Retirement
「へえ、正答率73%か」
僕は答案を見て感嘆の声を上げる。
「夏前にこれなら、頑張り次第で、マイさんの志望校合格は固いな」
僕は机を挟んで斜め前にのマイに、自分の持っていた答案を返す。
「それに比べて……」
僕はマイの隣に座っている、悲壮感たっぷりのジュンイチの顔に目をやる。
「……」
頭を抱えるジュンイチ。
「ごめんなさい、エンドウくん。本番さながらに、採点を辛くしたから」
僕の隣のシオリが謝る。もはや空元気を出す気にもなれないらしい。
「国語は8割超えてるんだけど、やっぱり数学ね」
「まあお前にしては数学の正答率32%は善戦した方だ。正直2割切るかもと思っていたからな」
僕はジュンイチの答案に目をやる。
「3科目の総合正答率は、51%か……得意科目で少しは挽回できるだろうが、こりゃ頑張らんとな」
「ちぇっ、全く……余裕のコメントしやがって」
呆れ半分でジュンイチは肩をすくめた。
「シオリさんは正答率96%、国語は満点。そしてお前は、古文の単語問題で一問間違えただけの、正答率99%――東大主席も射程圏内」
「本当、同じテストやったとは思えないわ。二人と受験勉強していると、こっちは冬頃には自信喪失しそうだわ」
マイもため息をつく。
僕達は、先日ユータの家に行く前に、書店で買ったセンター試験の過去問を、放課後の教室で、本番さながらに時間を計って解いてみたのだった。時間がかかるから、今日は英語、数学、国語(現古漢)だけだけど。情を挟まぬよう、僕とマイ、シオリとジュンイチがそれぞれ答案を交換して、ついさっき答え合わせが終わったところだった。
サッカー部は、一面しかグラウンドがなく、本来ならもう引退しているはずの僕達3年生がいつも独占しているのでは、後輩がいつまでもレベルアップしない。なので3年生は、週2回はこうして練習を休んでいる。半年前まで受験勉強に特化した高校の名残で、いきなりは変わらなかったのだ。
「――しかし、お前がマイさんと同じ大学に行くためには、荒療治が必要かな……」
僕は腕組みして、ジュンイチの呆けた顔を見る。
「う――な、何か怖いんですけど?」
「来月の期末テスト、数学が50点切ったら、お前は国立受験か現役合格のどちらかを諦めろ」
僕はジュンイチにそう宣告した。
「マジかよ、50点とか……俺、中間ですら28点で、この学校来て初めて赤点回避だったんだぜ? その倍じゃねぇか」
「それくらい言わないと、根性出ないだろ」
「……」
「安心しろ、それまで僕がみっちり勉強を見てやるから。昼も夜もずっと。赤勉よりも更にハードに鍛えてやるから」
「マジで? しかし、昼も夜もは無理だろ」
「――今にわかるさ」
僕はふっと笑う。
――折節、もう誰もいなくなった教室の外の廊下から、上履きで床を蹴る特有の音が、どんどん近づいていた。
その音の主は、僕達のいる3年E組の教室の引き戸をがらりと勢いよく開けた。
引き戸の先に、今まで下級生に混じってサッカー部の練習に参加していたユータが、息を弾ませて立っていた。短パンの尻の部分が、泥に汚れている。
「ユータ、どうした、血相変えて」
ジュンイチがユータのただならぬ様子に気付いて、椅子から立ち上がる。
しかしユータははじめから僕の顔以外見ておらず、一直線に僕の許に足を進める。
「ケースケ、お前、選ばれたんだよ」
「……」
「俺達の世代代表の、最終選考合宿のメンバーに! 俺とジュンと一緒に!」
その言葉と同時に、いつもはシニカルなユータが、珍しく感情を爆発させた。
「マジで?」
ジュンイチも驚いたように、目を丸くして、僕を見た。
「お前が辞退を表明してからも、何度もメンバー発表はあったけど、今までは一度も名前がなかった。だから、今回載ったのは、きっとお前が代表入りを承諾したからなのかと思って――飛んで来ちまった」
「……」
「お前――出る気になったのか?」
この時の僕は、必死に笑いをこらえていた。
だけど……
「――ふ、ふふ、ふふふふ……」
僕が笑い出す前に、シオリが笑い出してしまっていた。
「シオリ?」
前にいるマイが首を傾げる。
「――ごめんなさい……何か、こらえきれなくなっちゃって」
「……」
実は、僕はシオリにオランダに行くと告げたその日のうちに、JFA(日本サッカー協会)に、今後の代表受託を伝えており、今回の選出が3日前に決定していたのだ。
だけど、メンバー発表を見て、二人を驚かせたいからと言って、ユータたちには言わなかった。シオリには、メンバーに入ったことは伝えたのだが、二人には黙っておくように口止めしておいたのだ。
「シオリさん――知ってたのか?」
ユータがふてくされたように訊く。
「う、うん――でも、二人の驚いた顔が何か想像以上で……」
シオリはまだ笑っている。
「――ま、そういうことだ」
僕は切り出すタイミングを、シオリのために完全に失ったが、強引に場をまとめた。
「何が出来るかわからんが、僕もお前達と一緒に行ってやる」
それから僕はジュンイチの方を見る。
