Insignificant
「……」
それを聞いて僕は、最高だ、と思った。アドレナリンの出ていない状態の僕は、相変わらずの仏頂面振りだったけれど、それでも笑いの衝動をこらえるのがこんなに大変だとは思えないくらいに、僕は腹の底から笑いの衝動が湧き上がってきた。
その言葉を聞いて、僕の行動も決まった。僕は筋肉質の男の腕をするりと抜け、目の前の長身の男が持っていた東大の赤本を、すれ違い様ひったくるように僕の手に戻す。そこまでの行為を2秒で片付けた。あまりの行動の迅速ぶりに、連中は僕の足止めさえ出来なかった。
そして僕はそのまま東大の赤本と、センター試験問題集を持って、書店のレジへと歩を進める。
レジの前に客はおらず、僕はすぐにカウンターに二冊の本を置いた。
「いらっしゃいま――」
レジ係は大学生だろうか、黒縁眼鏡の地味な印象の女性だったが、僕の顔を確認するなり、社交辞令の挨拶が凍った。
僕は人差し指を立てて、それを口元に当てるジェスチャーで、女性の狼狽を制した。
「し、失礼しました」
そう言って店員は感情を持ち直し、本のバーコードの読み取りに入った。とは言っても、さすがに世間は僕の進路に注目している。黒縁眼鏡の奥の店員の瞳にも、僕がどの大学の赤本を買ったか、それをしっかり確かめる視線の動きが確かにあった。
お金を払い、店のロゴのプリントされたビニール袋に入った本を渡され、店員は「ありがとうございました」と言った。
そこで踵を返し、店の出口へと向かう。
しかし、僕が出口に近づくと、さっきの連中が5人揃って、僕の目の前の出口を塞いだ。
「……」
僕は5人を一瞥する。
「あんまり私達に逆らわない方がいいよ?」
女の一人が言った。
「そうそう。あんたの今の地位、私達がマスコミに今まであんたのこと喋らないであげたからあるようなものなんだから。本性は女でも平気で殴る男なんて知れたら、あなたの今の人気もおしまいなんじゃないかなぁ?」
もう一人の女が軽やかな口調で僕に言った。
「……」
――やれやれ。どうやら僕をなぶっているつもりらしいな。既に僕は窮鼠の立場ってわけか。
じゃあそろそろ、窮鼠は猫を噛むってことを教えてやろうか。別にそこまで追い詰められてもいないけれど。
「お前達、そもそも前提が間違ってるよ」
僕は顔を上げ、ようやく顔を笑みの形にほころばせた。それだけで随分楽になれた気がする。
「僕は別にアイドルでも芸能人でもない。確かにマスコミやファンに、アイドル風の持ち上げられ方をされてはいるが、僕自身はお前達が思っている程、今の自分のイメージや地位に未練なんかない。だから別に、今の自分のイメージが損なわれても、別に何の問題もないし、お前達がマスコミに僕のことを何話そうが、何の問題もない。よって、今ここでお前達を素通りしても、何の問題もないってわけだ。そのネタで、埼玉高校サッカー部が大会出場を自粛するって程の話でもないしな」
「……」
僕のことを芸能人かアイドルだと勘違いしている奴がいる。
僕自身は、今まで力にしか興味がなく、人前に出るにはあまりに長い時間、他人に無関心で、思いやりを知らずに来てしまった人間だ。そんな自分が現時点で公の場に進んで立つべきではないと、自分なりのけじめのつもりで行動しているのだが、その際の発言があまりに謙虚すぎて、人気取りのデモンストレーションだと揶揄する人間がいる。
こいつらは過去の僕を知っているだけに、僕の今までの言動をポーズだと読み違えたのだろう。だから、僕の今の人気を覆す、「過去」という武器さえあれば、僕をいくらでも強請ることが出来ると考えたのだ。今まで謙虚な優等生キャラの僕が、女でも容赦なく殴り、他人を馬鹿にし続けた冷酷な男だったなどというのは、僕の初の醜聞だ。それがばら撒かれるだけでも、僕の築き上げてきたものに楔を打ち込めると信じていたのだろう。
だが、自分達の握っていた武器が、三段論法で理路整然と一笑に付されてしまい、決め手を失った連中が、さっきまでの威勢を一気にしぼませていくのがわかった。
もう一度腹の底に笑いの衝動が沸きあがってくるのを感じると、本当に自分は攻撃的な性格をしていると思う。奴等はさっきまで僕をなぶって楽しんでいたが、僕自身もそんな劣勢をひっくり返したり、攻撃に転じることが本当に好きなんだな、と思う。
サッカーなんかではそれは長所だろうけれど、日常でその性格は自分でも修正しなければいけないところだとは思う。そうしなければ、いつか僕も家族のように、一方的な暴力に夢中になってしまう時が来てしまうかもしれないから。
