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どうもこんにちは、稀代の悪女が水晶の中からお送り致します

作者: 猫乃真鶴


 どうも皆様初めまして。稀代の悪女、ベロニカ・ハルモニアです。……いえ、言いたい事は分かります。稀代の悪女と自称するのは何事か、と。ですが皆がわたくしの事をそう呼ぶものですから、これはもう自己紹介として含めなければと思ったのです。それ以外に自身を表現するものが、今のわたくしには無いものですから。

 ですが、一つだけ言わせてください。これ、そう呼ばれはしていますが、実際は冤罪なのです。

 でもそれを世間に発信することができません。


 なにしろわたくし、無色透明の水晶の中に、生きたまま保管されておりますので。


 身動きはできず、呼吸もしていませんが、生きていて意識もあるのです。

 ……どうしてこんな状況なのか、聞きたくありません? ありますわよね? そうですわよね。ええ、是非とも語らせてくださいまし。わたくしがいかにしてこのような状況になったのかを。

 あれはそう、六年前のことでした。




 当時十八歳であったわたくしは、王太子殿下の妃候補でした。候補、という言い方は本当は正しくないのですけれど。実質婚約者として、十二歳から妃教育を受けておりましたの。

 どうして候補、という状態のまま、十八までを過ごしていたかと言うと、それはわたくしの叔父のせいでした。


 わたくしの実家、ハルモニアは侯爵家です。母は先代の王の娘、それがハルモニア侯爵家へ降嫁しました。問題の叔父はこの母の実の弟。先王の末の息子は遅くに出来た子で、母とも歳が離れておりました。すでに王位は母の兄である方が継いでおりましたから、叔父の王位継承権はさほど高くありません。それが故にかなり自由な身でありました。彼は、錬金術という古の技術の研究をしていたのです。

 王族という身分であれば、金銭にもそれなりの余裕がございます。また彼の気質が合っていたのでしょう。誰もが到底不可能だと思っていた技術を、叔父はいくつか復活させたのです。

 今では王国内では第一人者として、その知識と技術は認められております。それだけであれば、わたくしも叔父を誇らしく思ったことでしょう。ですがわたくしと母は、手放しに褒めることが出来なかったのです。

 なぜならば……叔父はいわゆる「シスコン」であったからです。それも、かなり重度の。

 ……ここまで言えば、察しの良い方はお分かりになったんじゃありません? ええ、そうです。叔父は母に執着しておりました。そしてその想いは、母の娘であるわたくしにも向けられたのです。

 わたくしが言うのもなんですが、母はそれはそれは美しいんですのよ。豊かな金の髪はまっすぐ長く、きらきらと明かりにきらめきます。すっと通った鼻は高く、桃色の唇はいつも潤いを保ちぷるぷる。肌はもちろん陶器のように滑らかで白い。おしろいもほとんど不要でした。長い睫毛に囲まれた瞳は、誰もが称賛する宝石。海を閉じ込めたような深い色合いは、王家に伝わってきた青で間違いありません。母のきょうだい達は皆、この色を受け継いでおりました。

 そしてわたくしも、その色を受け継いだのです。それ以外のものも、すべて。幸か不幸か、わたくしは幼い頃の母に生き写しでした。

 父は、そんな事がなくても大喜びで溺愛してくださいました。ですが、母は憂い顔であったのを記憶しております。きっと母は分かっていたのですわ。叔父が、そんなわたくしを放っておくはずがない、と。

 一番古い記憶で、わたくしが覚えているのは、三つの時のものです。この頃のわたくしは、それはもう愛くるしかったのです。ええ、自信を持って言えますわ。だって、あのお母様の娘なのです。お人形のようだともっぱらの評判でした。

 お父様が開いてくださった誕生パーティーに、叔父も参加していたのです。……思えばこの時、お母様は絶対にわたくしの手を離そうとはしなかったから、きっと何かを感じていたのでしょうね。挨拶にやって来た叔父は、わたくしの手を取ると、「なんて可愛らしい」と言って、手の甲に口付けを落としたのです。

 普通ならば微笑ましい光景ですわね。けれども、わたくし感じたのです。その叔父の、瞳の奥にぎらりと光るなにかを。お母様もきっと同じなのでしょう、すぐにわたくしを抱き上げて、わたくしを叔父から引き離しました。

 連れないな姉様、なんて言っておりましたけれども、叔父の目は本気でした。ぎらぎらとした目で、ずっとわたくしの姿を追っていたのです。

 その頃から、本気でわたくしを手に入れようとしていたのでしょうね。持ち上がったわたくしへの縁談を、叔父はあの手この手で片っ端から潰したのです。

 無論それは表立ってのことではございませんわ。けれども、毎回相手方になにかしら問題が起きて、縁談が消滅するんですのよ。何があったのかと探りを入れるのは当然のことではなくて? 少し探れば、どれも自然とそうなったようには見えるけれども、その影には叔父の姿がちらついたのです。……誰が裏で手を引いているのか、完全にわからないようにすればいいものを、そうしなかったのはきっと、自分の存在をあえて見せたかったからなのでしょう。自分が関わっているのだと、叔父はそう言いたいようでした。

