Buffoonery
僕は家族を尻目に、一度シャワーを浴びて、デンマークから送った荷物が家に届いているかを確認し、その中の衣類を洗濯機にかけて、ベランダに干し、それから学校に向かった。
下駄箱で靴を履き替え、教室へ向かう途中に通る生徒指導室近くの掲示板に、多くの生徒達が集まっているのが見えた。
僕はそれを尻目に教室に行くと、もうシオリ、ユータ、ジュンイチ、マイの4人とも登校していた。どうやら僕を待っていたらしい。
僕は鞄を教室に置いて、5人で掲示板に向かった。僕達の姿を見て、それまで鈴なりだった生徒達は、さっと僕達の前を開けた。
一学期実力テスト成績上位者(第三学年)
順位 氏名 クラス 平均点 所属部活
一位 マツオカ・シオリ E 九十四・二 吹奏楽部
二位 サクライ・ケースケ E 九十三・七 サッカー部
三位 オガタ・ヒナ B 八十七・一 無所属――
「――今回は負けちゃったか」
僕は顔を覆う。
昨日は、春休みの成果を見るために、新学期早々の実力テストが行われていたのだった。その結果が、一日置いて今日、掲示板で発表されていた。
「しかしお前、昨日は帰国早々で疲れがピークの上、ろくに寝てなかったみたいだし、コンディション最悪だったんだろ? なのにこれかよ――」
ジュンイチが苦笑いする。
「実に可愛げがないな。少しはドジをしておかないと、女にもてないぞ」
プレイボーイのユータに言われる。
「……」
「シオリ、サクライくんが海外で頑張ってるんだから、帰国したら、自分も頑張ってたところを見せなくちゃって、このテストに向けて、すごい勉強してたもんねー」
ジュンイチの横で、彼女のナカガワ・マイがそう茶化した。
「え? あ、う……」
それは内緒の予定だったんだろう。突然カミングアウトされてしまい、シオリは少し狼狽する。
「で――でも、あんなに疲れてヘロヘロだったケースケくんと、たった5点しか変わらないし……」
照れを隠す時特有の、彼女の早口が出る。
「……」
ユータやジュンイチがニヤニヤして僕を見る。何だか僕も照れ臭くなってくる。
3年生になると、授業の半分は受験用の実習になる。問題を配られて、一時間で解き、次の一時間で解説、というのが続く。
3年生になって、クラスが文理で完全に分かれる。結局僕は文系を選んで、シオリ達と全員同じクラスで授業を受けている。
ジュンイチの彼女の、ナカガワ・マイは、チアリーディング部の部長であると共に、学年でもトップ30には必ず入る、成績上位者だ。国立の東京外語大を本命に、上智、青学、立教あたりを志望しているらしい。
ジュンイチは、文系になって、得意分野だけで勝負が出来るようになり、成績が上がった。ただ国立を目指す以上、天中殺の数学とはいまだに付き合っている。でも、マイと同じ大学に行きたいジュンイチは、それに追いつこうと、今がむしゃらに勉強している。
受験生に恋は禁物とも言われるけど、ジュンイチには今のところ上手く作用しているみたいだ。
そして、僕とシオリは――
僕は東大でも100%合格確実だと言われているし、全国100番以内のシオリも、よほどのことがなければ合格できるとされている。埼玉高校は、本来東大合格者を毎年30人は出す進学校だ。中でもそこで3年間しのぎを削っていた僕とシオリは、誰もがまず合格は固いと思っているだろう。
――休み時間になると、ジュンイチは僕に、数学を見てもらいにやってくる。最近いつも休み時間は、こいつの勉強を見るだけで終わってしまう。
「だからな、cosθっていうのを、ここに代入して……」
「んがぁー! だから何でそうなるんだぁ!」
ジュンイチは頭をバリバリとかきむしる。
「――と言うか、お前はまず、微積分がわかってないからな……ごめん、僕が悪かった」
僕はシャープペンをくるりと回す。
「しかし、俺達は今まで、数学世界一の高校生に勉強を教えてもらっていたと思うと、空恐ろしいぜ」
脇でそれを見物していたユータが言った。もうプロサッカーチームに所属するユータは、進学の意志がない事を早々に発表していて、今はこうして高みの見物というわけだ。
「く、くそぅ――じゃあケースケ、この問題はどうやって解くんだ?」
ジュンイチはくじけずに訊いてくる。
「……」
今まで数学から逃げ回ってばかりだったジュンイチが、今はこうして数学に食い下がろうとする意志をしっかりと見せている、
――変わったな、こいつも。
受験に挑み始めるジュンイチ、プロでのサッカー人生が始まったユータ。
形は違えど、二人とも、自分自身の戦いに挑んでいる。
