May
次の日、埼玉高校では全校集会が開かれた。
集会が開かれた原因は、これから行われる文化祭に向けての注意事項や、校長の無駄に長い激励の言葉。
そして、昨日プロチームでプロ初ゴールを決めたユータの報告のためだった。
ステージに立つユータに、万雷の拍手。人一倍大きな体だから、一人ステージに立つ姿は、何とも絵になる。
とは言っても、元々頭の悪い奴だ。突然のことでコメントも考えていないらしいから、喋りが妙にたどたどしい。風格のある体も、喋ってしまうと台無しだ。
「えー、その、まあこれは俺にとっては第一歩、かな。来月にはオランダで行われるU‐20世界大会の代表発表があるし、そのメンバーになれるように、今は結果を積み重ねていこうと思ってるんで」
そう、ユータとジュンイチが3月にサウジアラビアで戦った、サッカーU‐20世界選手権アジア予選、そこを突破した日本は、6月末にオランダで行われる世界選手権本大会に出場する。その最終選考が間近に迫っているのだった。
「まあ、俺はそこに、出来たらケースケ、ジュンも選ばれてほしいんだけど……いずれにせよ、今俺がサッカーを楽しくやれているのは、応援してくれる全校生徒と、何よりサッカー部の仲間のおかげだ。だから、世界選手権後の夏の高校大会、俺も全力で頑張って、今度こそ埼玉高校を全国制覇に導くんで。みんな、応援よろしく」
「全く……朝の挨拶、ありゃ何だよ」
昼休み、僕、ユータ、ジュンイチのトリオはいつものように、屋上でユータに差し入れられた弁当を広げていた。
今日はシオリとマイはいない。何でも文化祭に向けて、女子だけで話し合いがあるのだそうだ。まあ、彼女だからと言って、毎日僕と弁当を食べることもないし、彼女にも友達がいるのだ。そういう事を僕は気にするタイプでもない。
埼玉高校は、去年まで部活を二年生で引退させ、勉強に専念させる制度があった程、受験効率に偏重した学校だ。その名残で、受験勉強が本格化する2、3学期を避け、ほとんどの学校行事は1学期に集中している。
だから埼玉高校の生徒は、1学期はずっと忙しい。5月初旬に体育祭、5月末の中間テスト、6月中旬の文化祭、7月中旬の期末テストと、盛りだくさんだ。
3年生になると、それに進路相談が加わる。もうすぐ4月に受けた模試の結果が返ってくるし、中間テストもはじまる。その模試と、中間テストの結果を踏まえて、まず第1回目の進路相談の材料にするので、最近クラスメイトは、中間テストで少しでもいい結果を出そうと必死だった。
「別にいいじゃないか。ユータがお前とサッカーをやりたがっているって言っているのは、今に始まったことじゃないだろ」
ジュンイチが出し巻き卵を噛み締めながら、言った。
「……」
「どうせお前、これから卒業までは、少なくともサッカーの勧誘は減ることはねぇんだ。昨日個別に呼び出されたのだって、プロ契約の話だったんだろ」
「……」
ジュンイチも、もう分かっていたのか。
そうだろうな、ユータを使って、交渉をしようとするチームもあったんだ。これから僕を引き入れたい人間は、色んなアプローチをしてくるのだろう。
「俺達の代表監督も、お前と交渉すると思うぜ。残念ながら俺達の予選でのサッカーは、時自分でいうのもなんだが、誉められたものじゃなかったからな」
自嘲しながらジュンイチは言う。
サウジアラビアでの日本代表のサッカーは、暑さのせいもあっただろうけど、確かにいいサッカーではなかった。得点はユータの個人技任せだったし、守備はそれに輪をかけて酷かった。予選の後半から、攻撃力に目をつぶって、守備に長けたジュンイチを中盤に入れ、ようやく中盤が安定したが、それでも守備が磐石とはいえなかった。。攻守共に駒不足だった。
「お前、サッカーの代表に、魅力を感じてないのか?」
「シオリさんに聞いたが、お前、予選で俺達の試合の時、じっとしていられなくて、夜、ラジオ耳に突っ込んで走っていたらしいじゃないか。それはお前の中の血が疼いているからだと俺は思ったんだがな。そうじゃなきゃ、俺も無理にお前を誘わないさ」
ジュンイチ、ユータが口々に言う。
「……」
そんなことも二人に話していたのか。きっと僕にとって、いい傾向だと思ったのだろうな。
僕は溜息をついて、空を見上げる。
「最近、よく考えるんだ。お前達とサッカーをやれる時間は、あと僅かなんだって」
「ほお」
「だから、代表でお前達と一緒にサッカーをやるっていうことには、確かに魅力を感じるよ。もう高校では、お前達と組めば、どんな奴にも負ける気がしないまでになっちまった。そんな僕達が、世界から集まる化け物みたいな奴等にどこまで通用するのか、試してみたい気もある。実際、お前達の試合をテレビで見て、僕もその場でサッカーをやりたくなったよ」
僕は言った。