 それが異常なことであると、言いはしませんでしたが、わたくしも両親もそう思っておりました。

 わたくしが大きくなって、いよいよ本格的に将来の嫁ぎ先を見つけなければならなくなった頃。このままではいけない、とお母様はお父様に訴えかけました。お父様も、いずれ諦めると思っていた甘さを後悔されていました。お母様とお父様は、すでに王位を継いでいるお母様の兄——国王陛下に相談なさったのです。国王陛下からすると叔父は末の弟。歳の差はあれど兄弟のことですから、気にされていたのでしょう。すぐにご自身の息子との婚約を持ち出したのです。

 その時わたくしは十二。叔父は二十三歳でした。……叔父がどれだけおかしかったか、お分かりになりますでしょうか。

 国王陛下、王妃陛下、それからその他の親族の手によって、わたくしとお母様は極力叔父の目に触れないように行動することができるようになりました。妃教育が始まったのを皮切りに、王宮へ出入りするようになっても、ぱたりと叔父と会うことはなくなりました。

 けれども、それも束の間のことでした。叔父は会う相手を変えていたのですわ。

 叔父が会うようになった相手、それはわたくしの婚約者の王太子殿下。叔父は、甥にわたくしの事を言って聞かせていたのです。「あの子は僕と結婚するのに、君にも取り入っているんだよ」……と。

 王太子殿下は初め、馬鹿馬鹿しいと一蹴していたようです。でも、この時にはすでに国で錬金術師として認められていた叔父の言ったことですから、次第に耳を傾けていってしまったのでしょう。わたくしは教育で手一杯、叔父のことはなんとなく話題にしてはならないと思っていましたから、王太子殿下と叔父についての話をすることはございませんでした。国王陛下から王太子殿下に、それとなく話されている、と思い込んでいたのもあるでしょう。徹底的に避けていたのです。それが一年も経てば、王太子殿下はすっかり叔父の言うことを信じるようになってしまっていたのです。

 貴族の子女は十三になると、一同に学園へ通うことが義務付けられています。ここで三年間、貴族の義務と社交を学び、卒業後の生活に役立てるよう生活をするのです。ですがわたくしが入学する頃には、すでにとある噂が広がっていました。王太子殿下の婚約者は、多数の殿方に粉をかける節操の無い女である。そういう噂でした。

 ……誓って言いますけれども、わたくしそんな事一切しておりませんわ。そもそも毎日家と王宮を往復するだけの日々、やる事と言ったら勉強だけ。お茶会は、それ自体が学びの場です。男女問わずお話をする事は確かにありましたが、断じてそういう浮ついた場ではございませんでした。だって、常に教師役の方に見られているんですのよ? 見境なく男性の腕に手をかけた、色目を使った、なんて事すると思います? それも十二かそこらの子供がですわよ! ええ、していませんとも。わたくしそんな事していません!

 けれど、どうしてか、それが事実として社交界に広がっていたのです。わたくしは、日中の授業と、妃教育とで目まぐるしい生活を送っていたために、直接そういった話は聞かなかったのですけれど。それが良くなかったようなのです。噂を否定することもなかったのですから。次第にそれが事実として受け入れられてしまったのです。

 それを広げていたのは、王太子殿下でした。王太子殿下は叔父の言った事をそのまま周囲に漏らしていたようなのです。……わたくしと殿下の接点は最低限、定例となったお茶会だけ。叔父との接触を防ぐため、外出も最低限にしていたのが仇となったのでしょう。殿下が素っ気ないのは年頃のせいだと教育係に言われたことを、鵜呑みにしたわたくしも悪かったのです。せめて、もっと殿下とお話をして、手紙だってもっとやり取りしていれば、こんな事にはならなかったかもしれません。

 何事も無いように学園生活が送れたのは、ひとえに学友の皆様が分別がある方々だったから。そうでなければ早いうちに、わたくしは爪弾きにされていた事でしょう。

 それはただ単にわたくしが王太子の婚約者であったからかも知れません。ですが、三年という間は無事何事もなく過ぎていったのです。

 本来ならば卒業後、わたくしと殿下はすぐに結婚するはずでした。ですが、殿下がそれを拒んだのです。表向きは自らがまだ未熟であるため、それにわたくし以外の女性ともお付き合いをしてみて、知見を広げるためとの事でした。ですが実際は、叔父に聞かされ続けたことで、わたくしを嫌っていたせいなのです。殿下の中のわたくしは、少し目が合ったから、という理由で殿方を暗がりに誘い込むとんでもないふしだらな女、という事にされていたのです。

 ……なんですかそれ、そんな事をする女性がそこらにいるというのですか? というか、そもそもそんな事の為に王宮に通っていたわけではないのですが!? それにそんな暇があったら、資料のひとつでも目を通した方がよほど有意義でしてよ!

