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Snoring

 雨のせいもあって、シオリ以後の客は、片手で数えられるほどしか来なかった。天気予報が見事に外れ、僕はずぶぬれになって家に帰り、リュートを檻に入れ、服を洗濯機にそのまま放り込んで、スイッチを入れた。風呂に入ろうと思ったが、母親がさっきのことでの腹いせか、ご丁寧にお湯を抜いていたので、もう一度シャワーを浴びて、冷えた体を温めた。僕はトレーナーに短パンをはいた。これが僕の寝具だ。

 台所でコップ一杯の麦茶を一気に飲んでから、リビングの奥の廊下を抜ける。そこからはドア一枚隔て、増改築した空間だ。細長い廊下に入ってすぐ右がトイレと洗面所、奥は父と母の部屋、そして左が僕の部屋兼、家の物置だ。

 廊下には、加齢臭と安酒の臭いがかすかに残っている。両親の寝室から、ドアを隔てて父のいびきが聞こえてくる。まるで地鳴りのようだ。恐らく僕の部屋にも響くことだろう。

 そして、今父がいびきを掻いているという事は、つい最近のご帰還だったということだ。父がいびきを掻くのは、眠りについてから、約一時間の間だ。

 別に珍しいことじゃない。むしろ、家にいる方が珍しい。父は自営業のくせに、週に五回は、夜、家にいない。そして、いつも決まって夜中のとんでもない時間に帰ってくる。

 父は、友達と飲んでいる、と言っている。その上、この商店街の会合やら、地域のクラブの会員などを引き受けているから、忙しい、と言っている。

 僕にとっては、別に理由なんかどうでもよかった。これだけ家を空けていれば、どう繕っても、明らかに不自然だ。浮気をしていたって不思議ではないだろう。あの出っ張った腹に、薄い頭、油の浮いた顔、月に片手で数えられるほどしか風呂に入らない体質を考えれば、考えにくいが。

 だからと言って、僕は親父が浮気をしていようがしていまいが、あまりそういうことに興味はない。むしろ、浮気が原因でこの家が離散すれば、僕にとっては決して悪い話じゃない。この店の経済状況と、僕の成績を考慮して、裁判の場で僕の学費保障とか、僕にとって有利な条件が提示されるかもしれないし、浮気だろうが不倫だろうが婦女暴行だろうが、好きにすればいい。

 まあ浮気をしてるかはともかく、親父が何かと理由をつけて、家を出るのには理由がある。自分の母と妻の喧嘩に巻き込まれたくないのだ。一家の大黒柱は、僕達の大黒柱だということを、既に放棄しているのだ。

 それが僕が小さな頃から続いている。親父が家を出れば、必然的に母と祖母の泥仕合は、僕の所へとやってくる。親父は難なく、責任問題を逃れられるわけだ。

「俺は、お前達みたいなバカのやる事に巻き込まれて、自分のところまで被害が来るのなんか、まっぴらなんだよ!」

 たまに家にいる時、親父はよく、こう言う。こんなことを言う時点で、自分がこの家の大黒柱であることを放棄していると、自分で公表しているようなものだ。その後、手近にあるものを投げつけては、自分も喧嘩に割り込み、泥仕合を更に泥沼化させる。僕の被害は、更に大きくなる。

 そんなこと、誰だってそう思っている。僕だってそう思っている。子供を残して、親父は真っ先に家から逃げた。そんな男が、平気で家族を、バカ、と言う。

 母親が親父と別れない理由は、おそらく金の問題だ。この家は重要文化財、及び老舗というだけで、テレビや雑誌の取材も来る。大量の観光客が押し寄せる。家に金が流れ込む。

 母はギターを習っている(今ではギターにも飽きて、せっかくのギターは僕の娯楽用になってしまったが)。ゴルフだってする。ジムにも通う。月に何度か横浜や六本木にショッピングにだって行ける。罵られ、親父と祖母に牛馬のように働かされても、金によるガス抜きをしている。罵られる代わりに、普通の主婦よりもいい生活を約束されている。目先の快楽を追っている母は、それに単純に踊らされているわけだ。

 どいつもこいつもハイエナみたいだ。全員、現実を突き詰めるのが嫌だから、家族はお互いの利害を一致させて、それを誤魔化しながら、小ずるく、自分勝手に生きようとする。

 親父は金を運ぶ代わりに、家族の責任を放棄する権利を主張する。母は働かされ、虐げられている代わりに、金によるガス抜きの権利を得ている。祖母は、6畳間の狭い部屋に、ペスト患者のように隔離政策を布いている代わりに、家から金を要求する権利を得る。

 金は、冷めた家庭をいやがおうにも運営させるのだ。たとえそれがどんな臭気を撒き散らしても。

 父親が母親の料理を、一度も手をつけず、ゴミ箱に捨てた時は、幼心に悲しかった。そして親父が荒れ狂う姿は恐怖だった。外に憂さ晴らしに出て行く親父の姿を見送ると、親父にメチャクチャに蔑まれた母は、僕に血走った顔で八つ当たりした。僕は首を振って泣くだけしかできなかった。

