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Morning-glory

「――それは、二人と一緒に、オランダに行くって、事だよね」

 シオリはしばし沈黙した後、僕にゆっくりと確認した。

「――ああ」

「――そっか」

「……」

 ふう、とシオリが息を吐く。

「そっか、やっとその決心がついたんだね」

 シオリが僕の前で、にこっと笑った。

「――あまり驚いていないんだな。突然言ったのに」

 僕は少し逡巡する。

「だって、私初めからわかっていたから。あなたはこうしてひとつの場所に、ずっと留まれる人じゃない。いつかは外に向かって走っていく人だって」

「――どうして、そう思うんだ?」

 僕は彼女の真意が知りたくて、疑問をぶつけてみる。

「あなたと一緒にいる以上、そのくらいの覚悟はしているわ」

 そう言って、彼女は僕に、いたずらっぽく微笑んで見せる。

「――だって、あなたは臥龍――龍の化身なんでしょ?」

 シオリは首を少し傾げて見せる。

「世間じゃ単なるあなたの通り名だけれど――私はそれは、あなたの本来の性質だと思っているわ。龍って、普段は水の底でじっと息を潜めて、時が来るまでは、さざ波ひとつ立てないんでしょう? でも、風が起こればたちまち空に向かってどこまでも昇っていくんだよね。だから――あなたもきっと、時が来れば、いつかはこの静かな生活を捨ててでも立ち上がるって、何となく思っていたの。私自身、今のあなたには、何となく、その時勢の風が吹いていると思うし――」

「……」

 シオリは僕に、にこっと微笑みかけた。

「それに、今まであなたは色んなものに邪魔されて、天に昇ろうとしても、昇れなかったんだもの。だからきっと、あなたも今の風に、建前はどうであれ、心は躍っているんじゃないかって」

「……」

 彼女はこんなにも、僕のことを想ってくれる。彼女の言葉一つ一つに、半年間、ずっと僕を見ていてくれたこと――僕自身さえも気付いていなかった、僕の心の奥底の動きまで、しっかりと見てくれていたのだとわかった。

「――君の言う、時勢の風というやつとはちょっと違うかもしれないが」

 僕はしゃがんだまま、早朝の澄んだ空を見上げる。

「僕は、今まで自分が誰かを幸せに出来る自信がなかった。むしろ不幸にしか出来ないと思っていた。だから、自分から行動を起こさなければ、誰かを幸せには出来ないかもしれないけれど、不幸にもしない――そんな考え方を無意識にしていたんだと思う」

「……」

「だけど、このままじゃユータとジュンイチは、大舞台で惨敗して、帰ってきてから沢山の人間に、国の恥を晒したとか、陰口を叩かれるんだ。ユータは今後のサッカー人生に、大きな傷を残すだろう――今の自分がどうであれ、やっぱり見過ごしてはおけないんだ」

「……」

 シオリは無言のまま、小さく頷いた。

「今の僕に何が出来るかわからないが、あいつらがそれを承知で死地に挑むというのなら、僕も一緒に死んでやろうと思う……一筋縄ではいかない大舞台だけれど、せめて一緒に汚名をかぶってやるくらいのことはしてやれる」

 そう言って一度朝顔の前から立ち上がり、シオリと正対した。

「でも、もし僕がその大舞台で、あいつらの力になることができたら――僕はあいつらのことを、本当の友と呼べそうな気がするんだ。今まで友達らしいことを、何もしてこなかったから、そんなことを言うのはおこがましいような気がして、言えなかったんだが……そんな友達がいのない自分を清算して、あいつらと本当の友達になれた自分を少し、好きになれそうな気がするんだ」

「……」

「もし、そうなることができたら、僕は僕の存在を認められる気がする。君とも、今よりももっと上手く向き合うことが出来ると思うんだ。今はまだ、君の心にも触れることにためらうけれど――そんな過去の自分をゴミ箱に捨てて、新しい自分になれそうな気がするんだ」