 そんな主張も、殿下には通りませんでした。洗脳、と言ってもいいのかもしれません。殿下はわたくしの言葉には耳を傾けてくれなかったのです。「叔父上がこう言っていたから」とそればかりでした。

 そんなわけで、わたくしは王太子殿下の「婚約者」から「妃候補」と呼ばれるようになったのです。おかしいですわよね、もうすでに王妃陛下より一部の公務を任されていたというのに。

 ……どうやら叔父はわたくしを()()()()にするつもりのようでした。王太子の婚約者から降ろされる。それは、わたくしになにかしらの不備があるということ。そんなわたくしを娶りたいと思う貴族男性はいません。そんな状態ならば、叔父でも手が出せると思ったのでしょう。年齢の差はさほど問題になりません。王家に連なる身であれば、親族であるということも問題視されません。

 それに黙っているお母様ではありませんでしたが、この頃お母様は心身共に弱っておいででした。心労によるものでしょう、わたくしの、まだ形のない弟か妹が流れて行き、酷く塞ぎ込んでおられたのです。国王陛下にお手紙を出すので精一杯、それもうまくいかず寝込むこともありました。なんてお労しいお母様。そんなお母様を支えるお父様も、日に日に顔色が悪くなって行きました。

 そんな両親を前に、自らの手で決着をつけねばと、わたくし決心いたしました。これが六年前、わたくしが十八歳の事ですわ。わたくしはまず、殿下にお目通を願ったのです。なかなかお聞き頂けませんでしたけれど、ようやくその機会を頂きました。そこでわたくし言いましたの、長らく流布してきた噂は、言われなき虚偽である、と。

 それは奇しくも、わたくしと殿下の婚約破棄の場でした。



「——なんだと?」


 殿下はぎろりとわたくしを睨み付けます。わたくしは、真っ向からそれを見据えました。


「わたくしは一度たりとも、噂にあるような事はしておりません。それを間に受け、事実確認をせず、当人に言えばいいものをまるで事実のように周囲に言いふらす。これは名誉毀損、と言うのではありませんか」


 正直緊張で足が震えておりますが、そこは妃教育が生きております。実に堂々と振る舞うわたくし。お母様、わたくしに勇気をくださいまし。

 このパーティーは、学園を卒業後、二年が経って、各々が生活に慣れた頃、元学友に再会して交流を深め、後の政務に役立てるという意味合いのもと開かれる記念パーティーでした。皆二年という時を経て大人の姿をしています。かくいうわたくしも、お母様から譲り受けた立派なドレスに身を包んでおりました。王室ゆかりの品々を身に付け、いざ殿下のエスコートで入場……したまでは良かったのですが、宴もたけなわとなった頃、突然殿下が叫んだのです。


「私は、ベロニカ・ハルモニアとの婚約を破棄する!」


 ——と。

 わたくしは思わず、なんだそれ、と目を見開きましたが、それは表情に出ませんでした。ただチャンスだと思いました。


「それは一体、どういう事でしょう?」


 毅然としてわたくしは反論しました。それがいけなかったのでしょう、ますます殿下は血気ばんで、わたくしを糾弾したのでした。


「何年も前から噂になっている。お前も聞き及んでいるはずだ。何人もの男と関係を結んで、好き勝手やっているそうじゃないか」

「わたくしは一度たりとも、噂にあるような事はしておりません。それを間に受け、事実確認をせず、当人に言えばいいものをまるで事実のように周囲に言いふらす。これは名誉毀損、と言うのではありませんか」

「何を言う! お前がふしだらな女だという証拠ならある。いくつもの証言があるんだ、これは疑いようのない真実だ!」

「その証言とやら、裏は取れているのですか。どうにも状況がおかしなところが多々あるものばかりなのですが」

「……黙れ! 小賢しい! 貴様はいつもいつも細かい事を気にしよって!」

「いえ、わたくしの名誉に関わることですので、細かいのは当然です」

「それが小賢しいと言うんだ!」

「えぇ……」


 なんという事でしょう、開いた口が塞がりません……。裏の裏まで細工をすればいいものを、どうやらそれすらやっていないご様子。叔父の入れ知恵はなかったのでしょうか。それともこんな言い分で済むと思ってのことでしょうか。叔父は、どこまで手を出すつもりなのでしょう。

 ともかくこのままではいけません。なんとか再調査の方向へ持っていきませんと!


「それが間違いないのであれば、詳しく調べても問題ないはずです。まずは再調査を。でなければ、この婚約破棄は受け入れられません」

「貴様が受け入れる必要はない。これは決定事項だ。父上と母上は認めなかったが、叔父上が協力して下さった」


 その言葉に、分かりやすく動揺するわたくし。


「叔父……上、とは、まさか」

「無論、フランネル叔父上のことだ」


 ……フランネル。それはまさしく、お母様に執着している叔父の名前です。まさか、婚約破棄に直接介入してくるとは。

 いえ、ですが、いくら王の弟とはいえ、国王陛下と王妃陛下が否と言っているものを、叔父がどうこうできるはずがありません。それを言うと、殿下は分かりやすくわたくしを侮辱するように笑いました。


