Univercity
やれやれ、さっきまでジュンイチがもしマイと同じ学部に行こうとか考えていたら、忠告してやろうと思っていたのに……
しかし、いざ自分がそういう立場になると、シオリが僕と同じ大学、同じ学部に来ることを、拒む理由はない――と言うか、むしろ嬉しいわけで。
僕は自分の現金な感情に、自嘲してしまう。
「どうしたの?」
いきなり笑われて、シオリは怪訝な顔で首を傾げる。
「いや、何でもない」
僕は軽く息を吸って、笑いを飲み込んだ。
「……」
沈黙。
「そういえば、いつも僕の話を聞かせるばかりで、君の進路のこととか、全然聞いてなかったもんな」
僕も本棚から、東大文Ⅰの赤本を取る。
「ううん、まだ色々迷っている段階だから。もうちょっと気持ちを整理したら、みんなに話そうと思っていたの。うち、弟と妹がいて、妹も来年高校受験だから、浪人とか、私立とか、そういう親に負担かけるようなことしたくなくて。だからちょっと志望校のランクを落として、確実に手ごろな国立に入ろうとか、そういうことも考えてて」
「……」
家族想いの彼女の考えそうなことだ、と思う。自分の大学のランクを落として、妹には私立高校の選択肢を与えようとしたわけだ。
シオリは隠すように持っていた、東大文Ⅰの赤本の装丁を、僕に見せるように持ち替えた。
「でも、そろそろ覚悟決めないとね。そう思って」
そう言って、意を決したような顔をして、シオリは持っていた赤本を目の前にかざした。
「よし、決めた! 私、これを買う! それで3月まで、頑張ってみる」
「……」
僕は沈黙してしまう。
次に何を彼女に言えばいいか、わからなくなったのだ。
彼女がなぜ、僕と同じ大学、しかも同じ学部に行こうと思ったのか、その理由が知りたかったけれど、もし僕のためだとしたら、それを聞くのも野暮な気もしたし、もしそれで理由が違っていたら、僕は彼女の決意に水を差すことになるからだ。
「君の家庭のことに口を出せる身分でもないけれど、いいことかもしれないな」
僕はとりあえず口を開く。
「前に君が言っていた。家族のことを思いすぎて、家族を優先するあまり、自分自身の存在が薄弱になっていく――自分自身は、何をやりたいかわからない。自分の人生を、どう生きていいかわからない――そう言っていた君が、家族のためじゃなく、自分自身で行きたい場所に行くって決断したことがさ、僕はすごくいいことだと思う」
そう、あの、僕が救われた夜に、彼女はそう言っていたんだ。
僕も小さい頃、家族がこれ以上荒れる理由を作りたくなくて、必死に家族のご機嫌をとるために、わけもわからず勉強して、自分を殺し、いつでも家族の言うことに従っていた時期があった。
その気持ちを知っているだけで、僕達の心は何も言わずとも、微かにシンクロしていたのだと思う。だからかもしれない。彼女といると、ひねくれた僕が、少し素直になれるのは。
「大学に入って、やりたいことが見つかったのか?」
僕はそう訊いてみた。何故彼女が僕と同じ大学、同じ学部を目指すか、それを遠回しに聞くのには、なかなかいい訊き方じゃないか、と、我ながら思った。
「うん、一応ね」
そう言って、彼女は左手で赤本を持ちながら、足元にある自分の荷物――学校用の鞄と、彼女の吹奏楽部のパートである、フルートの入った箱に目を落とした。
「私、大学でも音楽を続けようと思う」
「そうか。大学でもフルートを続けるのか」
「ううん、大学では楽器はわからない。私、ピアノとバイオリンもできるから」
「……」
「でも、大学に入っても、音楽を続ける」
「――そうか」
僕がそう言うと、シオリはこくりと頷く。
「調べてみたんだけれど、大学に入ったら、入ってみたい楽団があるの。学生主体のインカレで、みんなアマチュアなんだけど、そんな人達が音楽を通じて、色んな人達と交流したりしてるの。老人ホームとか、小学校とかに出向いて演奏したり、妊婦さんの胎教のためのミニコンサートとかを開いたり、とにかく音楽で、誰かを楽しませたり、笑顔にさせたりするための音楽をやっているんだって」
「へえ、いいな、そういうの」
「でしょう?」
得意げに、シオリは僕に微笑む。
「――私、音楽を始めたのは、正直、小さい頃に、親に習い事で、ピアノとバイオリンを薦められたからなの。自分から進んでやりたいって思ったものじゃなかったけれど、コンクールとかでいい成績をとると、家族が喜んでくれたし、私のために家族がパーティー開いてくれたりして――それだけでずっと続けてきちゃったんだけど……やっぱり私、音楽が好きだって、好きだから続けられたんだって、最近思えるようになって来たの」
