Umbrella
「……」
そうか、そういうものか。僕なんか人と喋らなくてもいられてしまうけれど、人はそうじゃないんだ。僕が一方的に彼女を避けたけど、それを彼女がどう捉えたかということを、今まで考えたことがなかったから、そういう気持ちに気付かなかった。
ただ人と話すのが苦手な僕でも、彼女がこうして久々に僕と話したということを覚えてくれた、そしてこの曇った表情――それだけで彼女に対して、不憫な気持ちが胸を満たした。それは普段あからさまに彼女を避けている僕自身の罪悪感も含まれていたのかも知れないけれど、こんな時くらい彼女に気の効いた台詞のひとつでもかけてやりたかった。
だけど、考えているうちに彼女はレジカウンターに商品を置いていた。冬限定のムースチョコのポッキーだ。彼女は限定版を試すということは、かなりの甘党であると思った。
「これ奢るよ」
「え?」
鞄から財布を出しかけていた彼女は目を丸くした。
「テープでいいだろ」
僕はセロテープをバーコードに貼って、彼女の前に差し出した。彼女は少し迷ったようにそれを受け取った。
「そんな顔するなよ。いつもプリント届けてくれたりしてくれてるし、たまにはな」
何言ってるんだか。これが彼女への思いやりだとしたら、150円出すのが思いやりか。押し付けがましいにも程がある。
案の定、彼女は怪訝な表情で僕を見ている。しかし、嫌悪感を表しているというよりは、戸惑っている顔だ。彼女だって僕と話すのが久しぶりで、若干困惑しているようだ。
「……」
沈黙。
「別に僕は君の事を嫌いなわけじゃないさ」
慣れないことをして招いた沈黙にじれて、わけのわからない言葉が口から漏れた。どうしよう、立て直さねばならない。
「その、僕は単に気分屋なだけでさ。あの、人と話すのも得意じゃないし……」
後半の声は、消えるようにか細くなった。普段ほとんど人と話さないため、僕の語彙ではアドリブで話すには、ワン・センテンスが限界なのだ。
「とにかく、僕のことを気にするのは時間の無駄ってこと」
人と話すのが苦手な僕は、強制的に話を完結させる術を身につけた。僕はよくこの手を使う。そしてこの手を使うと、慣れないことを無理にやった反動が心を覆うのだ。
自然と伏目がちになる僕を、彼女の安心した笑顔が見つめていた。
沈黙。
「あ、雨……」
「え?」
彼女に言われ僕は外を見る。いきなりの大雨だ。店の横、ガラス越しに見える雨樋の端から、既に水がじゃぶじゃぶと水道をひねったように溢れ出ている。このあたりの瓦屋根を模倣したと言っても、サッシ製の瓦屋根には雨の打ちつける音はぱらぱらとよく響いた。
「――雨か」
「……」
五秒。
僕は黙って店の裏へ行き、傘立ての、客の忘れ物として大量にストックしてある中で、一番状態のよさそうなビニール傘を引っ張り出して来る。そしてまた店に戻り、カウンターを出て、レジの前で立ち尽くす彼女に差し出した。
「持っていきな」
「え? いいの」
彼女は目を少し見開くように、そして僕の顔を見る。
「あぁ、裏にいっぱいあるんだ。このままあっても埃かぶって使えなくなるだけだ」
「でも……コンビニって傘も売るんでしょ? タダであげたりなんかしたら、店長さんとかに怒られるんじゃ……」
「風邪をひくな、と僕に言ったのは君だろ」
僕は彼女の言葉を遮った。
「じゃあもし君が金を持っていなかったら、この雨の中、僕は持たせる傘があるのにそれを渡さずに君を外に放り出すことになるだろ。その時僕はなんて言って君を見送ればいい」
「……」
「それに君に風邪をひかせて治療費を払うよりも、傘を奢った方が安いからな」
「……」
彼女も僕の目をじっと見ていた。
また沈黙。
「――すまない。こんな言い方しか出来なくて」
あぁ、何でこんな――言いたいことは、こんなことじゃないはずなのに。
はぁ、と、僕は反射的に左手で後頭部をかいた。
「……」
ざぁぁぁぁぁ、と、屋根を叩く雨音。僕は傘を差し出したまま、コンビニ内にエンドレスに流れるDJ放送と、雨音に包まれて、僕達はまるで世界に取り残されたように固まっていた。
「――ありがとう」
柔らかな女の子の声がした。僕は顔を上げる。
差し出した傘の柄を、マツオカ・シオリが握り、笑顔を見せていた……
けど――
眦から、ぽろぽろと涙がこぼれていた。安堵したように微笑みながら。
「おい……」
目の前の光景が理解できず、僕はただ、声を漏らすしかできなかった。
「……ごめんなさい。なんか、安心したら急に……えへへ」
「……」
そうか、僕は彼女を拒絶したことに理由があって、その理由に彼女は関係のないままで。でも彼女はその理由がわからないまま僕に拒絶されていたんだ。
そんなことをされた気分はどんなものだろう。今まで考えたこともなかった。
もしかしたら、彼女はコンビニに入ってきた時点で、不安でいっぱいだったのだろう。僕の存在に気付いて、逃げ出したかったかもしれないが、彼女の性格だから、僕を拒絶したら、僕が傷つくと思ってしなかったのだろう。学校で「ああ」か「何か用か?」しか言わないクラスメイトと、こんな店で二人きりなんて、本当なら逃げたくてしょうがなかっただろうに。
例えば僕が、理由もわからないままユータ達から拒絶を受けたら……
――ダメだ。僕は一人でいることがあまり苦痛じゃないから、そんな苦しみはリアルに想像できない。
でも……
嫌な気分になることは確かだ。自分が何をしたか、疑心暗鬼に陥るだろう。謝ろうにも、そんなチャンスすら与えられず、いつまでも心に痛みが残るんだ。それくらいのことは、僕にだってわかる。
僕は彼女の泣き顔をみて、息をつきながら、不思議と穏やかな気持ちを感じていた。
「――僕には君がわからないよ」
「え?」
彼女は涙を手で拭って、顔を上げた。
「そんな泣き虫なのに、何で成績学年トップだなんてタフなことができるのかってな」
そう言って、僕は自分のポケットからポケットティッシュを取り出し、一枚出して彼女に渡す。
「ハンカチなんて気の利いたもの、持ってないからな」
僕が言うと、シオリは本当に可笑しそうに、まだ目に涙を残したまま笑うのだった。