「はん、貴様の知恵もその程度か。……王族の婚約は教会の元で行われる。つまり」

「教会を買収したのですか!」

「な、なんでそうなる! この婚約は不当のものとして異議を申し立てただけだ! それが承認された!」


 なんて事を言うんだ、と殿下は言いましたが、いいえ、叔父ならばやったでしょう。あの方の手元には、錬金術で生み出した製品による富が、豊富に入っていると聞きましたから。

 それにしても困りました。教会への異議が、すでに通っている。そしてそれが承認されている……。つまりもう、教会は「この婚約は不当なので破棄する」と認めているのです。

 王家が違っても、教会が認めてしまっている。これは、絶望的としか言いようがありませんでした。青ざめるわたくしを、殿下は見下げています。


「ふん、ようやく分かったか、この悪女め! 手を出した男は皆捨てたと言うじゃないか。そんなだから、自分も捨てられる羽目になるのだ!」


 なんですか、悪女って。わたくしこれでも、れっきとした被害者でしてよ!

 そう言えたのならどれだけ良かったでしょう。わたくしの訴えなど、誰にも届きませんでした。

 それからは簡単でした。あれよあれよという間に、わたくしは悪女というレッテルを貼られ、社交界から弾き出されてしまったのです。この段になってしまえば、噂はもう、真実に成り変わってしまっていました。

 国王陛下と王妃陛下は、わたくしの事を庇ってくださいました。ですがいつまでもそのままというわけにはいきません。王太子殿下の妃候補、その筆頭であったわたくしが社交界に居られなくなってしまったのです。次の候補の教育をしなければなりません。わたくしは大人しく引き下がるしかありませんでした。王太子と、令息達をたぶらかした稀代の悪女として。




 そんなわたくしは、失意のまま家に戻りました。お母様、それにお父様に、なんと説明しよう……。そう考えながら居間に入ると、なんとそこには、叔父の姿がありました。

 わたくしは驚きました。今日の今日ですよ、なんならさっきですよ、婚約がだめになったのは。その日のうちに叔父が来るだなんて、思わないじゃないですか。

 ですがそれは、ただただわたくしが甘かった、というだけ。実際には傷なんてついていませんが、傷物となったわたくしを、叔父は迎えに来たというのです。


 自らの妻に迎える、とそう言って。


 その叔父の表情を、なんと表現したらいいでしょうか。嬉しくて嬉しくてたまらない、といった表情ですのに、どこか暗いものが漂っていたのです。瞳はやけにぎらついていました。その瞳で見られると、鳥肌が収りませんでした。

 ぞわり、と寒気のする体を抱きしめるわたくしを、叔父は恍惚として眺めていたのです。

 ……堪りませんでした。どうしようもなく、嫌悪で身が震えました。


「姉様。とても……とても綺麗だよ」


 叔父の視線の先にいるのは、間違いなくわたくしです。ですが叔父はそのように言うのです。これでもう、確定でした。叔父は、お母様に瓜二つのわたくしを手に入れようとしていたのです。わたくしを、お母様の代わりにしようというのです。視界の端で、お母様が倒れるのがわかりました。

 すぐにお父様が、わたくしと叔父の間に割って入りました。執事二人がそれに加担します。叔父の腕を掴み、取り押さえました。床に押さえ込まれる叔父。それでも叔父は笑ったままでした。


「フランネル。ここまでだ。義兄(あに)(うえ)達がなんと言うかわからないが、私の一存で君を捕える。私の家族には指一本触れさせない」


 ですがお父様がそう言うと、叔父は顔を歪めました。


「……黙れ!! 貴様なんぞ姉様の家族なんかじゃない! 姉様の家族は僕だ、僕だけだ! 姉様に触れていいのは僕だけだ!!」


 剣幕に驚き、わたくしはひっ、と喉を引き攣らせました。……恐ろしかったのです。顔色は悪く、頬がこけているのに、瞳だけが輝いている、そんな叔父の姿が。狂気的な叔父の愛が。

 本格的に良くないと感じたのでしょう、お父様が捕縛を命じた時のことです。叔父が急に、がふっ、と血を吐きました。

 なんだ、とお父様が叫んだ時です。わたくしは、自分の身体が動かないことに気が付きました。自分の意思では動かせないのに、まるで——誰かを受け入れるかのように、両手を軽く広げた体勢のまま、身体が硬直しました。

 声は出せません。お父様、助けて。そんな風に叫びたいのに、わたくしの身体は一切わたくしの思い通りにはなりませんでした。


「貴様に姉様は渡さない!!」


 叔父が、床に押さえ付けられたままそう叫ぶと、その胸元から閃光が走りました。わたくし目がけて。そうしてわたくしは、十八歳の姿のまま、この水晶の中に閉じ込められたのです。




 それから六年。六年になりましてよ皆様。わたくしずっと閉じ込められたままになっていますの。

 初めは戸惑いました。驚いて泣き叫びたい気持ちになりました。ですが、それができないのです。なにしろ凍りついたかのように、身体が動かせませんから。まあ当然といえば当然ですわね、わたくしの身体は水晶に覆われているのですから。

