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「あんた――何様のつもり!」
母親の金切り声。相変わらず不快な響きで、耳が痛い。
「――別にそんな反応することもないと思いますよ。元々高校まではこの家に置いてやるが、卒業したらすぐに出て行けと言っていたのはそっちで、こっちはそのつもりでバイトで金貯めてたわけだし――」
まあ、予定は少し狂ったけどね。
「僕と絶縁すると前から言っていたのはあなた方でしょう? そっちとしても、予定が早まって、願ったり叶ったりだと思いますけれど」
「……」
頭の弱い母親は、押し黙ってしまう。
その間に僕は、手近にあったメモ用紙を2枚引っぺがし、親父と母親の前に置いた。
「取りあえずそれに、絶縁状を書いてください」
その言葉に、親父が激昂して立ち上がった。
「テメエ! 調子に乗るんじゃねぇぞ!」
僕ににじり寄り、僕の胸倉を掴んでくる。これだけの腕力があれば、敵の胸倉を掴む下策でも、相手を確実に制することができる分、有利にもなるかな。
「大体さっきから何だその口の聞き方は? 他人行儀を装いやがって」
「……」
僕は親父の顔を、暗鬱とした目で見つめた。
「その目をやめろ!」
「……」
「その目をやめろって言ってるんだよ!」
親父の鉄拳が、僕の顔を捉えた。
「やめておいた方がいいですよ」
僕の怜悧な言葉で、沸き立った親父は一瞬動きを止める。
「明日から僕は一層マスコミに追われる身です。明日は学校で記者会見もありますし。顔に傷をつけたら、あなた方の本性が疑われるでしょうよ」
「くっ……」
その言葉に、親父はこぶしの下ろし場所がわからないといったように、拳を振り上げたまま、体を怒りに痙攣させた。
「……」
僕はため息をつく。
「僕のことを、他人行儀と言いましたね。でもしょうがないでしょう」
僕は自分の胸倉にかかる親父のヤツデみたいな手に、自分の手を掛ける。
「息子の胸倉を当然の如く掴むこの状況を、家族と言えますか? 息子が大舞台に望むのに、活躍を祈らず、自分の恥を心配するさっきのあなた方の言動が、家族の言動ですか?」
「……」
「僕とあなた方の間に、家族らしい部分がどこにあります? あなた方は僕をどれだけ知ってますか? 僕の趣味、特技、食べ物の好物、得意科目、サッカーでの僕のポジション、どれかひとつでも言えます? 今となっては僕の誕生日さえ覚えていないでしょう」
僕は親父の影から、座っている祖母や妹の顔も一瞥する。
「少なくとも僕はそうだ。あなた方のことを何も知らない。誕生日すら、もう忘れた。これから知ろうとも思いません。あなた方もそうでしょう。そういうのを、家族とは呼ばないでしょう」
「……」
「僕とあなた達は、もう家族じゃないんだよ」
「……」
沈黙。
その間に僕は、胸にかかる親父の手を振りほどいた。親父ももう、拳の所在がわからず、力が抜けていたので、脱出は容易だった。
「ひとつだけ宣言しておく」
僕は掴まれていた部分を手でさすりながら、言った。
「今後は流動的だが、もし僕が今回の大会で勝ち進んだら、その程度次第で、帰って来次第、即アパートを探すから」
もう僕は心を決めていた。
金目当てで今度の大会に出るわけではないけれど、もし自分に金が入ったら、すぐにでもこの家を出て行ってやる。
「だが生憎、未成年じゃ家は借りられないんでな。契約は全部僕がやるから、あなた方には契約書に同意のサインをしてもらう。それで僕は二度とこの家に帰らない。あなた方との関係も永久に終わりだ」
「……」
「遅かれ早かれあなた方と僕の関係は、そのうち完全に断絶するんだ。できれば素直にサインをしていただけるとありがたいな……」
「駄目よ!」
母親が急に立ち上がった。
「一人暮らしなんて絶対認めない!」
「そうよ、あんたはここにずっといるの」
「ケーちゃん、私を置いてどこかにいくのかい?」
母に続き、妹、祖母も反対する。
「絶対に許さん」
目の前の親父までも反対の意を表明した。
「お前を一人にして、万事無事に済むとは思えないんでな。一人にさせて、何か問題でも起こされたら困る」
「あのさ――この3年間、僕が生活面で何かトラブルを起こしたことがあったか? あなた方に尻拭いをさせたことが一度でもあったか?」
「うるせぇ!」
僕の論破を、親父は得意の強引な手法でごまかした。
「とにかく認められんものは認められん!」
「……」
やれやれ、こいつら、この前まで僕を追い出したがっていたんじゃないのかよ。この半年、こいつらは僕がいることで、今までの比にならないほど、世間体を気にしなければならなくて、疲れきっているはずなのに。
僕を追い出して、知らぬ存ぜぬの生活になった方が、こいつらとしても気楽だと思うけれどね。今更世間体を守るメリットなんて、あるのかな……
「――まあいいや。現状は大会の結果で変動する、不確かな未来だし、取りあえず話だけで」
こうなるともう話は平行線を辿ることは目に見えていたので、僕は早々にその舞台から降りた。明日は記者会見もあるし、色々ごたごたする前に、合宿のための荷造りもしたい。
「取りあえず大会が終わったら、また話をするから」
僕はそう言い残して、踵を返す。
「待てよ」
親父がそんな僕を呼び止める。
「テメエ、俺達を馬鹿にするのもいい加減にしろよ。有名になった途端、こっちが手出しできねえと思って付け上がりやがって」
「……」
僕はその言葉を聞いて、笑ってしまった。どうやらこの半年の僕の構成は、自分のネームバリューが僕に自信を与えたからだと思っていたらしい。
