最悪の現実
「えっ……」
何を言っているのかわからなかった。呆然となっている藤川に、大上はゆっくりとした口調で語る。
「わからなかったか? じゃあ、わかりやすく説明しよう。あんたの尿からは、覚醒剤をやったという反応が出たんだ。今のあんたには、覚醒剤使用という罪名が追加されたんだよ」
ようやく事態を把握した藤川は、慌ててかぶりを振る。
「ふ、ふざけるな! 俺は覚醒剤なんかやってない! 嘘をつくな!」
「嘘をつくな、と言われても困るんだよ。現に尿検査で、反応が出ちまったんだからな。それとも、科捜研が間違えたとでも言いたいのか? 有り得ないよ」
刑事は、すました表情で答える。
だが、そんなはずはないのだ。覚醒剤など、生まれてから一度もやったことがない。何をどうしたら、尿から覚醒剤が出ると言うのか。
混乱する藤川に、大上は語り続ける。
「殺された山口彰には、覚醒剤の所持使用で二度の逮捕歴があったんだよ。刑務所にも、二度入っている。しかもだ、念のため殺された村本と神崎と七尾の遺体も調べてみた。すると、全員から覚醒剤の反応が出たそうだ。あんたはさっき、覚醒剤はやってないと言ったが……この事実を、どう説明するんだ? なあ、教えてくれよ。覚醒剤をやってないはずのあんたの尿から陽性反応が出て、死体となった全員の体から覚醒剤の反応が出ているのかを、な」
山口に、覚醒剤での逮捕歴があった──
もちろん初耳だ。そもそも、奴と会ったのは卒業式以来である。どんな生活をしていたかなど、知るはずもない。
しかも、他の連中の体からも覚醒剤反応が出たとは……もはや、何が起きているのかわからない。これは、悪夢ではないのか。めまいを起こしそうになっていた。
そんな藤川の事情など、お構い無しに大上は喋り続ける。
「今のところ、俺はこう思っている。あの日、あんたは古くからの幼なじみと廃墟に集まり、ドラッグパーティーを開催した。山口が覚醒剤を調達し、皆でやった。ところが、廃墟という異様な環境のため、シャブが効きすぎてしまった。あんたらは全員、幻覚を見たり幻聴を聞いたりした。あんたが聴いたという秋山の声も、ただの幻聴なんじゃないのかね」
幻聴だと? そんなはずはない。
藤川は、必死で当時のことを思い出そうとした。確かに、声は聴こえていた。それも、聞いたのは自分ひとりではない。あの場にいた全員が、秋山の声を聞いているはずだ。
では、それも幻聴だというのか。そんなことは、有り得ない。
正気が崩壊しそうな藤川に向かい、大上は静かに語り続ける。
「挙げ句、その場にいた全員が疑心暗鬼に陥った。いわゆるバッドトリップだ。ヤク中には、よくあることだ。ところが、ここから先はよくあることじゃない。幻覚や幻聴に導かれるまま、全員で殺し合いになり……あんたが運よく生き延びた。違うかい?」
違う。何もかも違う。自分は、誰も殺していない。だが、それを証明する方法がない。
これは、もう無理だ。秋山にハメられたのは間違いない。だが、それを証明するには時間が必要だ。ならば、今は時間を稼ぐ。まずは弁護士と相談だ。
「弁護士の横地俊博先生を呼んでください。横地先生が来るまで、何も喋りません」
そう言って、口を閉じ目を逸らした。
まずは、会社の顧問弁護士である横地に来てもらい、今後のやり方について話し合う。それまでは、黙秘を貫くのだ。これ以上、下手なことを口にしては命取りになりかねない。今、やれることはこれしかないのだ。
すると、大上は顔を近づけてきた。
「あのリュックに入っていた一千万円だが、あれは何なんだ? もしかして、あんたは強請られていたんじゃか? って言ってる奴もいる。あるいは、覚醒剤を買うための金だったか。いずれにしろ、もはやプライベートなんて言葉は通用しねえぞ。その辺のことも、きっちりと調べさせてもらうからな」
低く、凄みの利いた声だった。ようやく、この刑事が本性を現したのだ。思えば、初めて会った時から藤川を疑っていたのだろう。
しかし、藤川は何も反応しなかった。ひたすら目を逸らし、口を閉じていた。
すると、大上は口元を歪める。
「なるほど、だんまりで押し通すつもりかい。だがな、警察なめない方がいいぞ。それにだ、あんたはもうおしまいなんだよ」
そう言った後、大上はくすりと笑った。この刑事の笑顔を、初めて見た。
だが、その口から出たのは思いもかけぬ言葉だった。
「ひとつ教えてやる。あんたがさっきからしつこく言っている秋山薫さんだがな、ついこの前あんたは直接会っているんだよ。みんなの見ている前で、本人と話もしている」
「えっ……そんな……」
黙秘を貫く、と決めていたのに、思わず声が出た。何を言っているのだろう。秋山と、どこで会ったというのだ。藤川は、必死でここ数日間の記憶をたどる。だが、それらしき人物には思い当たらない。
次の瞬間、大上の口から意外な人物の名前が飛び出した──
