Timid
シオリと別れ、家に帰ると、玄関の檻の中にいるリュートが僕を出迎えた。どうやらお腹が空いているらしい。僕はすぐに傍らのドッグフードを手に取り、台所で犬用ボトルの水を取り替えた。リュートはがつがつとドッグフードを食べ始める。
それから僕はシャワーを浴びて、ハーフパンツ一枚、上半身裸の肩にバスタオルをかけたまま、部屋のベッドに倒れこんだ。
しかし疲れた。部活で元々疲労していたところに、シオリを一時間近くおんぶして街を歩いていたからな。
「……」
今日は何だか色々なことがあった。まるで自分の過去を振り返る小旅行のようだった。
小学校の旧友と会った時は、自分が今、少しは自分の過去と向き合い、それを消化している気になっていた。
自分は半年前よりは、少しはましな人間になれたような気がしていたけれど……
――ヴィーンという音がして、僕のジャケットのポケットに入っている携帯電話が震えだした。僕は横になったまま、携帯電話のフリップを開け、耳に当てた。
「もしもし」
「もしもし? マイだけど」
電話の主はマイだった。
あれから既に相当酔っていたジュンイチとユータは、シオリが寝てしまってからも、酒のペースを緩めず、とても外を歩かせられない程に泥酔してしまった。なのでジュンイチをユータの家に預けたまま、僕はシオリを背負いながら、所沢駅までマイを送っていったのだった。
「あれから大丈夫だった? シオリ、ちゃんと目を覚ました?」
「ああ、何とかね。酔いも少しは醒めてたみたいだし、大丈夫だと思う」
「そっかぁ。私も今家に着いて、落ち着いたところ。でもよかった。シオリ、すごい酔い方だったもんね」
受話器越しに、マイの笑い声が聞こえる。
「今日はありがとう。サクライくんの料理、とっても美味しかったわ。駅まで送ってもらっちゃったし……」
「いや、こっちこそ」
「それに比べて、ジュンくんってお酒飲むとぐでんぐでんなのね。これからは気をつけないと」
「そう言うなよ。あいつだって今の自分の立場をわきまえてて、内輪以外では飲めなくなっちゃったんだ。たまには思う存分やらせてあげないと」
僕はジュンイチのフォローをする。ジュンイチも曲がりなりにも世代別サッカー日本代表だ。目立つ存在である以上、今までよりも多少は行動に規制があるのだ。
「あーあ、私もサクライくんみたいな、しっかりした、優しい彼氏にしておけばよかったかなぁ」
突然マイがそう言った。
「は?」
「ふふ、あなたが私と夜な夜なこうして電話してるって知ったら、シオリは怒っちゃうかな? ヤキモチ焼いちゃうかな?」
「……」
何だこれは――誘惑のつもりか?
「ちょっと――黙らないでよ。冗談なんだから」
「――なんだ。ちょっとどきどきしたのに」
「嘘ばっかり」
「え?」
「あなただって、シオリにぞっこんなんでしょ?」
「……」
「それに、学校でみんな言ってるわ。あなたは浮気とか、絶対できないって。出来るほど人に対して器用じゃないし、嘘が下手だし、浮気できる融通も利かないほど頑固だし」
「……」
僕は一体、女子から何を言われているんだろう。
「シオリもね、それはわかってると思うの。あなたに大切に想われていることも、多分わかってる。でもね、それだけじゃ不安になっちゃうんだよ、女の子って」
「……」
「これはあなたには言わなかったけれど、女の子の間だと、あなたとシオリにほとんど進展がないの、みんな知ってるのよ。あなた達、目立つし、あなたは最近まで、ほとんど人と喋らなかったから、みんなあなたがどういう人か知りたいのね。シオリはいつもそういう娘達に色々言われているわけ。自分が恋愛下手だから、そういう周りからの声に右往左往しちゃうのよね」
「……」
そうか――酔っている時に、そんなことをいっていたから、どういうことか少し気になっていたけれど。
「前から思ってたんだけどさ。サクライくん、どうしてシオリに、何もしないの?」
「……」
女の子にこんなことを聞かれると、妙にいやらしい気がするのは何故だろう。
「――すまない。今まであまり深く考えてなかったから。今夜一晩、色々考えてみようと思うよ」
「そっか。まあ何かあったらいつでも電話してよ。私、あなた達に勉強も一杯教わってるし、色々よくしてもらってるし、何よりあなたは、私の恋のキューピットだから。今度はお姉さんが、あなた達の恋を応援してあげるわよ」
「――何だよ、お姉さん、って」
「ふふ、だって、あなたって思ったより子供っぽいんだもん。何か、手のかかる弟って感じで。シオリもあんな頭いいのに、ちっちゃくて、妹みたいだし」
「――頼りにしてるよ、おねえちゃん」
「な! ちょっと、いきなりあなたがおねえちゃんとか言わないでよ! なんか、あなたが言うと、妙にいやらしいわ」
「――自分から言ったんじゃないか」
そんなやり取りをして、電話を切る。
今まで深く考えずにいた。どうしてシオリに何もしないのか。