「何がおかしい!」
僕の笑う様に、気分を害した親父は、僕を怒鳴りつける。
「勘違いするなよ。僕は今の世間の地位なんて、何とも思っちゃいない」
そう言ってから僕は家族の前で、初めてにっこりと笑った。
「ただ――僕がお前達に日陰に追いやられても、何度でも、何度でも日向に植え直してくれる――そんな人に、出会えたからさ」
それだけを言い残して、僕はリビングを後にした。
――後になって思えば、僕はこの時、話し合いを継続すべきだった。早々に降りるべきじゃなかった。徒労に終わっても、もっと追求すべきだったのだ。
もうこの時、全ては影で動いていたのだ。この時点でそれを潰すことができれば、その後の悲劇に繋がることもなかったのかも知れない。
何故――何故この時、気付くことができなかったのだろう。
翌日の埼玉高校では、僕、ユータ、ジュンイチの3人が、最終選考のメンバーに選ばれたことへの記者会見が、視聴覚室で行われた。
報道陣の数はものすごかった。全国大会で準優勝をした後、これからの進路を聞かれた時よりもすごい。おまけに校外に待ち構えるファンの数も過去最多を記録し、埼玉高校は、臨時雇いのガードマンを増員、更に再び機動隊まで導入して、混乱の鎮圧を図った。
何故ここまですごい騒ぎになってしまったかというと、この記者会見と並行して、JFAは僕の日本代表ユニフォームの初お披露目をしたからだった。この世代で一番人気のある、僕達3人の写真を撮影し、今後の応援キャンペーンの広告塔にしようというわけだ。校外のファンも、待ち望んだ僕の日本代表ユニフォーム姿を見に来るため、または写真撮影して、それを無断で転売するため――目的はそんなところだった。
ユニフォームに着替えた僕が視聴覚室に入場すると、目がおかしくなりそうなほどのフラッシュを焚かれ、僕は目をしばたいた。
僕の合宿での背番号は20だった。ユータが11、ジュンイチが19だった。
くしくもこの背番号は、高1の初めての大会で、3人が背負った背番号と同じだった。あの時1年生でベンチ入りを果たしたのは、僕達3人だけで、既に1年でレギュラーが確定していたユータは11番、残りの僕とジュンイチは、先輩の顔を立てて、一番後ろの番号をつけた。初心者だった僕は、どん尻の20番だ。
この大会で僕とジュンイチは、先発起用が一度もなかったが、スーパーサブとして大活躍した。その次の大会からは、ジュンイチは6番、僕は10番を獲得した。いわばこの番号は、プロを相手にアマチュアが生き残りを目指す下克上に挑む僕とジュンイチにとって、ゲンのいい番号であった。
記者会見が始まる。3人いるものの、ほとんどの質問は、沈黙を破っての初選出と、話題に事欠かない僕に向けられた。
「何故今まで代表を辞退し続けていたサクライ選手が、今になって出場を決意したのでしょうか」
「それは私の私的な部分があまりにも大きいので、この場で具体的な理由を述べることはできません」
僕はこの時点で、自分の大義名分が万人に受け入れられないことを知っていた。
「ただ、今まで私は、サッカーでプロになるなんていうことは考えたこともありませんでしたし、今も沢山のチームからオファーをいただいてはいますが、まだ迷っています。そんな浮ついた心でプロや代表のピッチに立つことが、何となくファンの方々に対して後ろめたい気持ちでいました。ですから、心の整理がつくまでは、こんな自分が表舞台に立つべきではないと考え、代表を辞退してきました」
「それでは、今回の選出を受けるに当たって、もう心は定まったということでしょうか」
「どうでしょうか。正直今でもこのユニフォームを着て、国の威信とかを賭けてサッカーをするという感覚はありません。多分私はそういう意識で戦うことはできないでしょう」
「……」
「ですが、この数ヶ月、色々考えたのですが、結局私にできることは、勝ちを目指してサッカーをやることと、サッカーを楽しむこと、この二つしかないんだという結論に至りました。それでもいいのなら、という条件付きで、今回選出させていただきました。まだ場違いな思いも拭えませんが、一生懸命頑張りますので、よろしくお願い致します」
「な、なるほど。では、大会の目標は?」
「目標ですか……そうですね。まずは大輪の花を咲かせられるように、頑張りますよ。真夏の朝顔のようにね」
そんな受け答えをして、記者会見は終了した。
教室にユニフォーム姿で戻ると、授業を中断して、学校のテレビでニュース生中継されていたテレビで会見を見ていたクラスメイトが、僕達のユニフォーム姿に沸き立った。
「わぁ、サクライくん、似合うじゃん」
「でも番号がなぁ、やっぱりサクライくんは10番が似合うよ」
皆が僕達を取り囲む。
「しかし、お前にしては珍しい、失言連発の会見だったな」
ユータが心配そうに言った。
「この時期に、あんなお気楽な発言をしたら、きっと非難ごうごうだぞ」
「いいんだよ、別に」
僕は笑ってやる。
「それが狙いだからね」
「はぁ?」
「まあ、お前に考えがあるなら、いいさ。しかし最後の意気込み、ありゃなんだよ」
ジュンイチも苦笑いを浮かべた。
「咲き誇るにしても、真夏の朝顔って――どうせなら向日葵とか、景気のいい花を言えよ」
「いいんだよ、朝顔で」
僕は教室の隅で、遠慮がちにしているシオリを横目で窺った。シオリも呆れたような苦笑いを浮かべていた。
――ユータの予想通り、僕の記者会見での発言は、インターネットではすごぶる評判が悪かった。
だが、今はこれでいい。まずはここからだ。