「でも――僕は今まで、随分わがままを言って、沢山の人の期待を裏切ってきたからな。代表にはならないと言い続けてきたし。そんな僕が、やってみたくなったからって、自分の意見を都合よく出したり引っ込めたりしていいものなんだろうか」
「……」
「代表なんて、国を背負う立場を私物化して、いいものなんだろうか。しかも予選を突破した時のメンバーを差し置いて、本戦だけ参加するなんて」
「はぁ……律儀すぎるぜ。お前」
ジュンイチが溜息をついた。
ジュンイチが溜息をつくのも分かる。今の自分が、損な生き方をしていることも。
でも、僕はまだ未熟だけれど、生き方に筋は通していきたいんだ。
自分の家族はあそこまで無法な人間だ。家族の行動は、さほど気にならなくはなったけれど、僕自身はまだあの家族に屈したくないという思いがある。
無法な人間に、それ以上の無法を以って押さえつけても意味がない。そんな相手に筋を通した上で凌駕してこそ、僕は本当に家族から完全に解放されるのだと、僕は思っている。
あの夜――自分があの家族と同じ、卑屈で残酷な心が芽生え始めていることで、あの家族と同類になろうとしていることに怯えていた僕に、彼女は「あなたはそんな人じゃない」と言ってくれた。
そう言ってくれた彼女のためにも、その言葉を何とか自分の手で証明したいと、僕は心の底で思っているのかもしれない。
結果的に僕はまだ、あの家族から自由になれていないのかもしれない。結局は家族のために意地を張って、自分の身を縛ってしまっている。
本当は、もっとやりたいことは沢山ある。こいつ等ともっとサッカーをできることなら、もっとそうしていたいとも思う。
だけど――
「僕は、自信がないんだよ。今の時点で一度表に出てしまったら、僕はきっと、周りの大人の起こす大きなうねりに巻き込まれていくだろう。看板広告やプロパガンダにされたり、自分の生き方が何なのかわからないまま、走り続けなくちゃいけなくなる。そうなった時、自分を見失いそうで――だから今のうちに、自分がどういう人間で、何をどうして生きていきたいのか、それを見つけておきたいんだ。今のまま表に出たら、僕は何もできずにしどろもどろしてしまいそうな気がする」
僕は顔を上げた。
「だからさ、今はお前達を、この埼玉高校でサポートするよ。それくらいしか出来ないから」
「その手始めが、今夜のユータのプロ初ゴール記念パーティーってわけか?」
ジュンイチが聞いた。
「ああ、まあそんなところだ」
僕の発案で、今夜はユータの家でプロ初ゴール祝いのパーティーをすることになった。参加者はいつもの5人と、ユータの家族という、ささやかなものだけれど。
「はは、みんなに祝ってもらうのは、俺も嬉しいけどよ」
ユータは軽く笑みを浮かべながら、僕を見た。
「お前、俺の世話だけじゃなく、シオリさんの世話も焼いてやれよ」
「……」
「で? せっかく俺がお前等と昨日、二人きりにしてやったんだ。昨日、あれから、キスくらいは出来たのか?」
「お? そりゃ俺も興味あるな」
ユータの問いに、ジュンイチも箸を置いて、体を乗り出してくる。
「いや、別に」
「はぁ? 昨日あれから結局、何もなかったのか?」
ユータが大きな目を見開いて、僕を見た。
「……」
「はぁ、健全と言うか、ヘタレと言うか……」
ユータは青空を仰いだ。
「もう付き合って半年だろ、お前達。これから忙しくなる前に、せっかく二人きりにしてやったんだ。キスくらいしろよ。ヘタレのジュンでさえ、もうマイさんとしてるんだぜ」
「そうそう、俺でもできたんだから――って誰がヘタレじゃ!」
ジュンイチが、コミカルな動きでユータににじり寄る。
「……」
「お前、昨日二人で手をつなぐ時も、少しぎこちなかったぞ」
ジュンイチが横でペットボトルのスポーツドリンクに口をつける。
「彼女がいる俺が言うのもなんだけどよ、お前、よく我慢できるよな」
「何が?」
「だってよぉ、シオリさんの愛くるしさは反則級だぜ? 少し引っ込み思案で地味な印象あるけど、そこらのアイドルよりも全然可愛いしさ」
「そうそう。そんな女の子がお前に惚れてて、いつもお前に優しくて、それでお前、何にもしないのがすげぇよ。よく何ともなくいられるな」
ユータも相槌を打つ。
「……」
「卑陋な話をするつもりはないと先に言っておくけど――お前って、もしかして、もう機能ないわけ?」
ジュンイチに訊かれた。
「あんな可愛い娘と付き合ってて、何もしないなんて、賢者か大魔法使いか、妖精の境地だぜ」
「――あるよ、少しは」
僕は答える。
「はは、言っちまった。昔のお前なら、無視しただろうに」
ユータはくくく、と笑いを噛み殺す。
「……」
僕にだって性欲くらいある。
ただ、それが自分の中で、酷く未発達な部分だと思っているだけだ。