 どうやらこの水晶、時を止めたままにする作用があるようなのです。わたくしは成長せず、十八歳のあの時のまま、意識だけはある状態となっているのです。これって生きている事になるのでしょうかね? 確かめようにも、手を動かすことができませんから、胸に手を当て鼓動を確かめることもできません。

 今思えば、叔父が血を吐いたのは、この水晶を創り上げるのに必要だったものなのでしょう。錬金術とは、奇跡を起こす分、対価が非常に重くなるのだと聞きました。これほどの術の対価は、叔父の生命力だったのかもしれません。

 あの事件の直後、叔父は捕らえられました。どうして僕と姉様を引き離すんだ、なんて叫んでいるのが聞こえましたが、聞こえなかったことにしました。恐ろしくてたまらなかったのです。

 お母様は、水晶に縋り付いて泣いていました。お父様は、そんなお母様を宥めながら涙を流していました。もっと早くにこうしていれば良かったと、声を詰まらせながら、わたくしとお母様に謝り続けたのです。

 いいえ。……いいえ。わたくしがもっと早く、殿下ときちんとお話していたら良かったのです。もっと殿下と仲が良ければ、殿下は叔父の話を鵜呑みにしたりしなかったでしょう。周囲の大人に任せっきりだったわたくしにも、落ち度があるのです。

 だからお父様、お母様、そんなに泣かないで。……そう言えたら、どんなに良かったでしょう。お母様はあまりのことに、心を本格的に壊してしまいました。わたくしの意識があるとは思ってもみなかったのでしょうね。お母様はわたくしの目の前で、毒を煽って自害を試みたのです。

 偶然帰ったお父様にすんでの所で杯を払い落とされ、ぎりぎり毒を飲まずに済みました。ですがこれ以上、閉じ込められたわたくしを眺め、牢に入っているとは言え叔父の側に居たら、お母様は本当に死んでしまいます。それを危惧したお父様はお母様を連れて国外へ逃亡いたしました。水晶に囚われたままのわたくしを置いて行くことを、最後まで気にされていましたが、わたくしは恨んではいません。もしも自由に話すことができたら、きっとわたくしの方から提案しましたもの。

 お父様はごく少人数の使用人と、信用できる錬金術師を新たに雇い、なんとかわたくしを解放するよう命じました。奇しくもその錬金術師は叔父の一番弟子だとか。……なんだか不安がよぎるのはわたくしだけでしょうか。



 そんなわけで、今もわたくしの前では、彼が懸命に水晶を除去しようと奮闘していましてよ。

 ……なぜか王太子殿下もご一緒ですけれど。

 殿下はわたくしとの婚約破棄後、すぐに結婚なさいました。懇意にしていたご令嬢がいたそうです。わたくしの意識があるとは微塵も思っていない彼は、今日も思ったままの事をすべて口にされています。


「稀代の悪女と言われるわけだ。ベロニカ以上の美しさを持った女はやはり居ない。黙っているだけならば、これ以上の女はないな」


 殿下の言葉に、錬金術師の青年は首を傾げています。


「だったら黙って娶っていれば良かったでしょうに。そんで本命は妾。王太子ならば、それも可能でしたでしょう?」

「叔父上が許さなかったんだ。こんな趣味があると分かっていれば、俺も奴に耳を貸したりしなかったんだが」


 ……いやいや、趣味とか関係ないでしょう。なんですのその自分は間違ってなかった、とでも言いたげな態度は! 何様ですの! あ、王子様でしたわね、失敬失敬。

 わたくしの心境など知る由もない殿下は、青年に向きます。


「で、どうなんだ」

「いやあ、さっぱりです。旦那様とお嬢様には悪いんですがね。元々フランネル様くらいなものなのですよ、錬金術をまともに扱えたのは」

「ふん、使えない連中だ」

「そりゃあ、すいませんね。ところで王子様、一体なんのご用で?」

「もしも元に戻せたら、俺の側室に迎えてやろうと思ってな。もう叔父上は出て来られないだろうから。なにしろ監獄の最下層だぞ。死体しか出て来ないと聞いている」


 そんなことしゃべってしまっていいのかしら……殿下はわたくしの方へ向き直し、わたくしの全身を舐め回すように見上げました。うう、いつもだけれど、慣れないわ、この視線。


「なによりベロニカは美しい。いつまででも見ていたい。叔父上の気持ちが少しわかる」

「……へぇ、そうですか……」


 いや、慣れなくて正解だったわ。気持ち悪い。殿下、気持ち悪いわ。


「だめでも、このまま俺の部屋に移してやってもいいと思ったんだが。切り出せないのか」

「物理的にやっても無駄ですね、削ったりしても再生するんですよ。ほら」


 錬金術師の青年は、言ってわたくしの足元の水晶へナイフを立てました。水晶は簡単にヒビが入り、欠けたけれども、すぐさま淡く光って、形は元通りになってしまう。わたくしがこうなってしまって、最初にお父様が同じことをなさったのよね。刀剣を持ち出して、水晶を削ごうとしたの。でも削いだ端から水晶は再生して、そのうち防衛反応とでも言うように、厚くなってしまった。外からの干渉ではだめだと分かったから、お父様は錬金術師を屋敷に呼び寄せたのです。

