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「うお……」
僕はオランダに出発前、空港で自分の手持ちキャッシュをユーロに両替しに両替所に来ていた。
そして、まず日本円を下ろそうと、ATMで残高照会した時、思わず声が出た。
僕の口座には、既に見たこともないような預金額が記録されていた。2週間の代表合宿、その間の2試合のフル出場給、勝利給、全て含められた額が、既に僕の口座に振り込まれていた。事前に告知されていたとはいえ、その額は実際振り込まれているのを見ると、僕を大いに驚かせた。
3ヶ月前も、僕はデンマーク、コペンハーゲンで行われた数学オリンピックのために、ユーロ両替を行ったが、その際はアルバイトを辞めたばかりでお金に余裕がなく、他の出場者達と観光にも行けず、自分で買えるものは水しかないという有様だった。後のお金は全て滞在先のホテルスタッフへのチップで消え、シオリに土産のひとつも買ってやれなかった。
僕は思わずほくそ笑む。
中学を卒業してから、僕はこの3年間、金に困らなかったことがない。
俗物と言われるかもしれないが、そんな僕が、今ようやくこの悩みから解放されたのだ。
それが嬉しいという感情とは、ちょっと違うと思うけれど……
ただ、金があるということは、僕の人生の可能性が、ほんのちょっと広がるということだ。
天才、時代の寵児と言われても、僕はこの貧困のために、自分の可能性を狭めざるを得なかった。美味しいものも食べられず、誰かと遊ぶこともできない。
金を節約するために、食べて、机に向かい、そして寝る――
それだけで、人生という茫漠たる時間を潰した。
僕の人生とは、それだけの人生だったんだ。
そんな毎日を送っている時、敢えて考えないようにしていたけれど。
やっぱり僕も、もっと色々なことがしてみたい。美味しいものも食べてみたいし、色んな景色を見てみたい。今までは学べなかった、世界中の不思議なことも理解したいし、挑戦したいことだってある。
そしてそんな毎日を、大切な友達や、愛する人と共有することができたら……
もう、何も言うことはない。
このお金を見て、そんな毎日にまた一歩近付けたような気がした。
客観的に見れば、実に小さな一歩だろうと、自分でも思う。以前は誰も追いつけないところまで、全速力で駆け抜けてやろうとしていた僕が、こんな蠢動のような一歩を噛み締めるなんて、自分でもおかしいと思う。
だけど……
この、気持ちは――
「――あの、お客様?」
「え?」
両替窓口の女性に呼び止められ、僕は我に返る。
「す、すいません。えっと――ここにサインでしたね」
僕は両替のための簡単な書類に、持っていたボールペンを走らせ直す。
「――あの、お客様、あの、サクライ・ケースケさん、ですよね?」
書類に自分の名前を書いている時、目の前の女性が僕に話しかけた。
「これから大会なんですよね。頑張ってくださいね。私達も応援してますので」
「……」
そうだな、頑張らなくちゃいけない。
感慨に浸るのはまだ早い。
まだ僕は、あの二人を、ちゃんと『友』と呼べていないんだから
まだ僕は、あの娘に、自分の気持ちをちゃんと伝えていないんだから。
「おーいケースケ、両替は済んだか?」
折節、ユータとジュンイチが両替所に、僕を迎えに来た。
飛行機で約18時間の旅路――僕はほとんど寝ていた。さすがに僕だけ休みがなかったため、疲れがピークだった。
首都アムステルダムに到着すると、僕達はバスでそこから程近いユトレヒトへ移動し、そこでキャンプを張ることとなった。
日本は既に梅雨入りし、少し動くだけで汗をじっとりとかくようになったが、それに比べるとオランダは幾分涼しい。オランダは緯度的には北海道よりも高い場所にあるから、真冬は氷点下がデフォルトの寒冷な国だ。オランダより更に高緯度の、北欧デンマークに行った時は、まだ2月だったから、一面が銀世界で、交通も停滞しており、スキーにすら行ったことのない僕にとって、生涯最高の寒さだった。雪に埋まった街を、僕は初めて見た。
「オランダかぁ。俺、この日のために、デジカメ買っちゃったぜ」