全国大会が終わって数ヶ月で、こいつらの顔は、それぞれの世界で厳しく戦おうとする、男の雰囲気が染み付くようになった。二人とも、とてもいい顔になったと思う。
今の僕も、同じ顔ができているだろうか、と思う。
まだ僕は、自分の戦う場が見えていても、何をすればいいか、よくわからない。怒りや憎しみでしか戦う事をしなかった僕は、そんな感情以外の動機でする戦いがある事を、最近知ったばかりだ。
今の僕は、戦う前に、学ばなくてはいけないものが多すぎる。
だけど、いつまでもそんなことは言っていられない。もう18になるのだから、すぐに僕も、戦いの地へ赴かなければいけない。
ただ、もうしばらくは、こうしてこいつ等と――
「――ケースケ?」
そんな考えが、ジュンイチの呼びかけで中断する。
「何だ? ケースケでも春だから、気が抜けてるのか?」
ユータが皮肉った。
「あぁ……悪い、えっと、次の問題だったな……」
「サクライ」
ジュンイチの参考書に目を落としかけた時、後ろから誰かに呼び止められる。
振り返ると、そこにはノートや参考書を持ったクラスメイトの男子達が数人立っていた。
「なあ、俺達にも、数学、教えてくれないかな?」
「……」
クラスメイトは、どこか僕を恐がるように、おずおずと僕に話しかける。
それはそうだ。僕は入学した頃から授業をサボりまくっていたし、学校行事のクラス打ち上げにも、金がないからと言って、一度も参加したことがない。同様の理由で修学旅行さえ行っていないのだ。この二人以外のクラスメイトとは、男女関係なく、ほとんど接点がない。
そうやって僕は、色んなものを、自分には必要ないからと決め付けて、はじめから見もしないで捨ててきたんだ。
このクラスメイトもそう。ユータやジュンイチ、シオリだってそうやって――
「――ああ、勿論。遠慮しないで何でも訊いてくれよ」
僕はまだぎこちないけれど、今の自分の精一杯の笑顔でいるように努めた。
僕は、後悔しているんだ。
そんな、「どうでもいいもの」と決め付けていたシオリやユータ達に救われたことで気付いた。自分がこれまで、沢山の可能性を捨ててきた事を。
それに気付いた瞬間、僕の価値観は少し変わった。
僕は後悔によって、生きることに少し前向きになれたのだと思う。はじめは、今まで捨ててきたものを、ちゃんと拾い集めていたら、僕はあんな過ちを犯さずに済んだのでは、と、酷く後悔した。
だけど、まだ間に合うかもしれないと思った。時間がかかっても、自分が今まで捨ててしまったものを、もう一度拾い集めてみたい。そう強く思った。
今僕が探しているものは、そうやってずっと、ほとんど無意味に捨ててきたものだ。自分の感情や、人を愛すること、守ること――一度捨てたものを、もう一度拾い上げることが、こんなに難しいのかと実感した僕は、もう二度とそうして、目の前にあるものを簡単に捨てたくはないと、思うようになった。
「じゃあ、みんなで机集めて、ゆっくりやろうか」
そうして、僕の席の周りで、数学講義が始まる。
ユータやジュンイチがフォローを入れてくれるのも手伝って、人付き合いの苦手な僕でも、あまり話したことのないクラスメイトとも、何とかちゃんと交流しながら、勉強を教えることができた。
今まで、人付き合いが上手くいったためしはほとんどなくて、それを避けてきたけれど、今は少しずつ、こうして勉強している。
僕は皆に勉強を教えるけれど、皆は僕に人付き合いとか、笑い方とか、色々なものを教えてくれる。
東大に入る学力がある僕は、今はこういうことを少しずつ勉強している。
まあ、そんな人付き合いは、色々と発見もあって楽しいんだけど……
「お前等、志望校聞く限りだと、センターで数学150は絶対切れないんだからな。もうちょっと頑張れ」
そうやって僕が叱ると……
「確かに教え方は丁寧なんだが――さ、流石にあれだけ授業サボっていた奴が、こんなに勉強ができるとなると、嫌になってくるな……」
周りの男達が、そんな空気になってくる。
「だろう? お前等もそれわかってもらえて嬉しいよ。そうなんだよ。こんな怠惰な学生が成績がいいなんて、あまりに不条理だと思うだろ?」
ユータがその気持ちを共有する。
そこにジュンイチが地雷を置く。
「おまけに、学校一の美少女と付き合ってる――一度は、付き合わないと誓ったのに……」
「お、おい、ジュンイチ……」
途中で完全に形骸化してしまったが、僕は2年の始まりに、マツオカ・シオリと付き合わないように、ファンクラブのような奴等と約束して、ずっと避ける日々が続いていた。
だから、僕がシオリと、恋人関係になって、僕に校内の男子の苦情が殺到した。
