寮への帰路
「では、これにて本日の訓練を終了する。この後は各自、寮に戻って担当者の指示を待つこと。では、解散!」
地獄を終えてへろへろになったわたし達に、上官が言う。
『担当者』というのは、自分に対して相部屋になっている上官のことである。各部屋に一人ずつ、その部屋の担当者がいるということだ。わたしの部屋における、日倭さんのことである。
「うう、まだ痛い…」
「我慢してください」
「我慢しろ」
寮までの帰り道、梨乃ちゃんと日倭さんが、わたしに対する何の配慮も無く、無慈悲にそう言い放った。確かにわたしの肉体は怪我をしないっぽいけれど、それでも我慢すればいいという問題なのかね?痛みのせいで心を病んだりしないのかね?日倭さんは、『そんなことはあんまりない』って言っていたけれど…
『あんまり』ってなんだよ。
「よう篠守。異能の訓練中、ずっと周りに本能的な危機感を持たせてくれてたな。おかげで緊張感が持てたわ、ありがとよ」
後ろからわたしの横まで歩いてきた馬垣くんが、発言の内容に反してニヤニヤと笑みを浮かべながら、話しかけてきた。
「悲鳴を上げていたことを遠回しに言っても無駄よ、馬垣くん。そしてあなた、緊張感どころか、笑っていたじゃない」
「いやぁ?記憶に無いね。さあて何のことやら。確かに、膝が笑うくらいには足が疲れているがよ。くくく」
それを笑いながら言いやがる。
隠そうともしてねえ。
「わたしのほうこそ、馬垣くんには本当に感謝しているわ、もう虫唾が走るくらいに。わたしのためだけに、融かした金属を水に入れてぬるま湯にしてくれたわよね?お陰様で、わたしは大変痛い思いをすることになったわよ」
「礼には及ばないね。俺がやりたくてやったんだ」
「これからは馬垣くんのこと、給湯係って呼ぶことにしようかしら。ちょうど、髪の毛も紅茶っぽい色してるし」
「あ?俺の髪が何だって?もういっぺん言ってみろ」
「?」
突然、ドスの効いた低い声で問い詰めてくる馬垣くんだったが、何だろう、自分の髪の色にコンプレックスでもあるのだろうか。
「豪奢っぽい色って言ったのよ」
「言ってねえんだよ。つーか何だよ『豪奢っぽい』って。豪奢だと言い切れよ」
怯んだわたしは咄嗟に自分の発言をすり替えてみたが、効果は無かった。
「やれやれ、まあ俺の髪の色とかは何でも良いけどよ、まあ真面目に言うなら、お前も大変だよなあ篠守?」
「その真面目な本音を最初に言って欲しいわね。いやもう、本当に大変よ。こんなのがいつまで続くのかなんて、考えたくもないわね。まあ、不幸っていう程でもないけれど」
「そんなところだろうな。不幸と苦痛は違えし」
「え、そうなの?」
「ん、ああいや、適当に言ったけど」
適当に言ったんかい。
「わかんなくなってきたけれど、そう言えば幸せって何なのかしらね?梨乃ちゃん」
「急に振ってきましたね、私に。変態的なくらい唐突に。幸せとは何かという哲学的な問いですか?個人的に、それなりの説得力があるように思っているのは、『自分が幸せかどうかを意識していない状態が幸せだ』という考え方ですが」
梨乃ちゃんが言う。わたしの唐突な振りにも流れるように受け答えるその対応力は、流石である。
「若い頃を振り返ってみた時に、『当時は忙しくて思わなかったけれど、実はあの頃は幸せだったんだな』という風な感想を持つ人間は少なくないようです」
「んー、紫野の言い分には、俺は賛成しかねるな」
と、しかし今度は馬垣くんがそう言った。
否定から入って嫌われるタイプだ。
「そこまで否定というような否定ではないだろ。俺に対するネガティブキャンペーンをやめろ。ともかく、幸せってのが主観的なものなのか客観的なものなのかという解釈次第ではあるんだけど、梨乃の言う幸せってのは結局、『あの頃は主観では幸せじゃなかったけど、今改めて振り返って客観的に評価するなら幸せだった』っていうことだろ?」
「ふむふむ」
「でも、俺は幸せが主観的なものだと思ってるからな。『あの頃はそう思わなかったけれど』の時点で、少なくともその当時のそいつにとっては、当時は幸せじゃなかったっつーことだろ。今の自分がもう一度当時の状況に立たされたら幸せになれる気がするぜっていうだけであって、例えば10年前の自分と今の自分じゃ、価値観も感性も全然違うんだから、やっぱり昔の自分にとっての幸せと今の自分にとってのそれとを分けて考えるべきだと、俺ぁ思うよ」
「なるほど。主観と客観ですか」
納得したように梨乃ちゃんが相槌を打ったけれど、それに対して納得しきれなかったわたしは訊いてみる。
「でもでも、馬垣くん、例えばカルト宗教とかに嵌まり込んで、洗脳やらマインドコントロールやらを受けて、それが幸せだと思い込まされながら搾取されて苦しい生活をせざるを得なくなっている人なんかはどうなるのよ?」