 なんて抽象的な考えだろう。もし僕があいつらの力になれたとして、そうなった時、自分のことを本当に好きになれるのか、根拠にも乏しい。

 こんな曖昧な理由で表舞台に出ることが、今までの僕には何となく気が引けていたけれど――

 今は違う。

 僕は、ユータやジュンイチのことを、友と呼びたいから。

 そして、彼女のことを……

「――うん」

 シオリは僕に、にっこり微笑んだ。

「きっと、二人も喜ぶよ。周りが何と言っても、きっといつかはわかってくれるよ」

「……」

 目の前で、僕の言葉に賛同してくれる彼女の微笑が、本心からなのか、気丈に振舞う演技なのか、僕にはまだわからなかった。

「あの――すんなり賛同を得られたのは、本当にありがたいんだが」

 僕は出鼻をくじかれた形なので、首を傾げながら訊く。

「その――寂しく、ないか? また君を置いて、好き勝手槍に外へ行く僕を、少しは責めてくれていいんだが」

 僕は訊いた。こんな質問をするのは、少し恥ずかしかった。

「もし君が望むなら――僕はどうすればいい?」

「……」

 シオリは何か考えをめぐらせるように、早朝の青空を仰いだ。

 そしてそれから、僕の隣に歩み寄って、僕の目の前にある朝顔の花に、手を伸ばした。

「あなたは――この朝顔に、ちょっと似てるよね」

 唐突にシオリが言った。

「え?」

「ほら、朝顔って、花だけを摘んでしまうと、花のよさが出ないじゃない。こうして弦を巻いて、この姿で咲いているのが綺麗なんだよ。だから、朝顔はどんなに綺麗に咲いても、花瓶に入れて、その美しさを、誰かが独り占めすることは出来ないの」

「……」

「あなたの名前の桜もそうだけど――朝顔は、誰のためでもない。人に尽くさず、自分が咲きたいから咲く花なのよ」

「……」

 確かに。朝顔は花瓶や鉢植えに生けてしまうのでは、よさが出ない。のびのびと弦を伸ばせる場所に咲いてこそ、美しさを放つ。

 誰かが独り占めできない。誰のためでもなく咲く花、か……

「私は――今まで誰かに邪魔されて、日陰に追いやられていたあなたは、今はそんな風に咲いてほしい。狭い花瓶に入らないで、誰のためでもなく、自分のために輝いた瞬間を生きてほしい。きっとそうして輝くことで、誰かのことを照らすことも、出来ると思うから――だから私のことは気にしないで、頑張ってきて」

「……」

「――なんて、ちょっとクサかったかな。えへへ……」

「……」

 照れ笑いを浮かべる彼女を見て、僕は彼女の言葉をもう一度噛み締める。

 誰のためでもなく輝くことで、誰かを照らすこともできる、か……

 きっと、本人は気付いていないだろうけれど……

 彼女が言う光とは、きっと目の前にいる彼女がいつも放つ光、そのものなのだろう。

 君は、舗道の日陰で、皆に踏まれ続け、木枯らしに吹き付けられていた、雑草のように生きていた僕の光――太陽になってくれた。

 君の光は、誰に向けられたものでもない。意識して作り上げたものでもない。罪人も聖者も動物も路傍の花にも、全てに分け隔てなく降り注ぐ、優しい光だった。

 君の優しさが、沢山の人を引き寄せる。

 僕も間違いなくその一人だった。

「朝顔のように、か……」

 僕はもう一度、目の前の朝顔に目をやった。

 昔は花を見てもなんとも思わなかったが、今は、花を見ると、心が和む。

 これも、誰のためでもなく、懸命に咲く花が見せる、命の輝きのためだろうか。

 僕も、光を放てるかな――

 その光で、大切な人の心を、照らすことができるだろうか――

「君のたとえは面白いよ」

 僕は笑ってしまう。

「そして、君は大人だね。そういう考え方ができるなんて、僕なんかより、ずっと人間ができてる」

「……」

 僕のその言葉に、シオリはしばらく沈黙した。

「全然、そんなことないんだよ」

 そしてシオリは、力ないため息を吐く。

「私、本当はすごくわがままだよ。独占欲も強いし――最近自分のそういう部分が見えるようになって、何かすごく嫌……些細なことで不安にもなるし、面倒な女だよ」

「……」

「あなたに、今は自分のために生きてほしい、って、頭ではそう思っているつもりなんだけれどね――でも、本心からそう思えているか、正直わからない……私、あなたにどうしてほしいのか、そういうのを求めすぎなのかな。自分では気持ちがごちゃごちゃして、何も形にできないくせに……」