「……」
「まあ、だからって、音大に通ってプロになるとか、そういうわけにもいかないから、結局は趣味にしかならないかな、って思っていたんだけれど――でも、そんな私の素人音楽でも、誰かを楽しませたり、喜ばせたりできたら、嬉しいな、って思って。大学に入ったら、自分だけが楽しむんじゃなくて、そんな音楽をやりたい、って、思ったの」
「いいじゃないか。すごくいいと思うぞ、それ」
心からそう思った。僕もそんな彼女の心のこもった演奏を聴きたいと思った。
そんな思いで彼女の横顔を見ていると、彼女は向き直り、しっかりと僕の顔に視線を置いた。
「そう思えるようになったのは、あなたのおかげよ」
正対して、シオリは言った。
「え?」
「この数ヶ月、あなたが全国大会でサッカーしている時から、私はずっとあなたの笑顔を見てきたわ。今までずっとクールだったあなたが、初めて子供みたいに感情むき出して笑って……」
「……」
そう言われると、ちょっと照れくさい。
彼女の音楽じゃないが、僕も最近、サッカーをやるのが心から楽しいと思えるようになった。サッカーをやっていると、アドレナリンが出て、自分がひどくハイになってしまうことがある。そんな時僕はどんな表情をしているのかよくわからない。ジュンイチ達には、「そんなお前のガキみたいな表情と、普段のギャップがファンを惹きつけているんだ」と言われるけれど。
「私、あなたの笑顔を見て、思ったの。やっぱりこうして笑うあなたが好きだって――あなたの笑顔が好きだって、この数ヶ月、何度も思った。それを通じて、ああ、私はこうやって誰かの笑顔を見るのが好きなんだなぁって、あなたの笑顔を見て、気付かされたの。今まで頑張ってこられたのも、家族の笑顔を見るのが好きだったからなんだって」
「……」
彼女の言葉に、男として心動かされている自分に気付く。好きな女の子からこんなことを言ってもらえるなんて、男冥利に尽きるっていうのは、こんな気分のことだろうか。
だけど、それ以上に、彼女のその言葉が、とても暖かく、とても綺麗で、僕は少しだけ浮遊感を味わった。こうやって一生懸命で、とても切実な思いを、頑張って言葉にする彼女の言葉は、聞いていると何だか心地よく、何か大きな優しさに包み込まれるような安心感があった。
「ケースケくん」
シオリのその優しい声が、僕の名を呼んだ。
「私――高校に入学した頃、ずっと焦ってた。やりたいことも見つからなくて、中学も、確かに充実していたけれど、それは家族や友達に合わせていただけで、ちっとも自分の人生って感じがしなくて。高校で、自分を変えてみたい、と思って。自分でゼロから何か築き上げてみたいと思って、今までやっていたピアノやバイオリンをやめて、まったく知識のないフルートを始めてみたけれど……それでも、自分の本当にやりたいことが何なのか、わからなかった」
「……」
そうか――彼女にとってフルートは、僕とこういう関係になるずっと前、入学当時から、自分を変えるための鍵のようなものだったんだ。だからあんな、指先にマメができるほど、必死に練習していたのか。
「高校で初めてあなたと出会ってから、私はあなたをずっと追いかけていたように思う。あなたは勉強ができるだけの優等生じゃない、テスト以外でも、その頭の良さを表現できる、私にはない力を持った人だと思ったから。あなたも高校で、まったくの未経験からサッカーをはじめて。どんどん上手くなっていくのもずっと見ていた。それを見て、私も頑張らなくちゃ、って、フルートの練習も頑張ることができた」
「……」
「そしてあなたが、大学では、誰かの笑顔のために頑張ってみたい、って思っているのを聞いて……上手く言えないけれど――私、あなたを大学でも、目標にして、追い続けてみたい――私が目標にする場所を、今のあなたを追い続けることで見出したいと思ったの。勿論、今のあなたを追うのは並大抵のことじゃないと思うけれど、そんなあなたに甘えてばかりの関係にはなりたくないし。あなたを追うことで、強くなりたいと思うから」
「――そうか」
去年の冬――サッカー部の勉強合宿の帰り道に、彼女とした話を思い出す。