「お前なあ、どっちが否定から入って嫌われる奴なんだよ……、いや、そういうのはいくつかパターンが考えられるけど、当の本人が『幸せか幸せじゃないか』という概念を正確に理解した上で、本当に自分は幸せだと思っているのなら、それはそいつにとっては幸せなんじゃねーの?周りにとっては不幸に見えるってだけであってさ。まあ考え方次第では、例外は無いんじゃねーか?例えば本人が『幸せ』という概念を曲解していたりすると、客観的どころか主観的な幸せが何なのかすら分からなくなってんだろうけど、それはつまり自分の正しい主観で幸せかどうかを判断できていないだけだから、主観で幸せかどうかが決まるという考え方と矛盾はしない…と考えることはできる。あるいは自分の気持ちに嘘を吐いて、中身を伴わない『自分は幸せなんだ』という思い込みを持つようになってたら、それもつまりは自分の主観的な幸せを見失ってるってことだから、あながち例外でもないだろ」
「まあ、その辺りが屁理屈っぽくなってしまっているのは否めませんけれど……、第一、幸せなんて所詮は概念ですから、考え方次第ですよね」
「はっ、そうだな、わかっちゃいたことだが、最終的にはそういう結論が出ちゃうよな」
三人寄れば文殊の知恵とは言うが、わたし達三人が最終的に出した結論は、至って平凡だった。
平凡と言うより、普遍的と言うべきか。
だからこそ、そういう考え方が世間に広く受け容れられてありふれるのかも知れない。
「まあいいや、それじゃあ今日のところは精々、明日とかに来るであろう筋肉痛に怯えながら眠れよ」
「それは無理な相談ね。わたしの異能からして」
「ああ、そうだったか」
馬垣くんは残念そうな、本当に残念そうな表情を浮かべてから、話すことはもう無いという風な態度で(まさか私語はなるべく慎もうという真面目さが、こんなごろつきにあるとも思い難いし)、少し速歩きに切り替え、わたしの先をどんどんと歩いて行く形で去っていった。
後には、わたしの近くに梨乃ちゃんと日倭さんだけが残る形となり、元の状態に戻った訳だが。
そこから少し歩いた辺りで、わたしの隣を歩きながら何やら難しそうな顔をしていた梨乃ちゃんが、ふと口を開いた。
「んー……、事態は一刻を争うというのに、即戦力になれないというのは、仕方ないと解ってはいても歯痒いものですね」
独り言だろうか。多分独り言だろう。しかし寛大なわたしは、構って欲しそうな彼女に対して積極的に話しかける。
「どうしたの、梨乃ちゃん。真面目ぶって」
「真面目ぶっているのではなく、真面目ですよ私は。じゃなくて、その…確かに私はまだ未熟者ですが、ある程度は戦える筈なんですよ。それでもまだ現場には駆り出されないという点に、どうも民間人に対する申し訳なさを感じざるを得ないのです。今こうしている間にも、貪食獣に大勢が襲われているでしょうに」
「……まあね」
気持ちはわかる。わたしの場合は戦闘に向いているのか向いていないのかよく判らない異能を持っているからまだしも、梨乃ちゃんの異能は触れた物全てを切り裂く細い糸を操るというものだ。こんな明らかな戦闘向きの異能を持つ抵抗者は、即戦力として今すぐにでも貪食獣の討伐に向かうというのもアリなのかも知れない。
いやまあ、それは論理的に考えてみればナシなのかも知れないが、どうしようもない感情として、即戦力になれるのにさせてもらえず、そのせいでどんどん人が死んでいっているかのように思えてしまうというのは、例えわたしのような下衆であっても心苦しいものだろう。
そもそも『論理的に』とは言うが、その論理とはどういうことなのか?未熟な抵抗者を下手に現場に駆り出したがためにその抵抗者が殉職してしまうよりかは、しっかりと育て上げてから現場に駆り出した方が、育成の期間に死ぬ人命の数よりも、その抵抗者によって助かる人命の方が多い…なんていう風な、これは損得勘定なのだろうか?より多くの人命が助かれば良いという、功利主義なのだろうか?
もしもそうだとしたら…わたしはともかく、さっきはわたしも茶化したが、確かに真面目な性格の紫野梨乃にとっては、それは不本意だということなのだろう。
「えーと…」
その時、前を歩いていた日倭さんが徐に振り返って、何か言いたそうに梨乃ちゃんを見た。
ただ、わたしも忘れかけていたが、紫野梨乃には読心術がある。日倭さんも言葉をかけようかどうか迷っているという風だったが、梨乃ちゃんはそれより先に日倭さんの意思を察して、
「いえ、解っているのです。今私が言ったことは、ただそんな気がするというだけの話であって、実際に今すぐ現場に駆り出していただきたいと主張する訳ではないので、お構いなく」
と、日倭さんに向かって言った。
日倭さんはそれを受けて、「そうか…ならいい」とだけ答え、再び前を向いて歩き出そうとしたが、そこで顔が横を向いた辺りのタイミングで動きを止め、もう一度梨乃ちゃんに振り返って、軽い…あえて故意に軽くしたような口ぶりで、言った。
「感情と行動の分別を付けられるなら、お前は自信を持って良い。そのままで良い。葛藤している自分を否定しなくて良い。行動が合理的であって、そしてその上で不合理ながらも熱心な感情を抱いているお前は、最高に立派な人間なんだからな」
「……はい」
励ましに元気づけられたとか、自信を持ったとか、そういうわかりやすい反応を、紫野梨乃という女の子はしない。
ネガティブな観点からすれば、ともすると何かを諦めたような、悪い意味で何かを悟ったような……、しかし実際にはそうではないのだろう、ただ確かさを伴った声色で、梨乃ちゃんは日倭さんの励ましに応えた。