別にそういう関係がなくても、お互い不満が表面化しなかったし、それでいいのかと思っていたけれど……
「……」
――やっぱり、僕が自分を肯定できていないからだろうか。
ユータの両親に言われた。今の君に必要なことは、自分を肯定すること、自分に自信を持つことだと。
その言葉が、ずっと僕の心に残留していた。
僕だって、頭ではわかっている。彼女の全てを欲しても――彼女の中にもう一歩深く踏み込んでも、彼女はそれを拒まないだろう。
でも、そこに踏み込んでしまうのが、とても怖い――考えると、とても臆病になる。
今まで会う人会う人に、人格を否定され続けてきた僕が、誰かのぬくもりを欲しがることが許されるのか――そんな気持ちがふと沸き上がって、手をつなぐことさえ、ぎこちなくなる。シオリに嫌われないかと思うと、もう一歩奥へと足が踏み出せなくなる。
考えてみると、今の僕は、本当に臆病な人間だ。彼女だけじゃない、ユータやジュンイチに対してもそうだ。僕のこの臆病さが、僕の本当の気持ちを隠し続けている。
そんな僕は、自分をどう思っているだろう――
――考えてみると、僕は、僕自身を『信頼』はしているが、『信用』はこれっぽっちもしていない気がする。
自分の力はそれなりに自信があるし、自覚もある。だが、それだけだ。自分の力は信じていても、それを使う自分という人間のことは、信用していない。
シオリに救われる前の僕も、自分のことを否定し続けていた。散々に否定され続け、自分があの家族と同じく、どんどん薄汚い生き物になっていくように思えていた。
今考えると、この半年間の僕の行動は、ユータの母が言うように、何かへの償いだったのかも知れない。半年前の僕も、醜く捻じ曲がり、他人を際限なく傷つけてしまう僕を、わけもわからず、誰に対してもわからず、何かを償いたくて、罪悪感に潰されそうだった。
僕は結局、あの頃から何も変わっていない。雌伏をしているのも、自分に自信がないから。お金がなくても、利益行為を自分に禁じたのは、そんな自分の、世間へのせめてもの償いのつもり。
――そうか。人としての筋を通してきたと思ってきたが、結局僕は、あの頃とまったく変わっていなかったのか……
朝、目を覚ますと、まだ早朝の5時半。6月になり、もうこの時間でもほんのりと外は白んでいる。最近ではこの時間になると、勝手に目が覚める。
顔を洗い、中学時代から愛用している野球用のアンダーウェアにウインドブレーカーを羽織り、手足に各10キロの重りをつける。
玄関に下りると、リュートはもう目を覚ましていて、僕の足音を確認すると、早く檻から出してくれ、と僕に催促する。
「おはようリュート、今日も行こうか」
僕は檻から出したリュートを、リードをつけずに外に出す。
僕は毎日この時間にリュートと散歩している。ここから歩いてほど近いシオリの家の前を通りかかると、シオリがいつも待っていて、3人で朝の散歩をする。一目を避ける生活をしている僕にとっては、しおりと二人きりで町を歩ける数少ない時間だ。
シオリの家の前に着くと、ジャージ姿のシオリがいた。セミロングの髪を、後ろでひとつにまとめている。
「おはよう」
シオリは僕の姿を確認して、手を振る。
「よく起きられたな。まだ酒が残っているなら、まだ休んだ方がいいぞ」
「ううん、平気……」
シオリは小さくかぶりを振る。
そしてそのまま、いつもの散歩コースを歩き出した。
「……」
僕は歩きながら、改めて隣にいるシオリの横顔を窺う。
「ん? どうしたの?」
シオリは顔を上げる。
「あ、いや」
僕はまたぎこちなく、目を逸らしてしまう。
やっぱり、シオリは可愛い。この娘の微笑みを、ずっと僕に向けさせたい。こうして幸せそうに微笑む彼女と、いつまでも添い遂げたい。
そんな風に思う女の子に、僕はどうして何もしないでいられたのだろう――
昨日、彼女に抱きしめられた時、狂おしい程に彼女と離れがたくなった。その気持ちが残る今思うと、僕は彼女をずっと前から強く欲していたはずなのに。
「ケースケくんこそ、何だか少し眠たそうね」
シオリは言った。
「あぁ……ちょっと考え事をしてて、なかなか寝付けなかったんだ」
昨日、僕はあるひとつの決断をした。
それは、今僕が何を捨ててでもやらなくてはいけないことであるのはわかっていた。
だけど……
目の前の彼女の微笑みが、僕のその決心をぐらつかせた。
それは、今も僕の気持ちがわからず不安がる彼女を、また置いていくということだったから。
「ねえ、ケースケくん……」
僕の思考を、シオリの寂しげに僕を呼ぶ声が止めた。
「昨日、私が何を言ったか、今はもうほとんど覚えていないんだけど……気にしないでいいから。忘れてしまって、いいから」
「……」
その言葉が、何だかとても寂しそうで、とてもよそよそしく聞こえたことが、何か物悲しかった。
自分の今までの態度が、彼女に大きく負担を掛けてしまったと実感できる一言だった。