“氷解”
安藤は五限目の授業を始めてすぐ、黒板の前で軽い眩暈をもよおした。チョークが折れ、書こうとしていた文字の一部が途切れてしまっている。生徒達の怪訝そうな視線がこちらを向くのを感じた。
つい先日、廊下で風変わりな転入生と話をして以来、体の調子はすこぶる良かったのだが、今はまた不調に戻ってしまっている。
原因は上の階から発せられる妙な圧迫感……。
低気圧が近づくたびに身体の不調を訴える者がいるが、いま自分が感じているのはそれに近いものなのかもしれない。
間違いなく上の階で何かが起こっている。
ただ、不思議なのだ……。この三年C組の上には出入りの出来ない屋上しかないのだから。
安藤は咳払いをすると続きの文字を書き始めた。
あと二十も若ければそれが何なのか確かめに行っていたかもしれない。しかし自分はもう歳をとりすぎた。鬼も蛇も、老体には身に余る。
彼はやはり授業を継続することを選んだ。その判断は正しかった。
今、屋上の中央では全身に氣を漲らせた六郎太と蛇顔が向かい合い、睨み合っている。互いに手を伸ばせば届く距離にもかかわらず、どちらも動こうとはしない。ただただ二人の間の空気だけが殺伐とした重力を帯びてく。
傍から見ていたしおりは思わず目を背けて胸の前で手を重ねた。
このまま何事もなく終ってほしい。でも、きっとそうはならない。嫌な予感だけが加速していく。
「ギ、動くゾ」 肩口でゴブリンが言った。
その通り二人は動いた。双方ともに右腕を持ち上げ、互いに相手の顎へ目がけて拳を放つ。するとどちらもそれを左前腕で受け止め――後方へ弾けたのは蛇顔の方だった。
距離にして一メートルほど飛ばされた彼は自身の左腕を確かめ、忌々しげに口を開いた。
「馬鹿力だけはホンマもんやな。腕なくなったかと思たわ」
六郎太は言葉を返すことなく蛇顔を眺めた。
行者は対象の氣の流れを常に把握しておくため、相手の全体像をぼんやりと視るのが習慣付いている。
出入口では不意を突かれてしまったが、今の攻防ではハッキリと視ることが出来た。奴が右の拳に霊氣をつくる様を。
しかも拳が当たる寸前で、瞬時に霊気を霊氣に変換していた。正直、自分よりも気のコントロールは上手いのかもしれない。ただ、素のフィジカルと飽和霊気量――つまり体外に留めておける霊気の量はこちらが上だ。
霊氣は体外の霊気を集めてつくる。この工程の性質上、霊気→霊氣への変換率に差がなければ生成できる霊氣量でもこちらが上回る。このまま力と速度で押し切れる。
六郎太は足に氣を集めて前へ踏み込んだ。
対する蛇顔は突っ込んできた彼の側頭部に左フックを置き、迎撃を試みる。
しかし、拳がこめかみを捉える寸前、六郎太は身を屈めてこれを反時計回りに潜ると、がら空きの脇腹を目がけて右拳を振りかぶった。
ガシッ――と、その拳がめり込み肋骨粉砕――かと思いきや、先ほどとは違い分厚い手応えに、六郎太の眉が寄った。
蛇顔はニヤっと厭らしい笑みを浮かべ、動きの止まった彼の顎へ右を打ち下ろす。
まともに貰った六郎太はふらつきながら二歩、三歩と後退り、切れた口の端を袖で拭った。
その様子に蛇顔が冷笑う。
「なんや今のボディブロー。蚊がとまったかと思ったわ」
六郎太は細まる蛇目を激しく睨みながら、口に溜まった血を唾と一緒にペッと吐き出す。
二人の攻防を傍で見ていた永子が「へえ」と面白そうに声を漏らした。その隣で見ていたしおりには何が起きたのかさっぱりだった。気付けば六郎太が殴られていた。彼が劣勢なのは何となく察しがつく。
「毬倉先生、まんじ君は大丈夫ですよね……?」
しおりの心配そうな顔を見て、永子が心持ち眉を顰める。
「まあ六郎君は頑丈だから。でも、あの関西弁――“力”の使いどころが上手いわ。相手が行者とわかったうえで吹っ掛けてくるだけのことはある」
いやに感心した様子の養護教諭を見て、しおりが不安げに眉を落とす。
それを肩口から見上げたゴブリンはたまらずフォローを入れる。
「ギギ大丈夫だ。オレと戦った時の旦那はもっと速くて強かっタ。まだ本気じゃないのサ」
しおりはぎこちなく微笑むと、再び六郎太へ目をやった。
その視線を一瞥した蛇顔が咥えた楊枝を口の端で上下に揺らす。
「なんや、女性陣がわいらの噂話しとるみたいやな。わいへの声援なら嬉しいんやけど」
六郎太がふん、と鼻で笑う。永子ならいま自分が抱いている疑問の答えを知っているのかもしれない。
先ほどの腹への一撃。あの瞬間、奴の腹を守る霊氣の量は明らかに奴自身の飽和霊気量から生成できる値を上回っていた。
それを可能にするには霊氣を作り、減った飽和霊気が内より供給されるのを待ち、また霊氣をつくる。この繰り返し――つまり時間と溜めが必要だ。あの一瞬で生成するなどありえない。あらかじめ氣を錬っていた様子もなかった――
奴が三味線を弾いている可能性もなくはないが、仮に普段から飽和霊気量をごまかし、生成できる霊氣の量を偽っているのだとしたら、顎への一撃がそこまでじゃなかったことに合点がいかない。腹部に生成したくらいの霊氣を拳に込めていれば、もっと効かされていただろう。最悪意識を刈り取られていたかもしれない。なので飽和霊気量に偽りはない――はずだ。