「あんた、こないだ作家の朝倉風太郎と対談したらしいな。実はな、あいつの本名が秋山薫なんだよ。朝倉ってのは、ペンネームだ。俺も、調べてみるまで知らなかったことさ。実際、今まで本名は公表していなかったらしい。あんたはな、中学の時の同級生と十五年ぶりに顔を合わせてた。話もした。なのに、全く気づかなかったようだな」
予想もしなかった話に、藤川は愕然となっていた。思わず、口を開けたまま目の前の刑事を凝視する。
だが、大上の話は終わらない。
「あんな作家先生が、どうやって村本を殺すっていうんだよ。それ以前に、先生には完璧なアリバイがあるんだけどな。あのアリバイを崩すのは、シャーロック・ホームズにも不可能だぜ」
そこで、大上はくすりと笑う。だが、藤川は何も言えなかった。呆然となり、口はあんぐりと開いたままだった。
あの作家が、秋山薫だったのか──
「事情聴取に伺ったら、秋山先生は快く応じてくれたよ。招待状なんか出してない、とはっきり言った。それに、こんなことも言ってたぜ。僕は彼を覚えていました。しかし、彼は僕を覚えていなかった。とても残念でした……ってな。あ、そうそう、あんたはいじめの件でも嘘ついてたんだな。あんたも、村本と一緒になっていじめていてそうじゃねえか。藤川くんがグループのリーダー格だった、とも言ってたぜ。いやはや、あんた大した悪党だよ」
語り続ける大上だったが、藤川はただ聞いていることしか出来ない。彼の脳裏には、対談の時の記憶が甦っていた。
あの時の朝倉は、おどおどした目付きで愛想笑いを浮かべていた。顔は悪くないが、接してみた印象は気持ちの悪い奴でしかない。部下にいたら、確実にいじめてるタイプ……秘書の浮田に、そう言ったのを覚えている。
あれは、全て演技だった。愛想笑いを浮かべながらも、朝倉は頭の中で、ずっと復讐の計画を練っていたのだ。
しかも、話は終わりではなかった。さらに続きがあったのだ。
「ところで……その朝倉先生だが、昨日の夜に動画を投稿したんだよ。中学時代、あんたら五人にやられたことを赤裸々に告白していたよ。その結果、母親が事故で亡くなったこともな。あんたら、揃いも揃ってずいぶんひどいことしてたんだなあ。再生回数は、ものすごいことになってるよ。まあ当然だよな。人気作家の衝撃的な告白だぜ。しかも、今をときめく売れっ子青年実業家と元グラドル、さらに有名格闘家のスキャンダルというおまけも付いてる」
気が遠くなるような感覚に襲われ、藤川は思わずベッドに手を着いた。まさか、あれまでバラされるとは。
今の時代、いじめの加害者だったという過去は完全にマイナスだ。もはや前科に等しい。これが公になってしまったら……たとえ殺人と覚醒剤の件が無罪になったとしても、大きな汚点が残る。
しかも、大上は容赦なく語り続ける。
「あんた、大炎上してるぜ。あっちこっちに悪口が書き込まれてる。よかったなあ、スマホが使えなくて。あんなもの見ちまったら、俺なら立ち直れねえよ。もう、あんた終わりだな」
どこまで深い憎しみなのだろう。朝倉……いや秋山は、藤川が必死の努力で築き上げたもの全てを、ことごとく打ち壊すつもりなのだ。
しかも藤川は、目の前で自分の大切なものが壊されていくのを、ただ見ていることしか出来ない。あいつに人生を滅茶苦茶にされているというのに、反撃すら出来ないのだ。
なんと恐ろしい復讐だろう。しかも、秋山は全く傷ついていない。自ら手を汚すことなく、藤川を破滅に追い込もうとしている……。
「こうなると、自業自得としか言えねえよ。ま、これから取り調べが始まる。覚悟しとくんだな。たぶん、十年は出られないぜ。ただ、ひとつだけいいこともある。あんたがシャバに出る頃には、あんたのことなんか世間は綺麗さっぱり忘れてるだろうよ」
そう言うと、大上は病室を出ていった。彼の顔に浮かんでいたのは、あからさまな嫌悪感であった。
それからの藤川は、虚ろな目で天井を見つめていた。
殺人、覚醒剤使用の罪で、これから取り調べを受ける……誰かが、自分をハメようとしているのは間違いない。
誰の仕業かは、考えるまでもない。秋山だ。秋山が、五人を殺し合わせた。挙げ句に、生き残った自分が犯人になるよう仕向けたのだ。また、何らかの方法で覚醒剤の反応が出るよう細工した。
だが、今は奴のことなどどうでもいい。このままでは、自分は全てを失ってしまう──
その時、ドアが開く。顧問弁護士の横地が、慌ただしく入ってきた。藤川に向かい、真っ青な顔で口を開く。
「藤川さん、大変なことになっていますよ。明日、緊急株主総会が開かれることとなりました。議題は、あなたの代表取締役解任要求です」
何という早さだろうか。藤川は、気を失いそうになるほどの衝撃に、なんとか耐えようとする。
だが次の瞬間、最後の頼みの綱が切れた。藤川は、奈落の底に突き落とされたのだ──
「あと、もうひとつ悪いニュースがあります。奥様から、離婚届を預かってきました」