「ついでに言えば、お前らが色々喋って僕の評判を落としても、その程度じゃ僕の今の歩みは止められない。すぐにひっくり返せるだけの力はあるつもりだからな。それでも言いたきゃご自由にどうぞってところだな」
更に追い討ちをかけておく。
「……」
本当は奴らのシナリオでは、強請られた僕はもっと狼狽して、喋らないでくれ、と哀願し、そのみっともない僕の姿を今頃笑っているはずだったのだろう。そして人気のないところに連れ込んで、僕に数発拳でも叩き込んで、サンドバックにでもして、僕をいい憂さ晴らしに利用する――そんなところだったと思う。
だけどここまで自分達のことを問題視されていないケースは、奴等の想定したシナリオになかったようだ。逆にこちらから、奴等の動揺が手に取るようにわかった。
「……」
僕は溜め息をつく。
「ま、お前達が今後どう出るかは好きにしろ」
僕はそう言い残して、立ち尽くす連中の横を通り過ぎて、店の外に出た。
足早にその場を立ち去ったのは、これ以上は弱いものいじめにしかならないと思ったからだ。そんなものに加担するのは、あの家族を見てきた僕はごめんだった。
「よお、ケースケ。予告通り、早かったな」
店の外に出ると、すぐ前にジュンイチ達が立っていた。一人漫画を立ち読みしていたユータも合流して、4人で僕を待っていたようだ。
「もう用は済んだのかよ?」
どうやらジュンイチから事情を聞いたらしい、ユータが僕に訊いた。
「別に僕は何の用事もなかったんだがな」
僕は答えた。
「しかしつまらんことで時間をとらせた。早くユータの家に行って、パーティーの準備を……」
「おい、待てよサクライ!」
僕の言葉を、背後からの怒声がかき消した。
僕は振り向くと、いきなり胸倉を掴まれ、体ごと上に引き上げられた。
「な?」
ユータの驚嘆の声がした。
「……」
胸倉を掴んでいたのは、さっきのグループの長身の男だった。右腕で僕の体を引き寄せ、近づいてみる男の眉間には、深いしわが刻まれ、こめかみに青筋が出来ていた。
「てめえ、その俺達を見下すような優越感いっぱいのツラ見てると、ヘドが出るんだよ! 自分だけが正しくて、周りの人間を常にバカにしている眼は、あの頃のままだぜ。世間がなんと言おうと、俺達は絶対にお前のことを認めたりしねぇ!」
顔を近づけて、怒鳴られる。
「……」
普通の高校生なら、自分より体も大きい、しかも集団で囲まれたら、この程度でビビるのだろう。
だが、僕の心はまるで朝凪のように何の変化もない。小学校時代にこいつらに集団で日常的にリンチされ、家族にも日常的におびえていた生活をしてきた僕は、自分で思っているよりも修羅場はくぐっているんだな、と、改めて思う。
「――確か小学校時代も、お前達に呆れる程言ったと思うが、敢えてもう一度、同じ言葉を繰り返そう」
僕は胸倉をつかまれたまま、長身の男の顔を見上げた。
「お前達が僕を気に入らないのなら、それでも構わないが、僕の邪魔をするなよ。お前達が黙っていれば、僕が確実にお前達との縁を切ってやるんだ。その時が来るまで、大人しくは出来ないか? お前達に嫌がらせなんかされなくたって、僕がお前達の前から消えてやるから」
そう言ってから僕は、出来る限り爽やかな笑みを作って見せる。
「事実、小学校時代はそうなっただろう。僕が私立中学に進学して、お前達の目の前から消えてやった。それ以上、どうしろって言うんだ? 今だってお前達が『お前を見ていると虫唾が走るんだ。消えろ』くらい言えば、すぐにでも僕がお前達の前から消えてやったのに……」
「うるせえ!」
また怒鳴られる。
「そういう問題じゃねえんだ。気にいらねえんだよ、お前のその人を見下すような態度、目上の人間に媚びる腐った性格がよ! お前の全てが気にいらねえんだ!」
「……」
この大きな書店は、敷地内に大きな駐車場がある。本屋だけじゃなく、レンタルショップもあるから、書店の入り口付近は人の往来もある。
そんな入り口前でこんな大声で怒鳴る男がいて、胸倉を掴まれている人間がいる。次第に人が僕達の周りに集まってくる。
「ねえ、あれってもしかして、サクライ・ケースケくんじゃない?」
「あ、あっちには、ヒラヤマくんとエンドウくんもいるわよ?」
そして、あっという間に僕達の招待に気が疲れ、僕達の周りにはどんどん人が集まってきてしまった。
やれやれ……