 殿下は単純にはいかないとわかると、分かりやすく表情を歪めたわ。……この六年、何を見てきたのかしらね。わたくしの顔かしら、文字通り。


「ちっ。なら、しっかり元に戻せるようにせよ。いいな」

「うーん。俺の雇い主は王子様じゃなく侯爵様なんですが……まあ、任されているんで、できる限りはしますよ」

「戻せたら必ず城に連絡をするんだぞ。いいな」

「へーへー」


 適当に返事をする錬金術師の青年を一瞥して、殿下は帰って行きました。本当に、わたくしを見に来ただけなのね、あの人。

 なんだかなあ、と思っていると、庭師として屋敷に滞在してくれている男性とその奥様が部屋に入って来ました。

 屋敷にいるのは彼ら夫妻と、錬金術師の青年だけ。人手がないものだから、殿下が来るとなると彼らが駆り出される。殿下が帰ると、夫妻は決まって顔を歪めます。


「まったく、おぞましい。妃を迎えて、側室も三人いるってのに、お嬢様にご執心とは。全員と寝室を共にしているって話だぞ」

「そこにお嬢様を加える気かね。お美しいばっかりに、お可哀想な方だよ」


 ……ひえ。わたくしの思った以上に、殿下、やばい方なのね。

 そんなところに加えられたらたまったものではないわ。早く自由になりたいような、そうじゃないような。いえまあ、自由になったからと言って、必ず殿下の側室になるわけではないのだけれど。

 でも、何年もあんなのを見せられていると、なんだかそれしか道が無いように感じてしまって。すっかり気分の落ち込んだわたくしは、明るい青年の声にはっと意識を取り戻しました。


「さあさ、あとは俺一人でいいや。集中したいからしばらく近付かないでね。なにかったら呼ぶから」

「はいよ。頑張ってね」

「うん、ありがとー」


 やれやれ、と言いたげな夫妻がティーセットを片付け、部屋を後にします。パタンと扉が閉まり、彼らの足音が遠ざかっても、なお青年はそのまま佇んでいました。

 どうしたのかしら、とわたくしが訝しんでいると、青年は確実に足音が聞こえなくなってから「よし」と呟き、わたくしの方へやってきます。

 なにをどう調べているのか、いつものようにガラスの筒に入れた液体で水晶を溶かすのかしら。わたくしがそう思っていると、青年はわたくしの正面に立ちました。


「……お嬢様、聞こえてるでしょ? ずいぶん辛抱させて悪かったね」


 ……!? ど、どういう事? 尋ねたくても、わたくしの身体は動かない。瞬きもできないわたくしに、青年は続けて言ったのです。


「色々な準備に手間取って、六年もかかってしまった。本当に申し訳ない。今、そこから出すからね」


 言うや否や、青年は屈み込んで、水晶に何かを押し当てました。すると、なんということ! 水晶が淡く輝いて、消失していったの!

 六年振りに解放されたわたくしは、久しぶりの身体の重さを感じたわ。足で身体を支える事が出来なくて、倒れ込みそうになるところを、青年は力強く抱き込んでくださったの。


「……!」

「おっと、静かにね。秘密裏に進めたいから、ちょっと黙って」


 さ、叫びたくても、声が、声が出来ません! 呼吸をするのも久しぶりなわたくしは、何度も何度も息を吸い込んで、吐いてを繰り返して、ようやく声を出せるようになりました。その頃には、足にも力をこめる事が出来るようになっていたから、わたくしはそっと身体を起こしたのです。


「あの、あなた……」


 どうして、なにがあったの。本当にわたくしは、自由になったの? 現実味がなくて呆然としているわたくしに、青年は水色のワンピースを差し出しました。

 いきなりのワンピース。どういう事なのかと首を傾げていると、急いで、という青年の声。


「悪いけれど、事情は後で。とりあえずこのワンピースに着替えて。俺こっち向いてるから、あっちの隅っこで」

「え、ええ」

「ああそうだすまん、後ろだけちょっと解くよ。後ろ向いて貰える? 一人じゃ脱げないだろうからさ。……これでよし。ドレスは脱いだら俺に渡して」


 あわわ、だ、男性にドレスを解いて貰うだなんて……! そう、わたくし、パーティー帰りに水晶漬けにされたものだから、豪華なドレス姿だったのです。着替えろと言われても一人では脱げないの。恥ずかしかったけれど、必要な事だからと言われて、急いで簡素なワンピースへ着替えました。思ったよりも苦戦せずに脱げたから良かったけれど、ワンピースのボタンが閉められなくて、結局そちらも手伝って貰う羽目になったけれど……。

 真っ赤になりつつ、わたくしは青年へドレスを差し出します。


「あの、ドレス、脱ぎましたわ」

「ありがとさん。ちょっと手伝ってくれる? これにそれを着せるよ」

「ひぃっ!」


 ですが、青年がシーツのかたまりからごろんと取り出したものを見て、わたくしは思わず手を引っ込めました。そこには、人の死体にしか見えないものがあったのです!

