Spring
――春になった。
コペンハーゲンで行われた国際数学オリンピックは、日本は団体では5位だったが、僕は満点で金メダリストにも輝いた。
帰国すると、僕の周りの慌しさは、その勢いを増すばかりだった。
数学オリンピックを制し、今後フィールズ賞を狙うだろうと報道は伝えたが、僕はその可能性は大学まで保留することにしていた。
僕は進学するとしたら、学費の安い文系志望だから、大学で数学を専門にする気はなかったからだ。
ただ、選択肢の一つとしては考えてみようとは思う。とりあえず今は、長丁場も終わり、少しゆっくりしたかった。
――「ふあぁ……いい天気だなぁ」
ジュンイチは大欠伸をして、空を見上げた。雲がゆっくりと右から左へと流れていく。
「春になって、やっとこうして弁当が食えるようになったな。これから毎日こうして食おうぜ」
ユータが弁当の卵焼きに箸を伸ばす。
「誰も花粉症にならなければな……」
僕が冷静に突っ込みを入れる。
「あ……私、ちょっと自信ない」
一人の女の子が手を上げた。
「まあ、そうなったらそうなったで、また考えようよ」
シオリがうまく場をまとめた。
僕達は屋上にシートを敷いて、そこに弁当を並べ、各々におかずを取って食べていた。弁当は全て、ユータに送られた差し入れだ。元々弁当をよくもらっていたユータだが、最近では常に10個以上の弁当が来る。だからみんなこうして処理を手伝うという口実の下、食費を浮かせているというわけだ。
そして、シオリの隣にいる女の子――彼女は、ジュンイチの今の恋人である、チアリーディング部の部長である。名前をナカガワ・マイといった。
全国大会の決勝戦、僕達は敗れはしたものの、延長戦までもつれ込んだ。
決勝戦は雨で、相手は長崎県の優勝候補、三國高校だった。
僕達にとって、強豪校相手に雨というコンディションは、経験の差が激しく出るために、序盤から押されっぱなしだった。前半で2点ビハインドをもらってしまったのだった。
しかし、後半は壮絶な打ち合いとなった。守りもそっちのけで攻めたことで、いつの間にか5‐4という、すさまじい乱戦となった。
1点負けている試合で、ロスタイムに僕のコーナーキックをヘディングでゴールに押し込んだのが、ジュンイチだった。ゴールを決めて、埼玉高校スタンドに向けて歓喜するジュンイチを見て、彼女は一瞬で恋に落ちてしまったらしい。でも今ではどちらかと言うと、ジュンイチの方が彼女にべったりで、両想いの仲むつまじいカップルである。
「ふあぁ……」
僕はさっきから、涙で目をしょぼしょぼさせていた。
僕は今日の早朝、デンマークから帰国したばかりで、家にも帰らずに、羽田から埼玉高校に登校した。教師達は、「今日くらい休んでもいい」と言ってくれたのだけれど。
今日も学校で、帰国後初の記者会見があった。だから、一人だけワイシャツにネクタイを締めていた。
「眠そうだな、ケースケ」
ユータが言った。
「時差ボケだ……」
今にも寝そうだった。帰って早々、催眠術みたいな授業を受けてきたばかりだ。
デンマークの時差は8時間。今は午後1時だけど、昨日までこの時間は、早朝の5時だ。
「……いっそ殺してくれってくらい眠い」
「わかるなぁ……俺達もサウジから帰ってきて、まず苦しんだのは、時差だったな」
ユータがしみじみ頷く。
「ははは、しかし、前のお前なら、昼休みに眠ければ、お構いなしに寝てたのにな」
ジュンイチが口に飯を含みながら、快活に笑う。
「どんな心境の変化だ? 頑張るじゃないか」
「……」
僕も弁当の一つのミートボールに箸を伸ばし、口に放り込む。
「んまい……」
10日ぶりの日本の飯は、懐かしい味がした。デンマークの飯も美味かったけど、やっぱり故郷の飯は最高だ。
「なんかサクライくんって、眠そうにしてると、癒し系だよね」
マイが言った。
「なんか、縁側でひなたぼっこしてる猫みたい」
「……」
僕以外の4人が、くすくす笑った。
「でも、半年前ならもっと猫っぽかったかもな」
ユータが言った。
「ケースケくん、急激に背が伸びたもんね」
シオリが僕の体をざっと見て、言った。
そう、身長165センチだった僕は、年が明けてから急激に背が伸び、今では172センチまで伸びた。
前は、シオリを抱きしめると、シオリの頭は肩くらいの位置に収まったけど、今は胸の中に納まるようになった。
中国に、纏足というものがある。中国では、女性は小さな足が美しいとされ、決行を抑制することで、足の成長を止めるというやり方だ。
僕もそうだったのかもしれない。心の枷が外れたことで、体までも再生をはじめたという感じだ。
「おかげで常に体痛い……関節ギシギシする」
「4ヶ月で7センチも伸びたら、そりゃ体痛いだろうなぁ」
ユータは185センチある。経験則から痛みをわかってくれたようだ。
「ま、よく寝たら、デンマークの思い出でも語ってくれよ」
ジュンイチが言った。
「うん」
ジュンイチ達も、サウジの思い出を語れるようになったのは、帰国して3日後だった。試合の疲れと時差ボケのダブルパンチで、帰国してからは、昼寝に定評がある僕のお株を奪うほど寝ていたし。
「ここからなら、学校だけじゃなく、街中の桜が見られるんだね」
マイは鉄柵越しに外の景色を見渡す。
「まったく、お前、普段こんないい場所で授業サボってたなんて知らなかったぞ」
「しかも合鍵まで作って持ってたとはな。屋上はどの生徒も入れないのに、さすがケースケ、抜け目ないぜ」
「昼寝用の布団と枕もあるよ」
「マジかよ!」
「嘘に決まってるだろう……」
そんなやり取りを見て、マイとシオリは微笑んでいる。本当に幸せそうな顔で。ジュンイチはそんな彼女を見て、また微笑むのであった。
「……」
正直なところ、僕はこの二人を見るたびに、心底幸せになってほしいと思う半面で、焦りさえ覚える。
僕とジュンイチが彼女を持ったのはほぼ同時期だけど、僕はまだシオリと満足にデートさえ出来ていなかった。
付き合ってすぐ全国大会があって、僕は大会後に怪我で満足に動けない上、二月になると僕の周りはマスコミの取材攻勢で、満足に外へも出られなかったし、数学オリンピック関係で外に出張ることも多かった。
やがてテストが始まり、それが終わって春休みには、僕はほとんどコペンハーゲンという、カッコいい名前の街にいた。昨日帰国した僕は、いまだに報道陣に囲まれ、学校と家の往復さえもしんどい生活を送っている。
二人きりになれる時間が少なく、あったとしても見つかれば、彼女を週刊誌に載せてしまう。まだ未成年として、僕は彼女に被害が及ばない付き合い方を模索している。
こんな僕でも、携帯電話を買った。
それで、彼女と夜に電話で連絡を取るだけが、二人きりの時間――
一線を越えるなんて勿論、キスだってしていない。お互い、人に横たわって生きたことがなく、甘えるのが下手で――不器用故に、なかなか上手くいかない。
それだけでもう3ヶ月が過ぎているのだ。