神崎美奈代の記憶
昼下がり、とあるマンションの一室。
神崎美奈代は、リビングでソファーに座りスマホをいじっている。その顔には、異様な表情が浮かんでいた。
スマホの画面には、文字が書き込まれている。「七尾の動画ひど過ぎ。スマホ買ったばかりの中学生レベル」「いや、あれは小学生レベルでしょう」「それ小学生に失礼」などという文句が並べられていた。
その文句を書き込んでいるのが美奈代である。彼女は、ひとりで何人もの人間を演じていたのだ。演じている人間たちは、年齢も性別も職業もまちまちという設定である。共通点は、タレントの七尾恵美を攻撃していることだった。
今の美奈代は、家庭を預かる専業主婦である。
夫である神崎達俊とは、六年前に知り合った。地味で真面目な雰囲気だが、心優しい彼と付き合うようになっていった理由は……正直いうなら、何となくの成り行き任せだった。最初は、共通の友人を介して知り合い友人になったのである。しばらくして、気がつくと男女の関係になっていた。彼に不満がなかったわけではないが……まあ、いいかという気持ちだった。
プロポーズも、実に平凡なものであった。巷によくあるサプライズ的な要素はなく、ただただ普通に「結婚してください」と言われ、それをOKした。達俊は地味で男性としての魅力には欠けるが、一流企業に務めるエリートである。性格も面白みはないが、真面目で優しい。断る理由など、見当たらなかった。
平凡だが、人としての幸せを手にした……はずだった。
それが、いつから始まったものなのかははっきりしない。しかし、これだけは確かだ。夫は、浮気をしている──
今のところ、物的証拠はない。ただ、ここ最近の達俊は明らかにおかしくなっている。
これまでは、仕事が終われば寄り道をせず真っ直ぐ家に帰ってきていた。酒は好きではなく、付き合いで嗜む程度だ。タバコは最初から吸っていないし、ギャンブルとも無縁だ。キャバクラやガールズバーといった場所にも寄り付かない。風俗にいたっては、行ったことすらないのだという。
目立つ欠点といえば、オタク系の趣味くらいだ。気に入ったアニメのプラモデルやDVDやグッズを買い漁るという困った性癖はあるが、それだけなら大したことはない。目をつぶれる範囲内である。
そう、浮気さえしなければ……。
三ヶ月ほど前から、達俊の帰りは遅くなっていた。毎日ではないが、週に二回から三回、午前零時を過ぎてから帰ってくるのだ。しかも、毎回のように妙な匂いを漂わせている。先月などは「そのうち、泊まりがけの出張とかあるかもしれない」などと、ぬけぬけと言ってきたのだ。
今まで、そんなことはなかった。しかも泊まりがけの出張だというのに、妙に楽しそうな表情を浮かべている。間違いなく、女との旅行だろう。
それだけではない。これまで香水など付けたことなどなかったのに、最近では趣味の悪い匂いをぷんぶんさせている。靴下や下着なども、小洒落たデザインのものを選ぶようになっていた。あれは、若い女ウケを意識した行動に違いない。
しかも、先週からはフィットネスジムに通い始めたのだ。達俊という男は、根っからのインドア派である。これまでスポーツなどには関心もなかったし、フィットネスとは無縁の生活を送っていた。むしろ、筋肉を自慢するような男たちをバカにしていたのである。「脳筋」「筋肉バカ」という言葉を、よく口にしていた。
そんな男が突然、会社の近くにあるフィットネスジムに入会した。その上、お洒落なトレーニングウェアやプロテインなども買い込んでいる。最近では「鶏肉を多めにしてくれ」などと面倒なことを言ってくる始末だ。これまで、食事に対する注文などなかったのに。
風呂上がりには、腹のあたりの脂肪を気にしてつまんだり揉んだりしている。鏡の前で、細い腕まわりの筋肉を必死で盛り上げようとしている姿も見た。これまでの夫からは、あり得ない行動だ。
真面目だけが取り柄だったはずの達俊が、若い女相手にいい格好をしようと、ジムに通い努力している……なんと情けないのだろうか。
同時に、嫉妬の気持ちもある。夫が若い愛人のためだけに、それまで興味のなかったフィットネスジムに通い努力している。愛人に見せるために、体を鍛えているのだ。自分と付き合っていた頃ですら、そんなことはしなかった。
しかも、夜はベッドで、愛人に向かい甘い言葉を囁いている……そのことを思うだけで、全身を不快感が駆け巡る。その気持ちを、美奈代はスマホにぶつけていた。完全に八つ当たりである。だが、七尾への悪口を書く以外、美奈代の溜まった憎悪を吐き出す術がなかったのだ。
脳裏には、若い時の七尾の姿が浮かぶ。
