵をかける」という意味の戦術。フォワードまでが自陣に戻って全員でゴールを固め、ボールを奪えば素早いカウンターで攻めるという戦術。イタリア人が好む戦術で、プレーする選手は、ピッチを走りまくるので、相当なスタミナが必要。