Concentration
しかし、ユータの号令が出る数秒前から、筋肉質の男は僕に突っ込んでいた。一気に5メートル程あった間合いを詰められ、右の正拳突きが顔に向かって飛んできた。
僕はそれを、しゃがんでかわす。その僕の顔に、突進の勢いも利用しての膝蹴りが飛んでくる。
僕は曲げた膝のクッションを使って後ろに飛ぶ。
男は更に突進して、一気にまた間合いを詰めてくる。僕の顔に向かってまた右の拳が飛んでくるが、それを今度はスウェイバックでかわす。男は、その右拳の反動を生かしたまま、体を回転させ、左の裏拳を僕の頬に向かって入れようとした。
スウェイバックで腰が引けていた僕は、そのまま体を後ろに倒しながら後ろへ飛び、バック転で体勢を立て直して着地した。
筋肉質の男も裏拳で体制が崩れていたため、連続攻撃が途切れ、僕と男はまた5メートルの距離をとって仕切り直す。
苦虫を噛み潰したような顔の男。どうやらこの序盤で勝負を決めるつもりだったらしい。
「不意打ちのつもりだったか?」
僕は男に声をかける。
「疾きこと風の如く――まあ、戦術としての基本は出来ているな」
「解説してんじゃねえ!」
筋肉質の男は、猛ってまた僕に突進してくる。
見た限り、この男にはいささかの武術の心得があるようだ。攻撃も素人のそれではないし、手刀や掌底など、あまり素人が使わない型の攻撃もしてくる。
それから1分、男は僕に向かって、拳打、蹴撃、多彩な攻撃を駆使してラッシュを仕掛けたが、僕はそれをすべてかわし続けていた。
「くそっ!」
男の苛立ちを募らせた拳は、また僕の横で空を切った。
そこで足が止まる。
「はあ、はあ」
「もう息が上がっているじゃないか」
僕は構えもせず、完全に無防備で突っ立ったまま、男の消耗した姿に目を向けていた。
「――くそっ、ちょろちょろ動き回りやがって……」
「当たり前だろう。動かずに黙って攻撃喰らうほど、マゾヒストじゃない」
僕の至極もっともな理屈に、ギャラリーが苦笑を浮かべた。
「――あと2分」
ユータが時計を見て、時間を読み上げる。
筋肉質の男が、ユータ達の方を一瞥する。
「忠告しておくが、今のケースケには、全国のサッカー強豪校の屈強なディフェンダーが3人、4人がかりでマークするんだ。そしてケースケはそんな厳しいマークの中、この半年で50試合近くをこなしているが、得点に絡まなかった試合がひとつもない。そんなケースケをたった一人でぶっ飛ばそうなんて、出来るのはアリスター・オーフレイムくらいのもんだぜ」
ジュンイチの解説。
「さすがここ半年、練習で嫌って程ケースケに抜き去られているだけあって、忠告に熱が入っているな」
ユータがジュンイチを可哀想な目で見る。
「人をやられキャラみたいに言わないでくれますかねぇ!」
ジュンイチのそのおとぼけが、殺伐とした僕と男のファイトに、上手い具合に和みを入れる。ギャラリー達もその掛け合いに笑みを漏らす。
「怒るな。これでも俺はお前の守備力を認めてるんだ。だからこそ、こいつらが簡単にケースケにワンパンでも入れちまったら、お前の沽券に関わるだろう? それは俺としても、お前を侮辱されたみたいで面白くないのさ」
「……」
ユータの言っていることは、僕の意も得ていた。ジュンイチが僕を止められないのなら、僕は尚更こいつら一人を相手にやられるわけにはいかない。それは、友のこの半年の努力を一笑に付された傷を与えることになるからだ。
「ま、そういうことだ。今のケースケは、生半可な奴じゃ一人どころか、3人、5人がかりでも満足に止められる相手じゃない。ケースケを倒したいならそろそろ決断するんだな。恥も外聞も捨てて、一人相手に全員で取り囲むことを」
ユータが酷薄な声を作って言った。
「今更お前が卑怯だとか、ここにいる人達は誰も思わないさ。既にお前、不意打ちとかしてるわけだし」
「ふざけんな! そんなみっともない真似できるか!」
ユータの挑発に怒り狂って、男はまた僕に突進してくる。
「……」
猛る目の前の男の、雑念ばかりの感情とは裏腹に、僕の脳は、静寂が、キーンと音を立てるほどに澄みきっていた。
サッカーの時は、一つのものに目を向ける余裕はほとんどない。それ故直感的な行動が多く、物事を理論的に考えることはほとんどないのだけれど、こうしてたった一人を相手にしていると、よくわかる。
相手の呼吸や筋肉、視線の動き、体勢がよく見える。その全ての情報から次の攻撃の可能性を割り出し、その全てに対応できるかわし方をすぐに見破り、対処できる。
サッカー雑誌などで最近取り立たされている、ドラゴンダイブ、ドラゴンスター、春風ドリブルに次ぐ第4の能力――天空から見下ろす空飛ぶ龍の目のごとき、視野の広さと先読み能力――『竜眼』。
それこそが、今の僕の奥義であると、実感できた。
おかげで目の前の男の攻撃は、決して遅くはないが、当たる気がしない。心技体、全てがこの男の攻撃の全てを見切ってくれる。攻撃をよけるたびに、集中力が増していき、どんどん思考がクリアになっていく。
男が僕の顔面目掛けてワンツーパンチを繰り返し出し続ける。もはや大技狙いをやめて、小技で手数を増やす手に切り替えたらしい。
だけど僕は体をちょっと動かすだけで、そのパンチを紙一重でかわしていく。僕はいまだに攻撃を受けるどころか、手を使ってのガードさえしていない。
