Cherry-Blossom
山を降り、僕はシオリを自転車の後ろに乗せ、自転車を走らせる。
「どこへ行くの?」
後ろで僕にしがみついたまま、シオリは僕に訊いた。
「行ってからのお楽しみだ」
あの廃倉庫のある小山も、町の郊外にあったけれど、自転車は、更に郊外へ向かう。人気がどんどん少なくなり、街灯だけが照らす道は、車も人も全然通っていない。
閑静な街を抜け、大きな神社を横切って……
僕は自転車を止めた。
「はい、到着」
「わぁ……」
シオリは息を呑む。
そこは、川原だった。
川べりは舗装されてなく、幅4、5メートルほどの川の両端には、川に沿うように桜並木が続いている。桜は満開で、木に沿ってくくりつけられた、色とりどりの提灯が、夜桜と川を照らして、川の水面にも、桃色の桜が反射する。そして川べりには、春の菜の花が一面に黄色く咲き誇り、川べりを彩っている。
桜の淡い桃色と、菜の花の鮮やかな黄色、そして何色にもなる提灯の色とりどりの光が、全て川面に反射して、あたりは昼のように明るく、また、幻想的な美しさに溢れていた。
「すごい……」
シオリは呆然としながら、そこに立ち尽くす。
それは、大袈裟に言えば、世界の春の名画のいいところを全て集めたような、そんな春の美しさに溢れた景色だった。
僕は呆然とするシオリの頭に、ぽんと手を乗せる。シオリは頭に乗る手を見上げる。
「約束しただろ?」
僕は軽く頭を撫でる。
「春になれば、二人で桜を見に行くって」
「あ……」
シオリは思い出したようだ。
雪の降る日に、そう約束した。僕達は、そうした時間を重ね、共有しながら、少しでもお互いの事を、わかり合えたらいいね、と。
「しかし、咲いていてよかった――今日海外から帰ってきて、まだ日本で桜が咲いているか自信なかったんだけれど」
僕は苦笑いを浮かべる。それを見て、シオリは少し安心したように微笑む。
こんなに綺麗な夜桜なのに、川べりにはほとんど人がいない。ここは駅からも遠いし、車を近くに止められる場所もない。何よりこんな郊外の寂しい場所に、こんな桜があること自体が知られていない。だから人目を気にしないで、一緒にいるには都合のいい場所だた。
僕達は、空いている場所を探して、川べりの草の上に腰掛ける。
「何もないけれど、倉庫からくすねてきたんだ」
僕は自分の学校用の鞄から、紙コップ二つと、ソーダを取り出し、紙コップに注いで、シオリに手渡した。
色気もないけど、紙コップに桜の花びらを浮かべて、乾杯した。
「はぁ」
僕はソーダを軽くあおると、息をつく。
「さすがに長丁場が終わって疲れたな――連日数字や数式とにらめっこしてたし」
こんなきれいな景色を見ながら、僕はようやく帰国して、自由のみになれた開放感にどっぷりと浸っていた。
「……」
まるで桃源郷のように、綺麗な景色だ。まるで景色に溶け込むように、彼女の華奢な体が、桜の桃色と、菜の花の黄色、草花の緑が、提灯の光で川面に幾重にも反射され、彼女の姿も色とりどりに照らす。
僕は、そんな彼女のあでやかな姿に、しばらく目を奪われていたように思う。
ぼうっとしていて、目の前の彼女が、そんな僕を見つめている時がつくまでに、数秒かかった。
「あなたは……」
そして、シオリが口を開いた。
「最近、言葉や表情が、本当に穏やかになったね。屋上でお弁当を食べていた時、サッカーをしている時、あの倉庫でギターを弾いて、歌っていた時、そして今も――」
「……」
「きっと――エンドウくん達はずっと前から、あなたは本当は、そんな人なんだって、見抜いていたんじゃないかな。あの二人が慕っていたのは、昔のあなたが心の奥底に封じ込めていた、今のあなただったんじゃないかって、最近、よく思うの」
「……」
沈黙。
僕は紙コップを脇に置いて、座ったまま後ろに手をついて、桜を見上げた。
「まだ17歳なのに、人生知ったような事を言うと思うかもしれないけれど」
これから言うことが、地に足がついていないものになるかもしれなかったので、僕は先にそう言って、保険をかけておく。
「君とこうして一緒にいられるようになって3ヶ月、僕は初めて幸せと言うものがどんなものなのか、何となく分かったような気がしたよ。そしてその気持ちを知ってから、僕は他にも色々なことが――まだ完全に分かるとは言えないかも知れないけれど、少しだけ感じ取ることは出来るようになったと思う。心の余裕も出来たし、色々な事を考えた。君のことや、他の回りにいる人のこと、自分のこと、将来のこと――」