今の姿からは想像もつかないが、中学生時代の美奈代は不良グループの一員だった。中学二年でタバコを覚え、三年生で酒や大麻も経験した。そのことは、夫ですら知らない過去である。
もともと真面目な性格の彼女が、なぜそんなグループに入っていたのかというと……引っ込み思案で気が弱く、親や教師の言うことに逆らえない自分が、たまらなく嫌だったからだ。派手な生き方をしている彼らに比べると、ひどくつまらない人生を歩んでいるように思えた。
それに、クラス内で一番の権力者である藤川亮や七尾恵美らの自由奔放な姿が、羨ましかったこともある。親や教師といった大人たちに平気で逆らい、やりたいことをやっている……彼らのように、自由に生きたいと思った。
気がつくと、美奈代は藤川のグループの一員になっていた。彼らと共に授業をサボり、タバコを吸い、夜の町を徘徊する。時には、村本らが他校の生徒と喧嘩をするのを、すぐ近くで見物したこともある。
最初は怖かったが、同時に楽しさをも感じていた。見るもの聞くもの触れるもの、全てが新鮮である。また、タバコを吸ったり夜の町を徘徊することで、違う自分になった気がしていた。一般人ではない自分。かっこいい不良な女になれた気がした。さらに、クラス内でのランキングも上がったような気がしていた。
だが、時が経つにつれ徐々に気持ちは変化していく。一見、自由そのものの彼らの生き方……しかし、実際に体験してみれば不自由極まりない。親や教師の押さえつけが緩んだ代わりに、仲間内での人間関係で押さえつけられるようになる。素の自分を押し隠し、仲間内でウケる行動をしなくてはならない。また「付き合い」という言葉のもとに、様々なことをさせられた。その中には、犯罪まがいのものもある。
特に七尾恵美はひどかった。彼女が藤川や村本らに見せる顔と、自分に見せる顔はまるで違っていたのだ。ふたりきりになると、ちょっとした発言の揚げ足を取られ、ねちねちと厭味を言って来るのだ。かと思うと、日によっては口汚く罵ったりもする。暴力を振るわれたことも、一度や二度ではない。
気がつくと、美奈代は七尾の引き立て役……いや、イジられ役となっていた。可愛い七尾の隣にいる、平凡なレベルの女。藤川や村本からはバカにされていたし、グループ内でも下位であるはずの山口ですら美奈代を見下していたのだ。
一度、みんなの前で山口に「なあ、ヤラせろよ」とイジられたことがあった。さすがに本気ではねつけたが、周囲の者たちはゲラゲラ笑っていたのだ。
その時、美奈代は理解した。クラス内でも上位に属するグループに、媚びを売り仲間に入れてもらっている情けない存在……自分は、そんな目で見られていたのだ。しかも、その評価は間違いではない。
自分は、本当に格好悪い人間なのだ──
やがて美奈代は、少しずつグループから距離を置くようになる。高校入学と同時に、藤川たちとの連絡を減らしていった。やがて、大学入学と同時にひとり暮らしを始める。それを機にタバコもやめ、地味で真面目な生活に戻す。こうして彼女は、グループの存在すら忘れた……はずだった。
だが、しばらくすると再び彼らの存在を目にするようになる。発端は、何気なくつけていたテレビだった。
バラエティー番組にて、若い芸人とともに映っていた女は、よりによってグラビアアイドルになった七尾である。どうやら、本名をそのまま芸名にしたらしい。顔は、中学時代とは微妙に違っているように見えた。整形手術をしたのかもしれない。
呆然となりながら画面を観ていると、七尾はニコニコしながら、水着姿でカメラに向かい手を振っていた。中学生の時より、遥かに大きくなっているバスト。キュッとくびれたウエスト。盛り上がったヒップ。それら全てが、今の自分とは違う。
たまらなく嫌だった。あの女の性格の悪さは、骨身に染みている。おそらく、美奈代がこれまで会ってきた人間の中でも、ナンバー1のロクデナシではないだろうか。なぜ、あんなクズがスポットライトを浴びているのか。世の中は、あまりにも不公平に出来ているらしい。美奈代は、テレビを破壊したい気分だった。
しかも夫は、そんな七尾をいやらしい目で見ていた……その事実が、美奈代をいっそう不愉快にさせた。
それだけでは終わらなかった。その後、格闘家になった村本もテレビに登場した。さらに今では、あの藤川が社長兼タレントとなって、テレビやネットに顔を出している。
美奈代は、華やかな彼らの姿に苦々しい思いを抱いていた。中学生の時、藤川らのしていた悪行を目の当たりにしている。タバコ、酒、大麻、バイクの暴走、喧嘩などなど……窃盗や強盗のような明らかな犯罪もあるのだ。さらに、もっとおぞましい行為も目の当たりにしている。