「あと1分」
ユータの秒読みが、男の手を止めた。
「……」
対峙する男は、5月末の涼しい夜だというのに、額に汗をかき、息切れが更に激しくなっていた。
「おい! もう無理だ! 俺達も加勢する!」
さすがにその筋肉質の男を慮ってか、恥も外聞も捨て、後ろにいた長身の男、坊主頭の男も僕の前に出て、さっきまで攻撃を続けていた筋肉質の男を後列に下げた。
「賢い決断だが、決断するのが遅すぎたかもな」
ジュンイチが彼等の行動を批評した。
「……」
確かに一人なら、防御も必要なかったが、3人となるとそうもいかないだろう。
だけど今の僕は、それでも全く危機感を感じなかった。それどころか、追い込まれる度に力が滾ってくる感覚が、楽しいとさえ思えた。
半年前までの、鬱屈していた時の僕も、今とほとんど変わらない力があるはずだったけれど、こんな感覚を味わったことがなかった。
乱れきった心は、力押しに向いていない体格なのに、それに目を背け、力押しばかりに頼りきっていた。大丈夫、僕なら出来ると、自分の力や技を過信し、心技体が全てバラバラだった。そんな僕に集中力が宿るはずもなく、いつも散漫とした状態のままで、力を出し切ることもなく、日々を消化していた。
それを思うと、自分にこんなに集中力があったのか、こんなにも素直に力を引き出すことが出来るのか、と、今の自分の力に自分でも驚嘆し、また、自分でさえ知らなかった自分の現状の力を認識できることが、楽しくて仕方なかった。
だってそれは、これからは自分のために生きようと決意を新たにした僕に教えてくれるからだ。
クズだと思っていた僕はまだ、自分でもまだ気付けない力や魅力があるんじゃないか。そんな『希望』を、僕に見せてくれるからだ。
3人になった敵は、僕が細身なのを見て、まずは動きを止めることを考え始める。簡単に言えば、僕を羽交い絞めにするなり、服を掴むなりすること。柔道で言う、組み合いの状態に持ち込むこと。
それを感じると、僕の足は、筋肉質の男一人を相手にしていた時よりも更に活発に動き始める。自分でその足からの感覚を噛み締めると、まるでダンスを踊っているようだと思った。ダンスなんて、ろくに踊ったこともないくせに。
「そのケースケのステップは、今全国のサッカーの強豪が、止めるために目の色変えてる代物だ。今のお前達に止められるかな?」
ユータの声がした。
きっとその言葉はもう、目の前の憔悴に駆られた奴等の耳には届いていないだろう。3人まとめて僕に突っ込んでくる。
思ったとおり連中は、まずは僕を掴みにかかってくる。さっきまでの打撃をやめて、今度は僕を掴みに手を伸ばしてくる。
僕はその手を、自分の手で何度も払いながら、体勢を低くし、猫のように3人の足元をすり抜けていく。一瞬たりとも動きを止めない僕の動きは、3人がかりでもほとんど触れることも、僕の後ろを取ることさえ出来ない。掴みに来る手は、ほとんど空を切り、たまに目の前に来た手は、僕の手に全て払いのけられた。
「あと30秒だ」
ユータのカウントダウンが残酷に時を刻む。
「おい、お前ら! 一方的に喧嘩を売っておいて、話にならないぞ!」
「3人がかりで何も出来ないのか!」
「サクライくんも迷惑だよ! さっさと諦めなさいよ!」
さすがにこの頃になると、ギャラリーも奴等に罵声を浴びせ始める。
もはや顔を見るだけで、3人が往々に、頭の中で、くそっ、くそっ、と叫んでいるのが聞こえてくるようだった。それ故攻撃が直線的になり、視線も馬鹿正直で、攻撃が至極読みやすくなっている。
もはやなすすべもなく、3人がかりの連中は、でたらめな攻撃を繰り返すのみになっていた。既に足も止まっているし、もはや手を使う必要もなかった。脚だけで全ての攻撃をかわすことが出来た。
「あと10秒」
ユータのカウントダウンもいよいよ大詰めだ。
「9,8,7……」
連中の攻撃の際の叫びの中をすり抜けながら、僕はそのカウントダウンに耳を傾ける。
「3,2,1――ゼロだ」
そしてユータのカウントダウンが終わりを迎える。
「このっ!」
しかし、連中の僕への攻撃は止まない。頭に血が上りすぎて、声が聞こえないのか。
「おい、お前達、もう3分過ぎた、終わりだ」
ユータがもう一度大きな声で言うが、それでも止まらない。
「……」
ギャラリーのブーイングが大きくなっても、蛙の面に小便だ。
僕は奴等のパンチをよけ続けているが、その最中、新たな人の気配を感じた。
一瞬だけ横目で気配の方向をうかがうと、ユータとジュンイチがあきれ半分の顔で、ゆっくりと僕達の方に歩いてくるのだった。
「がああっ!」
3人が同時に吼え、同時に僕に向かって右ストレートを繰り出してくる。
しかし、両端にいた筋肉質の男と、坊主頭の男の右腕は、肘を伸ばしかけたままでぴたりと止まった。横から近づいていたユータ、ジュンイチががっちりと二人の手首を掴んでそのパンチを止めたからだった。
そして、真ん中の長身の男のパンチは、僕が体を僅かに反らしながら、腕が伸びきる瞬間、右手で手首を掴んで、拳の動きを止めていた。
「終わりだって言っているだろう」
平和主義者のユータが珍しく低い声でそう呟き、3人を切れ味鋭い目で睨んだ。