僕は自分の左手の掌を体の前で開き、それを見つめる。
「ずっと昔から、自分は大抵のことはなんでも出来る力があると思っていた。でも、こうして君と一緒にいて、こんなささやかな時間を守ることが、なんて難しいことなんだと痛感した。君とのこんな暮らしも満足に守れやしない。それが僕の精一杯のところだったんだと。そして、誰もがそんなささやかな幸せを守るために、必死で戦っている人が沢山いるんだということも、思い知った」
「……」
「それを痛感して、思ったんだ。僕が今持っている力は、勝ち取ったり、誰かから奪い取ったり、そんな一部分にだけ特化した力だったんだということ。これから僕は、この力を、何かから奪うんじゃなく、守る力に変えなくちゃいけないんだ、と。そのために、もっと他人と接することや、自分が今まで見向きもしなかったことに目を向けて、それを通じて何かを学ぶことが必要だと思った。だから、大学に行こうと、はっきり決めたし、数学オリンピックなんてものに挑戦もして、触れたことのなかったものに挑戦してみたり、海外の風を感じてみたり、経験したことのないことにチャレンジしてみたんだ」
「うん……」
僕の隣に座るシオリは、視線を川面に移す。
「あなたは――さっき、自分の将来のことも考えたと言ったけれど、その決断は、自分の将来を見越してのことなの?」
しばらくして、シオリは僕の横顔を覗き込んだ。
「ああ」
僕は頭上の桜を見上げる。
「僕はこれから、この力を、人を守れる力に変えていくために、もっと色んな事を学んだり、沢山の人に会ったり、色んなものを見て回ったりしてみたい。そしてそれができるようになったら、どこまで出来るか、何ができるか今はわからないけれど――できれば多くの人の幸せを守るために頑張っていきたいと思っている。君がそうして、僕を救ってくれたみたいに。同じ事を僕も誰かにしてあげたいと思う。そう強く思うようになった」
「……」
「そうすることが出来れば、今まで憎しみだけで磨き上げたこの力も、少しは救われる――それに、それができれば、今まで散々迷惑をかけた君や、ユータやジュンイチ達に報いることができると思うんだ」
そう、それがこの3ヶ月、自分や、色々なものと向き合って出した、僕なりの答えだった。
周りは今の僕の事を、「天才」とか「臥龍」とか騒ぎ立てているけれど、僕自身はこの3ヶ月、自分の未熟さ、そして、自分が今まで力にばかり固執して、見向きもしなかったことの大切さを、何度も思い知らされていた。
プロや日本代表のオファーを蹴り続けているのも、メディアにあまり露出をしないのも、そんな未熟な自分が、表舞台にに経って何かをするのは滑稽で、まだ時期尚早のように思えてならなかったからだ。まだ僕は、人前で何かを言うには、もっと色んな事を学ばなければならない。そんな思いが、常に僕の心の中にあったからだ。
未熟な僕は、とりあえず今までの人生で培った力はあるけれど、これは僕の怒りや憎しみが生み出してしまった、呪われたものだ。
僕自身は、そんな自分を変えてみたかった。
こんな呪われた力しか持っていない僕だけれど――
そんな僕が、誰かのために、この力を使えるのなら――
そんな考えが、最近、ひどく僕を駆り立てるようになった。
それが最近、今まで無意味な人生を送ってきた僕の、生まれて初めての、生きる意味になり始めていた。
生きる意味が見つかったことで、僕の力の理論に凝り固まった世界観は、一気に変貌したし、毎日が充実した、実のあるものへと変わっていった。
「そんな――もうそんなこと考えなくていいのに。私も、多分エンドウくん達も、あなたにそんな、報いるとか、そういうことは考えてないわ。そんなに無理しなくても……」
「いや、それだけじゃないんだ」
僕は視線を戻し、隣のシオリの目をしっかりと見る。
「もし僕が、そうして多くの人の幸せを守り、笑顔にすることができたのだとしたら、その時僕は、君に相応しい男になれているような、そんな気がするんだ」
「……」
「そして、その時には、僕は君を心から笑顔にさせることが出来ていると思うから――」