「サクライ、お前、マツオカさんとどこまでいってんの?」
クラスメイトの一人に聞かれる。
「は?」
僕は横目で教室を一瞥する。
教室にはシオリもいる。僕同様、女子に囲まれて、勉強を教えているところだ。
「まさか、もう既にあんなことやこんな事をしてるんじゃないだろうな!」
「馬、馬鹿、声がでかい。本人がいるんだぞ……」
僕は声を殺して言う。
「あんなことやこんなことはともかく、シオリさんが恋する乙女の顔になってたのは事実だな」
ユータがにやついて僕を見る。
「今日なんて、『ケースケくんも外国で頑張ってたんだから、私も頑張っているところを見せなくちゃ』ってことで、シオリさん、実力テストで学年トップだとよ。健気だよなぁ……」
シオリの台詞の所は、彼女を真似たつもりか、声をか細くした演技つきで説明した。
「だぁ! 許せねぇ!」
クラスメイトは僕を睨む。
「みんなでこの幸せ者をシメてやろうぜ」
そう言ったジュンイチは椅子から立ち上がって、僕の背後からクビをチョークして、僕を立ち上がらせる。
「な、ちょっ、ジュンイチ、やめろ! 苦しいって!」
そうして椅子から立ち上がらされると、ジュンイチは僕を教室の床に倒して、左腕をがっちり掴む。
「ユータ!」
「おう!」
ジュンイチの合図で、ユータは逆に僕の右手をがっちり掴む。腕を決めに来ているわけじゃないけれど、僕は大の字に寝転がらされる。
「今だ! お前等、こいつをくすぐってやれ! いつもクールなこいつが笑い悶える恥ずかしい格好を、衆目に晒してやるんだ!」
そのジュンイチの発言に、今まで勉強を教わっていたクラスメイトの目の色が変わった。
「このやろ! こーしてやる! こーしてやる!」
「わ、何するんだ!」
男どもは、僕の体を押さえつけて、上着や靴を脱がせ、僕の脇や足の裏をくすぐりにかかるのだった。
「く、くくっ……ちょ、ちょっとやめろ……くっ、あははっ」
僕は笑いを堪えて悶え苦しんだ。
そんな僕の姿に、女子も集まってくる。女子は今までシオリを中心として、僕達同様、勉強を教えあっていたのだけれど。
身悶えている僕の前に、シオリがやってくる。
「シ……シオリさ……た、助け、く、くひひ……」
僕は笑いを堪えながら、苦しい息で何とかそう声を絞り出す。何たる醜態だろう。
だけど……
パシャ。
「……」
笑い過ぎて涙まで出てきた僕の目に映っていたのは、携帯電話を構えてシャッターを切ったシオリの姿だった。
いつも真面目なシオリが、そんな行動を取るのが意外で、くすぐっていた男子達の手も思わず止まってしまう。
「ごめんなさい。でもたまには私も、あなたの恥ずかしい過去を握らないと――えへへ」
シオリは舌を出す。
「……」
僕は目を閉じて、頭をがっくりと床に預ける。
その仕草に、教室中が笑いに包まれた。ユータも、ジュンイチも笑っている。
「流石シオリさん。ケースケも呆れるオチをつけてくれたぜ」
ユータが呆れたように笑う。
「サクライくん、カッコ悪―い」
クラスの女子が口々にそう言う。
「……」
確かに今の僕は、すごくカッコ悪い。皆にとって当たり前の事をシラなすぎて、自分ひとりでは何も出来ない。
でも、今の僕の周りは、こうして笑顔、笑い声が溢れている。
僕一人の存在が、皆を笑顔にさせているわけではないけれど。
今までこんなに、誰かの笑い声に包まれた世界を見たことはなかった。
それに触れた時、こういうのも悪くない、と思えた。昔はこんなものに、何も価値などないと思っていたのに。
それに気付かせてくれたのは、他でもない、僕を優しく包んでくれた、シオリのあの笑顔だった。
シオリの笑顔を見て、自分は誰かの笑顔を見るのが好きなのだと思った。誰かを笑顔にさせるためなら、少しくらいカッコ悪くてもいい。それが大切な人なら、僕は道化になったっていいと、そう思えるようになった。
だから今は、この笑顔を守り抜ける力が欲しい。
それが僕のこれからの闘いだということもわかっていた。あとはそれを、どう形にすればいいかを詰めていければ……
「いててててて!」
そんな思いが、両腕に走る痛みにかき消される。
「この野郎! 受験生が学校のヒロインとラブコメってんじゃねぇ!」
「公約違反の罰だ! 受け取れぇ!」
僕はユータとジュンイチから、腕ひしぎをかけられる。
「いてててて! ギブギブギブギブ!」
そんなわけで、僕は今でも個とあるごとに、シオリには手を出さないという公約違反を、学校の男子から突っ込まれては、肩身の狭い思いをしている。
それも悩みの種だけど、今回の悩みはそんなことではない。