僕は小学校時代、女子に対していい思い出がない。そのまま中学は男子校に進学。中学は、小学校時代にいじめを受けた経験から、勉強と野球を両立させ、力をつけることで頭がいっぱいだったし、都内の中学に、片道2時間かけて通っていたから、他の連中みたいに、女の子と遊ぶ時間もなかった。中学でも女性に興味を持たないまま、高校に来たが、高校では勉強に加えて、生きるためにバイトをし、サッカー部にも所属し、連日疲れ果てていた。夜中に荒ぶる魂を鎮めるなんて事をしなくても、眠りにつくことができた。
自分に性欲があるのかどうかさえ、あまり意識することなく、この歳になってしまった。
性欲だけに限らず、僕にはそういうことが多すぎるんだ。子供の頃に、人が当たり前に手にする感情や、根源的なものを知らずに、18になろうとしている。なまじ力があるだけに、そんな人間としての根源的なものがない自分が、大人と子供が同居しているように、とても不安定なバランスの上にいると、強く感じている。
「……」
だが、そんな事をユータ達は知らない。僕の生い立ちを知らないのだから。
「シオリさんが可哀想だぜ」
ユータが言った。
「お前の周りがあわただしくて、彼女の存在を隠していることも、パニックを避けるためだって、頭じゃシオリさんも理解しているだろうさ。でもさ、だからこそ二人きりの時は、関係をはっきりさせるためにも、そういうスキンシップは必要なんじゃないのか?」
「……」
「あの娘だって、お前と同じ、奥手で恋愛音痴だから、お前の気持ちに自信が持てないところはあると思うぜ。しかも相手が、今女の子からモテまくってるお前ならなおさらだ。いつか他の、もっといい人の所へ行っちゃうんじゃないか、って、ずっと不安だと思うぞ」
「……」
確かに。僕だってシオリが今、僕をどう思っているのか、正直よくはわからないのだ。感情に質量はないのは分かっているけれど、彼女が僕を思ってくれる理由も、その気持ちの質量も、僕にはわからない。
彼女も、同じ想いを抱えているのでは――そう考えれば、それは人の心に鈍い僕でも、わからないこともない。
「そう言われても――僕は彼女にどうやって触れたらいいか、わからないよ」
今まで母親にさえ抱きしめてもらったことのない僕は、いわゆるスキンシップと呼ばれるものの重要性や意図がよくわからない。母親と子供のそれさえわからないのに、男と女のスキンシップなんて、もっとわからない。
それに僕は、女の子に2度触れて、2度ともその女の子を傷つけてしまったことがある。
1度目は、僕の初体験の相手になった女の子――その娘に触れた時は、ただ何となく、成り行きでだった。その時僕は、彼女の肢体や恥部を受け止め切れなかった。
2度目は、精神的にどん底だった時に、誰でもいいから側にいてほしい、その思いが暴走して、そうしないとおかしくなってしまいそうな、そんな制御不能の状態で――そのときは直前で歯止めが効いたけれど、結果的に僕は彼女のことも傷つけた。ほんの半年前の話だ。
シオリのことも、そんな触れ方をして、傷つけ、失ってしまうことが恐かった。だから、それ以外のやり方での触れ方を僕は模索していたけれど、それをどうすればいいのか、まだわからなかった。
「はぁ、お前サッカーや他のことなら、これ異常ないほど攻撃的なのになぁ。何で恋愛においてはそんなにヘタレのヘナチョコなんだよ!」
ユータが呆れるように目を覆った。
その時、僕達の背後の屋上のペントハウスの扉が開いた。
「何がヘナチョコなの?」
扉の置くから、シオリとマイが姿を現す、
「シオリさん――い、いや、何でもないよ」
ジュンイチが慌ててかぶりを振る。
「ふぅん」
マイが怪訝そうな視線をジュンイチに向ける。
「それより、二人とも、女子の話し合いは終わったの?」
ユータが話をそらした。
「うん、今年のホタルちゃんのプロデュース方法について。結構話し合っちゃった」
マイが僕をにやついた目で見る。
「……」
僕はシオリの方を見る。
「でも、たまにはいいんじゃない? ホタルちゃんには年に一度しか、会えないんだから。えへへ……」
そう言って、シオリは僕に、自分のイタズラ心を誤魔化すように微笑むのだった。
「……」
僕は彼女の、この裏表のない、飾らない笑顔に弱い。
僕は、私生活では攻撃性が強く出すぎているきらいがある。去年サッカー部で顧問のイイジマに言い渡されたディフェンダー転向が納得いかなかったのも、単純に僕が、守備より攻撃が好きなためだったし。時にその攻撃性が仇になって、暴走してしまう程、本当の僕は攻撃性が強すぎる人間なのだ。
だけど――目の前のシオリの笑顔は、いつだって僕の攻撃性を消してしまう。その笑顔がいつも穏やかで、見ているこちらの凝り固まった心を浄化し、洗い流してくれるような、そんな気持ちに変えられてしまう。
この笑顔が向けられる限り、僕はヘタレと言われても、彼女に強引に迫ることはできないだろうな、と思う。
彼女の笑顔には、そんな、人の心を穏やかにしてしまう何かがあった。怒りや憎しみで、攻撃性を育てすぎた僕は、その笑顔を見ているだけで、心を捉えられ、何も抵抗できなくなってしまうのだった。