あんなことをしてきた連中が、何の報いも受けずにスポットライトを浴び、周囲から称賛の声を浴びている。何も悪いことをしていない自分は、地味な生活に甘んじているというのに……その事実が、美奈代には不愉快で仕方なかった。
しかし、そこで願ってもない出来事が起きる。七尾に、未成年時の喫煙というスキャンダルが発覚した。やがて彼女は、表舞台から姿を消す。ネットでは、彼女に対する悪口や罵詈雑言が飛び交っていた。
やがて美奈代も、それに加わるようになった。あちこちに、七尾のかつての行動やしでかした悪行を書き連ねていく。最初は、ごくソフトなものだが真実だけを書いていた。しばらくすると、真実に嘘を混ぜたものを投稿するようになる。最近では、己の頭で考えた百パーセント嘘の書き込みをしている。
今の美奈代にとって、これだけが唯一のストレス解消法であった。いずれは、藤川や村本に関する話も書き込んでやろうと思っている。
そう、美奈代には優れた記憶力かある。そのため、彼らのやらかしたことを、ちゃんと記憶しているのだ。
夕方になり、美奈代は夕食の支度を始める。近所のスーパーにて安い食材を買い込み、帰りにポストを見てみた。
企業からのダイレクトメールやチラシに混じり、分厚い封筒が入っている。何の気なしに手に取り、買ってきたものと一緒にエコバッグに放り込む。
自宅に入り、まずは買ってきたものを冷蔵庫に入れる。次に、郵便物に目を通す。
分厚い封筒を見た瞬間、美奈代は愕然となった。めまいを起こしそうになりながらも、どうにか堪える。
もう一度、差出人の欄を見た。間違いではない。こう書かれている。
秋山薫、と──
その名前は、今もはっきり覚えている。ちょうど三年生になった四月、美奈代たちの通う中学校に転校してきた少年だ。小柄だが、中性的な可愛らしい顔立ちが特徴的だった。
ある日、秋山は藤川らのグループに目を付けられた。きっかけが何かは覚えていないが、秋山はグループのイジられキャラとなる。
最初は、藤川らに言われてジュースやパンを買いに行く程度だったが……やがて、彼への扱いはエスカレートしていく。イジりがイジめに変わるまで、一月もかからなかった。
特にひどかったのは村本だ。暇さえあれば、秋山を呼び出し殴っていた。それも、腹や肩のような露出しない部分を集中的に殴る。腹を殴られもがき苦しむ秋山の姿を見て、村本はニヤニヤ笑っていたのだ。その姿に、異様なものを感じていた。しまいに、秋山は不登校になってしまったほどである。
しかし、殴るくらいはまだマシだったことを知らされる。ある日、美奈代は見てしまった。誰もいない場所で、村本が秋山にしていたこと……あれは、本当におぞましい光景だった。あれを見たことも、美奈代に彼らとの絶縁を決意させた一因であるのは間違いない。
以来、秋山とは会っていない。会いたくもなかった。それ以前に、秋山があそこから無事に帰れたのかどうかもわかっていないのだ。
もちろん、美奈代は何もしていない。最初は、いつものように村本が秋山をイジメようと言いだし、皆で彼の自宅まで行って呼び出したのだ。さらに、周囲で見ていた七尾や山口が煽る。しまいには、藤川がわけのわからないゲームのアイデアを出した。
あれは、どうしようもなく悪趣味なゲームだった。秋山が、泣きながらやめてくれと頼んでいたのも、はっきり覚えている。しかし、誰ひとり聞く耳を持たなかった。もちろん、美奈代に止められるはずがない。
結果、ひとりの人間が命を落とすこととなったのだ──
美奈代には、何の罪もない。ただ見ていただけだ。何も言っていないし、何もしていない。一番悪いのは、あいつらだ。
なのに、なぜ自分に手紙をよこす? それも今になって?
震える手で、手紙の封を開けてみる。中を見たくはない。だが、美奈代は怖かった。怖いからこそ、なおのこと見たかった。無視する勇気が、彼女にはなかったのだ。
中に入っていたものを見た瞬間、美奈代はその場に崩れ落ちる。ショックのあまり、体に力が入らない。
中には、もっとも見たくなかったものが入っていた。彼女の幸せを踏みにじり、徹底的に破壊しつくすもの。これまでの彼女の人生全てを嘲笑し、負け犬へと変貌させるものが、そこには入っていた。
僅かに残されていたプライドが音を立てて崩れ落ちていく。
「な、何これ……何で……」
思わず呟いた直接、もうひとつ同封されていたものが視界に入る。
それは、一枚の便箋だった。たった一行、こう書かれている。
お前は人殺しだ
だが、そんなことはどうでもいい。それよりも、写真の方がずっと衝撃的だ。彼女は、写真から目を離すことが出来なかった。