おそらく僕と同じくらいの給与が振り込まれているだろうジュンイチが、バスに乗ってから最新型のデジカメを構えて、窓の外の景色を撮っている。
「オランダって、結構日本と共通点あるのかな。江戸時代、鎖国中でも交易した国だし、蘭学なんてものが盛んだったって言うしな」
歴史好きのジュンイチは、大いにオランダを満喫しているようだった。
オランダは小さいながらも、世界的に見てもサッカーの盛んな国のひとつだ。これからこの国の至る所にあるスタジアムで、各大陸の予選を勝ち抜いた32チームが予選リーグを戦う。
ホテルは3人で一部屋の編成で、僕は勿論、ユータ、ジュンイチと同室となった。
「うーっ、一日移動だったからなぁ。俺は今日はゆっくりしたいぜ」
部屋に着くと、ユータがネクタイを緩めながら、大きく伸びをした。
「しかし、バスで移動してる間、至る所にサッカー関連のポスターやらを見かけた。どうやら国中でこの大会を運営するだけあって、国民も盛り上がっているようだな」
この大会は、20歳以下の選手のみで行われる、ワールドカップなどと比べると小規模な大会だが、世界中の強豪が集まるだけあって、ヨーロッパなどでは注目度が高いようだ。大会出場選手には、既にスペインやイングランドなどのビッグクラブでプレーしている若手も沢山いるし、世界中のクラブスカウトが、金の卵を発掘しにその目を光らせている。この大会は、勝敗よりも、そんな新星の品評会としての意義の方が大きいと思われる。
「……」
「ん? ケースケ、何読んでるんだ?」
ユータはベッドに腰掛ける僕の方を見る。
「あぁ、空港で買った英字新聞だよ」
オランダは公用語がオランダ語なのは当然だが、このあたりの国はマルチリンガルがかなりいる。さすがの僕もオランダ語やフランス語は専門外だが、英語なら十分いける。
「僕達の記事も結構出てるぜ。読んでみろよ」
そう言って僕は、ユータに英字新聞を渡す。
「こ、これは……」
ユータは英字新聞の記事に目を通すと、目を見開いた。
「――読めねぇ」
「……」
「ですよねー」
ジュンイチが大笑いした。
「――お前、いつか世界でプレーする気なら、今のうちに語学は何かやっておけよ。中田は高校からもうイタリア語を勉強してたっていうぞ」
僕はユータから英字新聞を取り返す。
「で? 何が書いてあるんだよ」
ジュンイチが訊いた。
「そうだな、ヨーロッパ名物トトカルチョの倍率とか、各チームの監督のコメントとか、グループの勝ち上がり予想とか、色々だな」
サッカーを知らない人のために言っておくが、トトカルチョはイタリア語だ。カルチョはサッカーという意味で、ヨーロッパでは昔からサッカーによる賭け事が盛んだ。
「ま、詳しいことは後でミーティングで話すよ」
「……」
ミーティングの壇上で僕の話を聞いて、選手達は怒りを滲ませた。
僕の説明した英字新聞の記事内容はこうだ。
まず、今大会優勝予想の公式トトカルチョで、日本の倍率は、32チーム中最悪の1271倍――大穴中の大穴になった。僕達と同じグループのフランスは、全体4位の7倍、チェコは12位で27倍、メキシコは15位で53倍だった。
これを反映するかのように、僕達のグループの勝ちあがり予想は、まずフランスが順当に一位通過、チェコとメキシコが熾烈な2位争いを行うとされており、日本の最下位はもはや言及さえされていなかった。日程の最後にチェコとメキシコの直接対決があり、この試合の勝者が勝ちあがることとなるだろうとしている。
初めから日本はグループの数に入っておらず、このグループは三つ巴の様相であると宣言されたようなものだ。
それを反映するように、3国の代表監督も、日本に対して屈辱的な言葉を残している。僕達と緒戦で当たるメキシコは、「日本は予選の映像を見たが、脅威に感じるシーンはなかった。だが油断は禁物、勝っていい流れで大会に入っていきたい」という監督のコメントが載せられていた。非常に相手に敬意を払ったような物言いだが、つまるところ、日本は踏み台扱いである。
「――ちくしょう」
誰かが声を漏らした。
「お前達、この記事を見て何も思わないのか?」
先頭に立つ僕は、選手達を一瞥した。
「……」
選手達は首を傾げる。