「……」

 初めてシオリが、自分の中のエゴを僕に見せてくれた気がする。

 当然だ。まだ彼女だって小さな女の子で。才媛とはいえ、僕と同じくまだ子供だ。

 それを、僕に心配をかけさせまいと、無理をさせてしまった。それは、僕が彼女の心配も消し去れる程、彼女を光で包み込むことができなかったからなのだろう。

「ケースケくん」

 シオリが僕の名を呼んだ。

「私、この半年、あなたと一緒にいられた時間は、とても楽しかった。幸せだった……このささやかな幸せが、いつまでも続いてほしいと思っていた。でも――あなたがこれから行く場所で活躍したら、きっとあなたの周りは今よりももっと騒がしくなるね……」

「……」

「そうなっても、こうして二人で穏やかに過ごせる時間は、続くのかな……」

「当たり前だろ」

 僕は少し強い語勢で、彼女の不安を否定した。

「僕もそれを望んでいるし……それに、帰ってきて、過去と決別できたら、君としたいこと、伝えたいことが沢山あるんだから」

「……」

 僕は黙り込むシオリの両肩を、手で軽く掴んで、シオリと正対した。

「僕――行くからには、もっと男を上げて帰ってくる。その時には、きっと僕達は、今よりもっと深くつながりあえると思うから、それを楽しみに、待っていてくれないか? 僕、頑張るから。君がこの先、僕のことで不安にならないように、ちゃんとした男になれるように、頑張ってくるから」

 僕はなんとも青臭い言葉を吐き続ける。

 昔の僕は、こんな曖昧なことを言うのが大嫌いだった。きっとこんなことを言えといわれたら、虫唾が走ってしまうような男だった。

 だが、今なら少しは言える。僕のことで不安になる彼女に、少しでも僕を信じてもらいたいから。

 するとシオリは、自分の肩に乗せられた僕の手に、自分の手を当てて、えへへ、と、照れくさそうに微笑んだ。

「そんな――一人で頑張らないで。私にも、頑張らせてよ」

「……」

 僕はシオリの肩から、手をはずす。

「片方だけが頑張って関係を維持するのは、きっと本当のつながりじゃないんだよね。私も頑張らなきゃいけないのよ。不安なんかに負けてちゃいけないんだわ」

「……」

 彼女は、いつだって僕との未来を考えてくれている。その道を、二人で歩こうとしてくれる。

 今までは、どちらかがもう片方の歩幅に合わせようと無理をする、そんな二人三脚のような歩みだったけれど。

 きっと僕達も、何も言わなくても、自然と歩調が合うような、そんな二人になれるだろうか。

 いや、きっとなれるだろう。今の気持ちを忘れない、二人であれば。

「ごめんね、こんなわがままな女で」

「いや……いいよ。君の気持ちが聞けて、嬉しかった」

「えへへ……」

 シオリは自分の心情を吐露したことが、今更恥ずかしくなったのか、力なく笑った。

「ケースケくん。私、待ってるから。だから、ひとつだけ、約束して」

 シオリは僕の前で、人差し指を立てた。

「お願い、どうか怪我だけは気をつけて。怪我をしないで、私のところへ帰ってきてね」

「……」

 そう、それだよ。

 君はいつだって、自分のことよりも、誰かのことを気遣える優しさを持っている。

 自分が寂しくても、それでも他人の幸せを先に願う、そんな真っ直ぐな人。

 僕も君のようであれたらと、何度も思った。

「ああ、約束するよ」

 僕は君のようになりたい。

 君のような光で、僕もユータ達を照らせるように。

 この半年、君から学んだこの心のぬくもりで、あいつらのことを照らせるように。

 僕はこの日、心を決めた。



 だが、この決断は、これから僕に、めくるめく栄光と、今後の人生を大きく狂わせる程の、激しい憎悪を与える引き金となる。

 あの忘れえぬ、僕の高校最後の夏が、始まろうとしていた――


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