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僕達3人は、朝の公園に来ていた。
近くの公園は、芝が張られていて、花壇もある。広くて見晴らしもいい。リュートも狭い檻に入れられていた分、こういう場所で思いきり走らせてやりたいと思って、僕達は朝、よくここに来る。
「よし、リュート、ついてこい」
そう言って、僕は思い切り芝を蹴り、走り出す。リュートも全速力で僕を追う。シェットランドシープドッグのリュートは野生の本能か、僕をぴったりとマークしてくる。
僕も全速力で逃げるが、両手両足に重りがついているから、スピードもダウンするし、疲れも速い。2分の全力疾走で、足が止まると、リュートも僕の横で足を止めた。リュートもはあはあと息を切らしている。
「お疲れ様」
シオリはもう全てを理解していて、僕の持参していた犬用の皿に、近くの水道で水を汲み、リュートの前に差し出した。リュートはそれを美味しそうに飲み始める。
「ケースケくんも、はい」
そう言って、シオリは家から持ってきてくれた、麦茶のペットボトルを僕に差し出した。
僕は一言礼を言って受け取り、口に流し込む。
「歩く散歩だけだと、リュートくんも体力落ちちゃうもんね」
「ああ、本当は檻なんかに入れないで、もっとのびのび飼ってやりたいんだけど、家族がいる手前、そうもいかなくてな」
鍵つきの檻に入れておかないと、僕がいない間に家族がリュートを保健所に連れて行きかねない。僕以外の家族にはまるで懐かないリュートは、僕同様家の嫌われ者だから、僕がいないと世話さえしてもらえない。
「ねえ、ケースケくん、少し休んだら、花壇を見ていかない? もうすぐ春も終わりだから、咲いているうちに、ちょっと回りたいの」
シオリの提案を、僕はすぐに受け入れた。
――レンガで仕切られた花壇には、春が終わりかけ、名残の花が最後の輝きを見せていた。
「パンジーもガーベラも、もうすぐ散っちゃうね」
シオリはガーベラの花壇の前にしゃがんで、オレンジ色のガーベラの花弁を触った。
僕はこの半年、シオリから花のことを色々と教わった。花を愛でる余裕もなかった生活をしていた僕にとって、シオリが楽しそうに花の話をするのを聞いているのは、何とも心の暖まる時間だった。
リュートがそんなシオリに寄り添うように、ガーベラに花を近付けると、犬の鼻に花に香りはきついのか、ざっと後ずさった。僕はその姿を傍で見て、笑ってしまった。
「本当に君は、花が好きなんだな」
「うん、花を見ると、何だか幸せな気持ちになるでしょう。だから色んな花が咲く春は好きなんだ。秋の花が一番好きなんだけどね」
シオリは本当に幸せそうに微笑む。今時花をあげても喜ばない女の人も増えているのに。基本的に古風な女性なんだろう。
「まあ、これから散る花があっても、咲く花もあるだろう。例えば……」
僕は横に目を向ける。視線の先には紫陽花がまだ緑色ながら、小さな花びらを付け始めていた。
「紫陽花かぁ……紫陽花って、土壌が酸性だと、青い花になるんだよね。私、紫陽花を見ると、酸性雨とかでこの先、赤い花の紫陽花が絶滅するんじゃないかって、不安になるわ」
「確かに。やっぱり色が一色に決まって欲しくないよな」
「うん――あ」
ふと、シオリが何かを見つけたようだ。
僕はシオリの視線の先を見る。
そこには、支柱に支えられて弦を巻く朝顔が、水色や紫色の花弁をつけて、あでやかに咲いていた。
「朝顔か。もうこの時期に咲いているんだな」
僕もシオリも、走りの朝顔の前に歩み寄り、近くでその花を見つめる。
「――有名な俳句があるよね、朝顔って」
「朝顔に、つるべ取られてもらい水――」
「そう、それ」
シオリは僕の横で頷いた。
「でも、わかる気がしない? こうやって綺麗に咲いていると、取ってしまうのが、もったいなくて、とても人が手を出していいものには思えなくなってくる……」
「……」
その俳句を口ずさんだ僕は、その小さな花弁を目にして、ふっと思考の紐がひとつ解けた。
井戸に絡まってしまった朝顔を、取ってしまうのが可哀想だから、隣の井戸に水を貰いにいく――
それは、多分僕がシオリに抱いていた感情と同じだ。
「シオリさん」
僕は朝顔に目をやりながら、シオリの名を呼ぶ。
「君は昨日、酔っている時、僕に触れるのが怖いって言っていた」
「え?」
「それが君の本心なのかはわからないけれど――僕も、君に触れるのが怖かった。君を拒むような態度に見えたこともあったかもしれない。それで君を何度も不安にさせてしまったと思う」
「……」
僕は目の前の朝顔の花弁に手を伸ばす。
「僕は――今までずっと、君のことを欲しいと思っても、何も出来なかった。この朝顔みたいに、君の事を僕のこの手で摘んでしまうのが可哀想だと思って、何も出来なかったんだと思う」
「……」
「君は正直で、素直で、とてもいい娘だ。それこそ花のような女の子だ。それに比べて僕は、この通りとんでもなくひねくれた男だ。僕が君に深く踏み込むことで、ひねくれた僕の影響を、君に与えたくなかった。君を僕みたいなひねくれた奴にしてしまうようで、怖くて触れることが出来なかった。今の君が僕のせいで変わってしまうことが怖かったんだ」
「――そっか」
シオリが頷いた。
「すまない。いくら大口叩いても、今の僕はこの有様だ。臆病者で、君ひとり幸せに出来やしない……」
僕は拳を握り締めた。
「もう、いいよ」
シオリが僕のウインドブレーカーの袖をきゅっと掴んだ。
「お互い様だもの。あなた一人のせいじゃない」
「……」
「それに、私、わかってたから。あなたが過去に受けた傷が相当深いことも、今もそれに苦しんでいたことも。あなたが自分を信じられない気持ちも、無理もないと思う。こうして話してくれただけでも、私は十分だよ。だから――自分をあまり追い込まないで。ね?」
「……」
君がそれで十分と言っても、僕はそれじゃ満足できない。
僕はもっと君とつながりあいたい。僕の手で、君を誰よりも幸せな気持ちにしてあげたい。
こんな僕を肯定してくれた君に、何とかして報いたいんだ。
それには、このままじゃ駄目なんだ。
このままじゃ……
沈黙。
「――シオリさん」
再び僕が、シオリの名を呼ぶ。
「僕――ユータ達とサッカーしに行ってきて、いいかな?」
唐突に僕はシオリに気持ちを吐露した。
「変えてみたいんだ。こんな弱気で臆病な自分を」