「仕方ない、じゃあヒントをやろう」
僕はミーティング室にあるホワイトボードの前に立ち、マジックで『フランス』『チェコ』『メキシコ』『日本』と書いた。
「いいか、このグループで自他ともに認める、戦力の突出した国はフランスだ。フランスは多分このグループを全勝突破してもおかしくないと思う」
僕は一番上のフランスの横に『3勝』と書いた。
「次に、日本――新聞に書いてある通り、このグループは日本に勝てなければその時点でその国は終わりとまで書かれている。ということは、僕達はこうだ」
僕は一番下の日本の横に『3敗』と書いた。
「さて、問題はここ――最終戦でチェコとメキシコが当たるということは、それまでにこの2国はどちらも、日本、フランスと戦っている。そうなると、当然結果はこう」
僕はチェコとメキシコの横に、『1勝1敗』とそれぞれ書き足した。
『おそらく僕達以外の3国は、このグループにこういう青写真を描いているはずなんだ。で、この2国のどちらかが2位で通過できるか――結局それは最終戦頼りとなる。勿論ここで勝てたら万々歳だが、見る限りこの2国は実力が拮抗している。当然引き分けということも相手は想定している』
僕はチェコ、メキシコの横にそれぞれ書いてある1勝1敗の横に『1分け』とそれぞれ書き足した。
ホワイトボードに書かれた文字はこうなった。
フランス 3勝
チェコ 1勝1敗1分け
メキシコ 1勝1敗1分け
日本 3敗
「さて、これを見て、何かわかったか?」
僕はもう一度訊く。
「――この状況まで追い込まれたら、点数は得失点差で決まる」
そう答えたのは、後ろの方の席に座っていたマスダだった。
「その通り。言い換えれば、チェコとメキシコは日本戦で多く点を取ったチームが勝つ」
僕はマジックでマスダの顔を指す。
「つまり、この2国にとって、日本戦はただ勝てばいいという問題じゃない。大差を付ければ付けるほど、自分の勝ちあがる可能性が大幅にアップする。いわば日本戦は、最終戦、引き分けになった時の保険の意味を成している」
「……」
「僕達の試合、この2国はもう守備なんてことは考えていない。攻撃的な思考で臨まれると思う。特に緒戦のメキシコは、早々に保険をかけておきたいというのと、チェコにプレッシャーをかけたいという思惑から、その姿勢が顕著に出るだろう」
僕はにこりと笑った。
「思い出したくないだろうが、つい先日のお前達と同じことを考えているはず」
「ちっ」
誰かが舌打ちした。
僕が言う、つい先日、とは、当然代表合宿で僕が率いる寄せ集め軍団に惨敗した試合のことだ。
あの試合も、大勝しなければ見ているサポーターから批判を受けるということで、攻めを焦っていた代表は、それを僕に見抜かれ、僕の手の内で踊った。
「何時も敵を我が掌中に入れて合戦すべし――ここまで相手の思考、出方がわかっていれば、相手の嫌がる手はこちらも打ちやすい。それに、向こうはついこの間までやっていた僕達の代表合宿での出来事をほとんど知らないはず――相手を陥れるには、かなりいい材料が揃ってる」
「あぁ、なるほど!」
選手達は途端に頷きだした。
それを見て、僕は手に持っていた英字新聞を軽く叩いて見せる。
「ここまで馬鹿にされた以上、相手を手の内で転がして戦えたら、きっと痛快だぞ。どうだ、ちょっとはやる気出たか?」
僕はシニカルな笑みを作る。
「ああ、やってやろうぜ!」
マスダが立ち上がった。
「日本人の意地、見せてやろうぜ!」
マスダの声はよく通る。その声に鼓舞され、選手達は、おお、と声を出し、次々椅子から立ち上がった。
「よし、じゃあやる気が出たところで、監督も交えて作戦会議といこう」
僕は監督に壇上を譲り、自分の席に戻った。
「作戦といっても、じゃあまた緩いパス回しで、相手をイラつかせる作戦か?」
ジュンイチは訊いた。
「ワンパターンな戦術だが、それは効果があると思う。序盤の試合の主導権も握れるし――弱点らしきところを作っておけば、まずかかるだろう。だが今回はそれだけじゃ足りないな――さすがに世界相手にそんなチャチな手は90分は持たないし、どのチームも試合を選手だけで修正できるだけの力はある。どこかで奇襲をかけたいな――」