 驚いて固まるわたくしを、青年は慌てて宥めました。


「ああ、すまん。こいつは人形さ、お嬢様そっくりの」

「に、人形?」

「そう。これを、お嬢様の代わりにするの」

「……!」

「察しがいいな。そう、お嬢様は、残念だけど助からない。水晶の中で、美しいまま眠っている」

「どうして、こんな事を?」

「……フランネルさ。奴が捕まったくらいでお嬢様を諦めたりするもんか」


 錬金術師の青年は語ってくださいました。叔父の、狂気とも言える計画を。

 彼は初め、純粋に素晴らしい学問だと思って錬金術を学び始めたそうです。叔父はあれでも錬金術の第一人者ですから、研究室には何人もの弟子が居たそうなのです。彼はその中でも一等覚えがよく、手先も器用だったために叔父の一番の弟子となったとのことでした。

 そうして、あの日。叔父がわたくしを水晶漬けにした日。彼は、知らずのうちにその計画の一端を負わされていたというのです。

 錬金術の詳しい事は、わたくしにはわかりませんでした。ですが、叔父がわたくしを水晶漬けにする為の術、それに使う材料となるものは、全て彼が準備したそうなのです。

 彼は事件後、初めて自分の用意したものが何に使われたのかを知ったと言います。そしてそれを悔やんでいる、とも。

 自分が行なっていることは、世の中の人の役に立つ事なのだと。そう信じてやっていたのに、実際起きた事は、ひとりの少女を永久に閉じ込める為のものだったのです。彼の失意はいかほどでしょう。それに留まらず、彼は叔父の一番身近に居たために、叔父の本当の目的に気が付いてしまったのです。


「師匠のことだ、きっと牢を抜け出して、お嬢様の所に来るよ。お嬢様の身体の時を止めていたのが何よりの証拠だ。捕まる事なんて想定済み、一旦捕まってほとぼりが冷めた頃、こっそり抜け出すんだ。監獄だろうと関係ない。歪みまくった根性でやり遂げる。あの人ならそうするね。もしも師匠が牢から抜け出したらどうなるか……お嬢様にもわかるだろう」

「…………」


 わかりたくはありませんでしたが、わかってしまいました。そうなればきっと……わたくしはもう、叔父からは逃れられないでしょう。

 だから彼は、その期間を逆手に取って、これを計画したと言うのです。わたくしそっくりの人形を作って、わたくしと入れ替える。叔父が本当に抜け出すその瞬間までは騙し通せるでしょう。殿下もそれに一役買ってくれるはずです。ベロニカ・ハルモニアは、いまだ水晶の中で眠っている、と。


「六年もかかっちまった。時間がいくら残ってるかわからないんだ。だから急いで」

「わかりました」


 なんとか二人で協力して、人形にドレスを着せることが出来ました。装飾品も付け替えます。お化粧は……どうしたらいいのかしら、と思ったけれど、「お嬢様ほとんど化粧してないんじゃない?」と青年が言うので、そのままにしておきました。本当は口紅くらいはしたほうがバランスが良いと思うのですけれど、仕方ありません。

 人形は、まるで人のようでした。肉があるようで、柔らかいのです。血色は悪くはありません。それなのにまったく温かくない。死体のようだけれど、生きているように見えて、正直なところ不気味に感じてしまいました。

 青年は言います。これを造るのに時間がかかったのだと。錬金術の秘術、人造生命体。ホムンクルスと言うのだそうです。

 本当の生命を宿したものは造り出せない、と言われているそうです。でも、青年の話を聞き、このホムンクルスを見た時、わたくしにある考えが浮かんだのでした。


「ひょっとして……叔父が錬金術を学んだのは、お母様のホムンクルスを造るのが目的だったのでは?」


 青年は、それには答えませんでした。ですが、どこか悲しげに笑いました。……きっとわたくしの考えは、まったく間違っているというわけでもないのでしょう。

 それをおぞましいと感じるのは、わたくしがお母様の娘だからなのかもしれません。

 ホムンクルスにドレスを着せると、青年はあの時のように水晶でそれを覆いました。あの時は、叔父は大量の血を吐いていたものだから、わたくしは一度止めました。けれども青年は「大丈夫だから」と言って実行してしまったのです。息を呑むわたくしを、青年は笑いました。


「これは時間を止めたりする高度なものじゃないから。ちょっとの生命力でいいんだ」

「ちょっとって、どのくらい? 寿命が縮んだりは?」

「しないしない。半年くらい貧血に見舞われるくらいで」

「……大事(おおごと)じゃないの!」

「大丈夫、慣れているから」


 ……錬金術師って大変なのね。体を大事にして欲しいわ。そう言ったら、彼はやつれた顔でまた笑ったのです。



 それからすぐに、わたくしは裏庭に回りました。彼の指示通り小屋で息を潜めていると、青年が馬を連れてやって来ます。

 彼の手を借り馬に乗ると、急いで屋敷を出ました。庭師夫妻はこの時間はお昼寝をしているし、自分はいつも好き勝手に出掛けているから、もしもなにかあってもばれないだろう、と彼は言います。

