あとがき
『信頼とは何か』と言ったら、信用との違いはともかくとして、単純に解釈するならばそれは『未来の相手の行動や成果を未然に断定すること』なのでしょう。
この人はこれから、こうするだろう。あの人ならこういう場面で、こうするに違いない…と。
もしくは、『あの人ならこれができる』と。
言い方を変えるなら、そうならない可能性を考慮しないということですね。あるいは、そうなる前提で判断する、というだけの場合もあるでしょうけれど。
信頼とか信用とかっていう言葉はしばしば良い意味で使われると思いますけれど、そう考えてみると、悪い意味での信頼とか、悪い意味での信用というのもあるのではないかとも、個人的には思えてきます。結局、『こいつはこうするだろう』の『こう』の部分が自分に都合の良いことでなければ、いくらそう確信していたところでそれは信用ではないという考え方は、個人的にはどうも恣意的な感じがしてしまうのです。
『この人は必ず、自分にとって都合の悪いことをする』。もしそんな人がいたのだとして、もちろん嬉しくはないですけれど、どちらかと言えば嫌ですけれど、でもそれは、何をするかわからないよりかはマシなのであって、事によっては利用することもできる筈です。
行動が読めるのなら、その人を有効活用することもできる筈。馬鹿とハサミは使い様なのであって、毒をもって毒を制するように、まあ信じて頼ることはできずとも、信じて用いることくらいはできるのではないかと、個人的には思うのです。
要するに、『天国への道のパラドックス』で言うところの『必ず正直に答える天使』と『必ず嘘を答える天使』は、どちらも真実に対して決まりきった回答しかしないから、そういう意味ではどちらも正直なんだという話ですね。どちらも正直だから、どちらも正解を導き出すために利用できる。
なんだか腹黒い策士みたいなことを言っていますけれどね、我ながら。しかし、『利用する』なんて人聞きの悪い言い方はともかくとして、それが一方的な利用でなければ良いとも思うのですよ。お互いに意味やら利益やら、あるいは快感やら多幸感やら満足感やらを公平に与え合うのであれば、いくらでも利用し合ったら良いのです。
言葉を選ばない無粋な言い方だと思われるでしょうけれど、人間はお互いに利用し合って生きていくものですからね。
つまり彼ら、ADF長野県支部のメンバーは、たったの1週間程度一緒に過ごしただけで、中々に信じ合える関係になったということなのだと思います。
そんな訳で、強化人間シリーズの第二作、「強化人間の連係」でした。読後感として、恐らく読者の皆さんは『戦っている最中でも、登場人物の緊張感が無かった』と思っていらっしゃるかも知れませんが、緊張感が無かったのは主人公の久凪さんと、その緊張感の無さに巻き込まれた馬垣くんだけです。他の人達は至って真剣に、あるいは黄金剣に戦っていましたので、悪しからず。決して、コメディ色を強めようとし過ぎた訳ではありません。
それでは次回の第三作、「強化人間、砂人形」のほうも、どうぞよろしくお願いします。次回はなんかこう……ミステリーもどきになる予定です。
池潮遺跡