その時の彼女は僕にとっては忌むべき存在だった。彼女の存在が自分の評価を低下させる一因だと、一方的に憎んでさえいた。そんな彼女が、自分にない行動力、応用力を持つ僕に憧憬の念を持っていて。
彼女は僕とやりとりをしたいと望んだ。僕の引き出しを探って、自分に吸収したい、それを僕に所望して、一生懸命に自分の気持ちを話した。
結局彼女は、その時の想いを今でも抱えている。彼女にとって、僕は恋人で、それ以前に大きな目標なのだ。向上心のある彼女は、今でも僕から何かを吸収しようとしている。恋人と同じ大学に行きたいとか、そういうふわふわした感情ではなく、もっと貪欲でアグレッシブな感情に突き動かされて、彼女は僕と同じ道を歩みたいと言うのだ。
「僕は君に本気で追いかけられたら、勝てる気がしないけどなぁ」
僕は彼女の顔を見て、くすっと笑う。
「君って、おとなしそうに見えてかなり頑固な性格だからな。そんな君に押しの一徹で来られたら、僕は東大でも君の後塵を拝すことになりそうだ」
「何言ってるの。それに、頑固で意地っ張りはお互い様でしょ」
「――確かに」
そう言って、僕とシオリは笑い合う。
「でも、君に本気で追いかけられたら、追い抜かれそうっていうのは嘘じゃないよ」
「え?」
「時に思いの強さは、才能とか、そんなものよりも強く作用することがある――集中力が戻ったことで、それを今実感しているからな。君のその追い込まれたときのド根性を知ってれば尚更そう思うさ」
「そうかな……」
「それも君が教えてくれたことだ。そして、僕以上にその強さがある君が、東大に落ちるなんてこと、僕は最初からこれっぽっちも考えてなかった。家族のためにランクを落とす必要なんてまったくない。君は東大に絶対受かる。主席合格だって夢じゃないと思うぞ」
「それは言い過ぎだって。模試で東大安全圏が出る人なんて、日本に何人もいないのよ」
「いやいや、いけるって。なんだったら、僕と勝負しようか? 僕と君、どっちかが主席で東大に合格したら、相手の言うことを何でもひとつ聞く、とかな」
「ええ?」
「少なくとも僕はこれだけ世間から騒がれると、東大主席合格じゃないと今までのがフロック扱いされちゃうから、どっちにしろ主席狙う出勉強しなくちゃいけないからな。死なばもろともってやつさ」
「もう――なんて人なの。東大受験をゲーム感覚でするなんて……」
シオリは呆れ顔だ。
「――でもいいわ。あなた一人主席狙いなんて可哀想だし、付き合ってみる。あなたに私の言うことを聞かせるのも一興だしね」
「ええ?」
「えへへ……」
その笑顔に空恐ろしいものを感じる。
しかし、僕の知らない間に、彼女にも随分変化があったんだな、と思う。
こんな冗談を僕の前で言うようになったのは、少しは僕と彼女が打ち解けた関係になったということなのかもしれない。彼女が家族のためではなく、自分のために大学に行こうと決めたことも、彼女の中では大きな一歩だ。
そうやって、色々なことが、シオリだけじゃない、ユータやジュンイチ、どんな人にも起きている。
人間、一面だけ見ていたのではわからないこともある。
シオリがこんな冗談を言うことも、今まで僕が見ていなかった彼女の一面だ。
そういうことが、少し面白いと思えるようになった。
世の中は辛く、つまらないもの、死を待つだけの存在だった僕が、世の中にはまだまだ面白いことが沢山あると思えるようになった。
これからは、もっと沢山の人に出会いたい。人間関係を捨て続けてきた僕だけれど、今なら以前よりは前に進めそうな気がする。
何十歩、何百歩とはいかないまでも、せめて少しだけでも――
そう思った時、自分に向けられている粘着性の視線に気付く。
僕は店の入口側――その視線の感じる先に目を向ける。
両脇を本棚に囲まれた狭いスペース、僕の5メートル程先、本棚の端に、5人の男女が立っていて、僕を見て、にやついている。
「よお、サクライ」
一番前にいた、鉤爪のようにごついシルバーのピアスをした、長身の体格のいい男が軽く手を上げた。ひどく気さくな感じもするが、実際は親しみなど微塵もこもっていない声。
「……」
自分の乏しい人間関係は、既に埃を被っている代物だが、そんな風化しかけた情報で、この顔に見覚えがないか検索をかける。
もっと沢山の人に出会いたい、と思った矢先の出来事だった。
それは、僕の記憶に間違いがなければ、出会いと言うよりは、再会だったけれど。