 大きな帽子に髪を隠し、わたくしは彼に問い掛けました。


「どこへ向かうの?」

「まずは連絡だ。お嬢様だって会いたいだろ?」

「……!」


 その言葉に、わたくしは思わず声を上げます。


「お父様とお母様に会えるの!?」

「ははは。そりゃあそうさ。まあ、その前に無事にお嬢様を引き渡さないとだけど」

「急ぎましょ!」

「そうだな、安全な範囲でな」


 でないと馬が可哀想だ、という言葉に、わたくしは笑顔で頷きました。

 それから隣町でまず会ったのは、叔父を捕まえる際にお父様に協力していた執事の一人でした。まだ黒いところがあったはずの彼の頭髪は、今はもう全て真っ白になってしまっています。隈がひどいのは、心配事があったからなのでしょう。でももう大丈夫よ、とわたくしが言うと、彼は目に涙を浮かべます。

 宿を押さえたわたくし達に、錬金術師の青年は、それじゃあ、と声を掛けました。わたくしが振り返ると、彼はほっとした顔で頷きます。


「俺はこのまま戻る。お嬢様があのまんまなのに、術師だけ居なくなったんじゃまずいからな」

「あの、どうもありがとう」

「お礼なら大丈夫。旦那様にたんまり貰ってるから」


 にっと笑う彼に、思わずわたくしも笑みが溢れました。別れ際、彼は「幸せにね」と言ってくれたので、わたくしは精一杯大きな声で「ありがとう」と返したのです。




 数日後、わたくしは両親と再会しました。

 あれほど青白い顔をなさっていたお母様は、やつれたものの、力強くわたくしを抱き締めてくださいました。

 お父様は「良かった、本当に良かった」と、泣きながら、わたくしの手を取りました。

 わたくしは、それでようやく泣く事ができたのです。


 それからは……まったくの平凡でしたので割愛致しますね。

 わたくしは隣国で、両親と共に暮らす事になりました。正体を探られるわけにはいきませんし、「わたくし」はハルモニアの屋敷で水晶漬けになっているはずです。年齢だって十八のままでしたから、名前を変えて、両親の養子とならざるを得ませんでした。

 けれどそんなの、些細な事ですわ。わたくしと両親は、本当の家族なのですから。

 数年の後、公爵令息に見初められたわたくしは、彼の求婚を受けました。惚気になりますけれど、素敵な方なんですよ? わたくしに優しくして下さいますし、なにより裏表のない方です。特殊な趣味があるわけでもありません。聡明で、領地のことも真剣に考えて施政をなさる方です。この方なら、と両親も言って下さって、幸せな結婚生活を送っております。



 それからまた、数年が経った頃。わたくしの耳に、かの国で、犯罪者が監獄から逃げ出したという話が入ってきました。

 それをもたらしてくれたのは、古くから付き合いのある錬金術師です。彼はたまに、縁のあるわたくしの実家経由で、様々な物を持ち込むのです。

 その錬金術師いわく、その犯罪者は、とある屋敷に忍び込んだそうです。ですがそこで、なにかを見たのでしょう。とある部屋で発狂したというのです。

 意味不明のことを叫んで、自害した。その錬金術師はそう言いました。

 わたくしは、持っていたカップを覗き込み、そう、と呟きました。


「じゃあ、もう大丈夫なのね?」

「ええ、間違いなく。なにせこの目で見ましたからね」

「……そう」


 それは実を言えば、待ち望んでいたことでした。目の前にいる青年は、あの時、わたくしを救い出してくれた彼なのです。

 これを聞くまで、幸福の中にあっても、いつそれが壊されるのかと、わたくしは気が気ではありませんでした。いえ、むしろ幸福であればあるほど、恐ろしかった。目の前の現実が理不尽に破壊される。そんな夢を何度見たことでしょう。

 それもようやく終わる。実感はまだ湧きませんが、少しずつ、その事実はわたくしに溶け込んでいくでしょう。

 ただ、悲しいのは、「わたくし」も同時に死んだことでした。「ベロニカ・ハルモニア」は水晶から出されると、途端に形を崩してしまったそうなのです。

 ついに稀代の悪女のまま、「ベロニカ・ハルモニア」は死んだのです。

 そんなわたくしの複雑な心境を知ってか知らずか、青年はすいっと視線を、花壇の方へ向けました。そこには、四つになったばかりのわたくしの娘が、乳母の手を引いて花壇を覗き込んでいました。


「お嬢様はたいへん可愛らしいですね。母親似ですか」


 わたくしの娘は、わたくしの幼い頃にとても良く似ている。

 お母様に生き写しだったわたくしに、本当に良く似ているの。


「そうなの。……ええ、そう。良かったわ、本当に」


 そんな娘が、叔父に見つかったら。きっと娘は、わたくしと同じ目に遭うでしょう。


「本当に……良かった」


 カップの中のお茶に、いくつもの波紋が広がります。

 嗚咽が止まりませんでした。ようやくわたくしの人生に、平穏が訪れたのですから。無理のない事でした。





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