Squirm
「……」
深い溜息が出た。
「楽しいわけないだろう」
僕は親父を逆に睨みつける。
「実に不快だ。お前等みたいなクズ相手にこんな不毛な事をやっているのがな。叩かれた場所の鈍痛、お前等の獣同然の不満の叫び声、知性のない言葉、全てが癇に障る」
「あぁ?」
「お前等はもう何年も、僕を相手にこんな事をしていたんだな。何故お前等はこんな胸糞の悪い事を、何年も、何も感じられずに続けられるのか、理解に苦しむよ」
「テメエ!」
親父は僕の胸倉を掴み、僕の体を自分に引き寄せた。
「……」
以前ならこうされると、僕の体は幼い頃からのトラウマで震え出し、動けなくなってしまったんだ。そうなると、もう家族のサンドバッグ状態だった。
だけど――
「殴れよ。殴りたければ殴れ。一発ごとにお前を取り巻く状況はどんどん悪くなる。僕は殴られても痛みはいずれ消えるが、お前等の痛みは死ぬまで消えない。僕がこれからも名を上げることで、その痛みはこれからますます強くなるんだ」
「……!」
親父の鉄拳が、僕の腹に入った。僕はその衝撃で後ずさる。
何度か咳き込むが、腹に来る事は分かっていた。あらかじめ力を入れていたから、体重100キロ超の親父の拳も、何とか持ちこたえる。
「そうだ。そうやって暴力を振るっていることがばれるのが恐いから、もう目立たない場所しか殴れないんだ。お前等はもう、この家の中でも好き勝手することが出来なくなった。お前達の憂さを完全に晴らせる場なんて、もうどこにもない。お前等は、今の痛みを和らげる術すら失ったんだ」
僕はゆっくりとした口調で、そう言い捨てながら、立ち上がる。
「挙句、あれだけ汚物扱いしていた僕の名前に便乗して、取材で心にもない事を言い続ける。他人の褌で相撲を取るのは結構だが、もう少し恥を知ったらどうだ? いつかそんな虚栄は、刃になってお前達に返っていくぞ」
「黙れ!」
親父は叫ぶ。
親父の顔は、怒りと屈辱にまみれた顔をしていた。だが、その顔を見て、優越感などを覚えることもない。
僕は自分の気を落ち着けるためにも、ひとつ溜息をつく。
「僕はもう、腐りたくないんだ。貴様等をからかって優越感に浸るなんて事を覚えたら、僕も貴様等と同じゴミになってしまう」
「……」
「安心しろ。この数ヶ月の、貴様らのみっともない姿を見て、もう僕の気は済んだ。貴様等が僕にしてきたこと、誰も言わないでやるから、もうこれからはひっそりと生きていくがいい。僕はお前等から何も奪う気も、干渉する気もない。だからもう僕から何も奪うな。あと1年で関係は終わる。今回の数学オリンピック金メダル受賞で、僕は国からの奨学金審査に合格することは確実になったんだ。僕はその金で国立に通いながら、安い下宿で1人暮らしをする。そうしたら僕と貴様らの道は二度と交わることはないんだ。それでいいだろう」
そう僕は言った。けれど。
「言ったな? じゃあ出て行け! 大学と言わず、今すぐ荷物をまとめて、ここから出て行け!」
親父はその言葉尻を取って、僕を少しでも困らせたいのか、そう言った。
僕はふっと、含み笑いを浮かべる。
「わかってないね。お前、僕をこの家から追い出したら、マスコミになんて説明する気だ? 世間体を気にするお前等が、僕を勘当した、と言えるとは思えないし、納得できる理由もなく追い出したら、お前等、日本中の批判の的になるぞ」
「くっ……」
「勿論貴様等がどんな形でもいい、アパートでもあてがってくれれば格好もつくが、それをしたら、貴様らが僕を自慢の息子だと方々で言っている以上、このタイミングで家から追い出したとしたら、マスコミは僕達の関係を不審がる。いずれ貴様等の正体もばれるぜ」
「……」
「言っておくが、僕は譲歩してやっているんだ。お互い今は嫌でも一緒に住んでいる方が、お互いの、特にそっちのメリットがでかいんだよ。僕も自分の周りが騒がしくなるのは好ましくないしな」
「……」
譲歩してやっている――
それはそうなのだ。家族は、今更ながら、今の自分達を取り巻く環境が最悪なことは分かっているだろうし、その気になれば僕の一言で、この家族の人生を全て終わらせられることも、理解しているだろう。
だが、それでも僕が甘いからか、状況判断ができない馬鹿なのかはわからないが、こうしていまだに僕に対して不遜な態度を取ろうとする。今更僕に頭を下げるなんてことは出来ないのだ。
こういう態度を取られると、自分にも多少の被害が来ても、こいつ等に実力行使をしてやろうかとも思う。
でも、もうそんな事をしても仕方がない。
もう、この家族、この家は、僕の中では既に通り過ぎた場所だ。
それでいいじゃないか、と思う。
それに、僕はもう、そうして今までの恨みを晴らすべく、この家族を痛めつけ、また昔の、負の螺旋に戻る事を心から拒んでいた。
それに立ち戻りそうな時、いつも僕の脳裏に、シオリや、ユータ、ジュンイチ達の顔が浮かぶ。
僕はあいつらに恥じない男にならなくてはいけない。そのためにすべきことは、こんなことではないのだと思うと、あいつらの顔が浮かぶ度に、自制が効くようになった。
「ケーちゃん」
ふと背後から、僕を呼ぶ猫なで声がした。
後ろを振り返ると、茶封筒を持った祖母が立っていた。
「何だ?」
一応僕は訊く。
「ケーちゃん、海外で随分頑張ってきたのね。全く、おばあちゃんも鼻が高いわ。だからこれ、ご褒美のお小遣いよ」
そう言って、茶封筒を僕の前に差し出した。
「……」
これだけ見れば、実によいお婆さんのように見えるかもしれない。
だが、本来この婆さんはとんでもなくケチな人間で、僕は生まれてこの方、一度もこの婆さんからお小遣いなるものをもらったことがなかった。お年玉さえくれない婆さんなのだ。
そんな婆さんが、今更僕に小遣いをくれると言うのだ――
僕は婆さんの手から、茶封筒を払いのけていた。僕に払われた茶封筒は、ひらひらと空を舞って、脇に落ちた。
「あ……」
「そうして僕に恩を売って、これから僕が稼ぐであろう金のおこぼれに預かろうって腹か? なめられたものだな、僕を金で飼いならせると思ったのか?」
僕は目の前の老婆を、軽蔑の念を込めて睨む。そして脇に落ちた茶封筒をかがんで掴むと、そのまま老婆の胸に投げ付けた。
「こんな金を受け取れるか! これを持って、僕の前から消えろ!」
僕は今日、初めて家族に大喝した。
「ひぃぃ……」
老婆は封筒を握り締め、そそくさと自分の部屋に戻ってしまう。この状況で本当に封筒を大事そうに抱えて去るあたり、性根の底からケチだと思う。
「……」
老婆の去っていく後姿を見つめながら、僕は思う。
この家は腐っている。
僕も以前はその一部だった。
だが、もう今は違う。それに、もう僕自身、この家族を立て直してやろうなんて殊勝な考えも持っていない。
もう、全て終わった。
もう、この家族と僕との関係も、完全に終わった。
今ではこの家族のやること、なすことが、蠢動としか感じられない。
だからもう、それでいいと思う。叩き潰しても、何の意味もないと思えた。。
残り1年、我慢の日々は残っているけれど――
僕の悩みは、今では家族のことではない。