「これからしばらく、お前とは寝食を共にする身だ。サッカーのついでに勉強も見てやれる――どうだ、一石二鳥だろ」
「マジかよ。代表のハードな練習の後に勉強までやらせる気かよ……」
ジュンイチは悪夢を嘆くように天を仰いだ。
「うおおおおおおおおお!」
しかしそんなジュンイチを横目に、ユータは放課後の静かな後者中に響き渡るような、歓喜の雄叫びを上げた。
「そうか、そうか! 嬉しいぜ! お前がいれば、負け戦だと思ってた大会も、なかなか面白くなりそうだぜ!」
――その日の夜、インターネットの大手掲示板サイトでは、僕の話題でもちきりになった。スポーツニュースは全てこの選考を報道し、沢山の著名人のコメントが放送された。某プロバイダの検索キーワードランキングでは、僕は2ヶ月ぶりに1位に返り咲いた。
僕もメンバーを見たが、17歳の僕はメンバーで最年少。ほかに選ばれたメンバーは僕とジュンイチを除けば、全員がJ1J2問わず、何らかの形でのプロだった。
「予選にも出てないくせに、本戦だけ出る気かよ」
「結局あっという間に建前をひっくり返したな。自分を売り込む大舞台じゃなきゃ出ないつもりだったのさ」
「何でもいいじゃん。あの世代、どうせ勝ちあがれないんだし、サクライが入って何かが変わるなら大歓迎」
「連盟もヤキが回ったな。勝ちあがれないからって、ヤケクソ選考かよ」
そのほとんどが、今まで何もしてこなかった僕に対しての、否定的な意見ばかりだったけれど――
「――はい。はい、わかりました。明後日に大阪に現地集合ですね。わかりました。それでは」
僕は電話を切った。
その日の夜のうちに、僕はJFAからの、今後の日程や、代表における簡単なガイダンスを電話で受けた。
二日後に僕は、ユータ達と大阪へ飛び、そこで2週間の合宿に入る。今回選ばれた選手は24人、うち18名が本大会メンバーに登録される。合宿の間、紅白戦の他に、ナショナルチームを招いたエキシビジョンマッチを2試合行い、それで選考をするということらしい。
本大会は、32チームをA~Hの8グループ、各4チームに分かれて勝ち点を競う、ワールドカップと同じ形式だ。各グループの上位2チームが決勝トーナメントに進むことができる。日本はグループEで、フランス、チェコ、メキシコという強豪だらけの死のグループに組み込まれていた。今大会、日本が敗戦濃厚といわれている理由は、この3国と同一グループに入ってしまったという側面が大きい。
だが、現状のところ僕は一番下っ端、本大会の心配などは微塵もしていなかった。
僕が一番気になったのは、日当や勝利給、ボーナスの説明だった。今回は本大会だから、勝ち残ればそれ相応のボーナスが出るらしい。日当も一日1万円以上出る。プロの選手からしたら、雀の涙程の給与だが、僕には十分過ぎる程である。
リアルな話をすれば、最終的に18人に残ることができたら、僕はその金で残りの高校生活を悠々自適に過ごせるし、その金で予備校の夏期講習、冬期講習に行ってもお釣りがくる。もしグループリーグを突破した日には、ボーナスで国立大学4年分の学費も賄えてしまうし、当面の一人暮らしの資金もできてしまう。
金目当てで代表になるわけではないけれど、その点には魅力を感じざるを得なかった。
「――さて、荷造りでもするかな」
僕は自分の部屋のベッドから立ち上がり、自宅の電話の子機をリビングに返しに行く。JFAからの電話は自宅の電話にかかってきたのだ。
部屋を出て、リビングの扉を開ける。
そこには、既に夕食を取り終わった親父、母親、祖母、妹が雁首揃えて、テレビもつけずにそこで待っていた。リビングに入ってきた僕の顔をうかがう。
僕は歯牙にもかけずに、子機をリビングの定位置に戻して、また部屋に戻ろうとする。
「待ちなさいよ」
しかし、踵を返した瞬間、僕は母親に呼び止められる。
僕は足を止める。
「あんた――日本代表に選ばれたんですってね」
「それが何か?」
シオリに救われた夜以来、僕は家族とはこの通りだ。もはや相手にもしていない。自然と態度もつっけんどんになるが、まあ、もうその程度の関係ということ。
「あんた、親に許可もなしに、勝手に決めてるんじゃないわよ」
「あなた方の許可を得る理由がない」
僕は言った。
「ガキ、思い上がるなよ」
親父が酒に酔った目をぎらつかせた。
「お前がオランダなんかに行って、目も当てられねぇ惨敗したら、こっちまで大恥かくんだ。独りよがりで親に手間取らせんな。でけぇ口叩くんじゃねぇよ」
「……」
この時の僕は、何を思っていたのだろう。
代表の給与を聞いて、気持ちが大きくなっていたのか。それとも、こいつらとのやり取りに、永久にカタをつけてやろうと思ったのか。大舞台で戦う以上、退路を断つつもりで、自分を追い込んだのか。
わからない。だが、この言葉が、結局は全ての引き金であったのかもしれない。
「そうですか。じゃあ、僕の親であることをやめればいいんじゃないですか?」
「な?」
「いや、違うな――僕の親であることを、やめてくれませんか? だな。僕からも頼むよ」