 祖母が幼稚園児だった僕に、何度も、死にたい、死にたい、と言っていた。祖母の部屋は二階で、ベランダに面している。僕の部屋の窓からベランダが見える。僕は幼心に、いつかおばあちゃんが、ベランダから飛び降りるんじゃないか、と思って、夜中眠れずに、何度も窓から外を窺っていた。しかし、翌日には祖母はけろっとして、僕にふてぶてしく話しかけてくる。

 親父のいびきを、憎い、以外の感情で聞いたことは、中学生以来、ないだろう。

まさに白川夜船。あのクソ野郎は、今日の夜も、母と祖母が荒れたことを知らない。店を閉め、何かと理由を付けて、外に飲みに出かける。帰ってくるのは夜中のとんでもない時間で、皆が寝静まった頃を見計らうように帰ってくる。この男は、何も考えずに、眠りにつくことができるわけだ。

 部屋に戻った。丈夫な木製の扉に、自分でボルトを締めたラッチ錠をかけた。

木造の部屋で、20畳はあるが、ほとんどが一家のガラクタと、衣服の入った箱が、部屋の大半を占めている。映画で、ハリーナントカが住んでいた、物置みたいな部屋に似ている。

僕の私物といえば、僕の衣服の入ったタンスと、僕が小学校に入学した時に、親戚のおばあちゃんに買ってもらった、正面にポスターを貼るタイプの学習机、木製のベッド、そして僕がバイトをして、こつこつと貯めた金で買った中古のノートパソコンと、小型の冷蔵庫だ。

 だけど今日も部屋にパソコンはなかった。バイトから帰ってくる時に、妹の部屋の電気がついているのが見えた。

いつものことだ。僕がバイトに行っている間に、僕のパソコンを勝手に持ち出したのだ。チャットで徹夜ができる女だ。今年高校受験のくせして。

そして、先ほど確かめた、日本対アルゼンチンのサッカーの試合を撮っていたビデオには、試合の後にやっていた、今クールの人気ドラマが上に被せられていた。妹の、僕に対するあてつけだろう。自分が偉いなんて、勘違いするな、とでも言いたいのか。

 妹は、僕よりはるかに頭が悪い。IQでは完全に僕の方が勝っている。それは妹に限ったことじゃない。二流大学を出ている親父なんか、僕は既に超えている、と思っている。世の中学歴だけではない、学歴社会は終わった、とは言うが、学生の身から見れば、学歴は重要だ。中卒に職業選択の自由があるとは言いがたく、高卒だって一般企業の就職率は絶望的な数字だ。大企業の就職試験を受けるにも、一定以上の学歴がなければ、門前払いだ。これが学歴社会じゃなくて、一体何だというんだ。最終学歴は、門に立つための切符ではないか。

 もう夜の三時前だった。明日も学校はある。僕はさっさと眠りにつくことにした。ベッドにすぐにもぐりこみ、部屋の電気を落とした。

 部屋に沈黙が流れると、外に降りしきる雨の美しいアンサンブルが、部屋の外から聞こえる、親父のいびきの音にかき消された。それだけで不快な気持ちになってくる。

 布団の中で、僕は、体の中にどす黒い怒りを感じていた。

 夜は、僕を暗闇に閉じ込める牢獄だ。ゆっくりと僕を締め付ける。

 毎日家から逃げて、事なかれ主義を決め込んでいる、外面がいいだけの内弁慶の父。くだらないことで激昂し、僕の飯さえ用意しない、愛情のかけらもない母。自分の姉や、息子にも疎まれ、あの狭い部屋に閉じこもり、金で私欲を満たす祖母。勝手放題の言動をしている割に、深夜までパソコンの前に座って、15の身空で、人生を消化しているだけの妹――

 僕の利害だけが一致していない。僕は、この家の掃き溜め。こんなはずじゃないのに。

 何で僕が、こんなクソ野郎どものために、こんなに我慢しなければならないんだろう。何で僕はこんなクソ野郎どものために不愉快な思いをしなくてはいけないのだろうか。僕は、父よりも、母よりも、祖母よりも、妹よりも、高く飛べる力を持っているはずなのに。

 こんなクソ野郎が『大人』で、どうして僕は『子供』なんだろう。

 強くなりたかった。何もかも凌駕して、目の前の気に入らないものを全て消したかった。誰にも頼れないから、そうして生きるしかなかった。そのための努力はしたつもりだった。

 しかし実際はどうだ。成績ではあんな女の子に負け、サッカーだって自分の中では左遷に等しい、ディフェンダー転向を言い渡された。僕の気持ちなど、何も考えもせずに。

 不快ないびきを子守唄に、僕はいつまでも怒りを抑えられなかった。

 ちくしょう、ちくしょう。

 このままでいいのかよ、サクライ・ケースケ。お前はこんな生き方をしている場合じゃないだろう。

 悔しかったら、もっと力振り絞ってみろよ。


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