六郎太は相手の全体像を見据えて目を細めた。体の周りで青白い光の像が炎のように流動している。留めきれなくなった霊気が、その輪郭のうねりに合わせて宙へ散っている。
凪いでこそいないが改めて視ると霊力もかなりのものだ。素のフィジカルが人外の自分ならまだしも、中役以下の行者であれば最初の一合で押し負ける者も少なくないだろう。
「お前、名前は?」
六郎太が訊ねると蛇顔の眉が上がる。
「わいに勝てたら教えたる。あ、B組で聞きまわっても無駄やで? 勝手にわいの個人情報喋った奴は罰金や言うてあるさかい」
「冗談だろ?」
「当たり前やっ」
神妙な面持で聞き返してくる六郎太を前に、蛇顔が初めて狼狽した。
六郎太にはなぜ彼が急に焦りを見せたのか、いまいち理解が出来なかった。ただ無性に名前は気になった。同年代の人間でこれほど力をぶつけられる相手がいなかったからかもしれない。いきなり殴られイラっとはしたが、言っていたように『もしも妖なら』という言葉も的を射てる。人を食ったような態度や言動はムカつくが面白い奴だ。
「悪いけど次はマジでいく。頼むから死ぬなよ」
六郎太の言葉に、蛇顔はこれまでとは一転、真剣な面持になる。
それを認めて六郎太は踏み込んだ。今度は可視化するほどの霊氣を足に漲らせて。
すると先ほどとは桁違いの速度に蛇顔は驚愕した。
あまりにも想定外だったのか、彼は眼前に迫る相手を認めながらも、遅れてきた風の音を聴いてやっと足を動かした。それから焦燥を露わに飛び退き、口の中で何かを呟く。
そんな蛇顔を六郎太は右腕を振りかぶりながら追った。
狙いは先ほどと同じ腹。ガードでも何でもすればいい。防御する腕ごと叩き折る。
そうして剛毅と共に放たれた右拳が目標である左脇腹へ奔った。
すると激突の瞬間、十字に折りたたまれた蛇顔の腕が自身の腹を庇うように拳の前に滑り込んだ。
ガキンッ――と、耳の奥を突くような硬い金属音が辺りに鳴り響く。衝撃で、拳を受け止めた蛇顔の体が一メートル以上も浮いていた。
――が、豪打を阻んだ彼の腕には青い霊氣が纏われおり、腹部はもちろんのこと殴打された腕部すらも完全に無傷を保っていた。
それでも尚、彼が苦悶の表情を浮かべたていたのは六郎太のパンチの凄まじさ故か。
着地した蛇顔は続けざまに飛んできた左拳を後方に転げて避けると、以降追撃がこないことを覚り、ほとほと呆れたように立ち上がり息を漏らした。
「ほんまパワーとスピードは一級品や。けど、決め手にかけるわ。なんで倒れたわいを追ってこんのや? 嘗めとんのか?」
六郎太はいや、と内心で否定した。本当にそんなつもりはなかったからだ。
彼はただ追えなかっただけなのだ。今の一撃は最初の腹への攻撃よりも遥かに強く打った。例え件の霊氣でガードをされても突き破れるだけの力を込めていた。
それにもかかわらず倒しきれなかった、という事実が彼の二撃目を散漫にさせ、剰えそこからの好機に対する一歩を踏み止まらせた。
蛇顔が、硬い表情の六郎太を蔑むように眺めて、大きく息を吐く。
「がっかりや。派遣されてくる行者がどれほどのもんかと期待したけど、馬鹿力だけが取り柄やとはの。次で終わりにしたるわ」
へえ、と六郎太は余裕の笑みを覗かせる。ただ、内心では焦っていた。
今の攻防で蛇顔の腕を覆っていた霊氣は、飽和霊気量から推定される霊氣生成量の倍近くはあった。
卓越した行者でも霊氣への変換率は飽和霊気量の50%が限界と言われている。
つまりパンチを受けたあの瞬間、奴が生成していた霊氣の量は、最大で飽和霊気量の100%に迫るという事になる。しかも腕以外の部分にも通常通り霊気を纏っていた。
それらを加味すると、体外の霊気と霊氣の総量――つまり霊力は、瞬間的にこちらを上回るだろう。
まさか行者ですらない者が……さもありなん、か。
六郎太はしおりを一瞥すると、蛇顔に向かって駆けた。どのみち近づいて殴るしかない。少なくとも防御をされなければ、一打必倒は無理でもダメージくらいは与えられる。
そう思い一気に距離を潰した六郎太は、蛇顔の腹に左拳を大きく回し打つ。
改めてその脚力と剛腕に度肝を抜かれながらも、蛇顔は右後方へバックステップで躱す。
足の速さはそうでもない。跳ぶのを見てからでも余裕で追いつける。
と、目標を正面に捉えた六郎太は『当てることが最優先』と脳内で唱え、肩の高さに置いた右拳を相手の顎へ目がけて真っ直ぐに突き出す。拳骨にゴンッと衝撃が走る。
やや浅いが手応えあり、だが――霊氣の量が普通だった?
六郎太は内心で首を捻りながら、後へふらつく蛇顔の側頭部を狙って左拳を引いた。
勝った、と思った、その時だった。目の前に異物が割り込んだ。視界の中央で数センチほどの細い木の棒がくるくると宙を舞っている。
楊枝? 構うな、このまま左を入れれば終る。
そう思い左腕を振ろうとすると、ふと蛇顔の顔が目に入った。
笑っている――? いや、口元が動いていた。
「ⴽⵄⵏⵄⵢⵄⵣⵄⵜⵇⵢⵓⵜⵇⵓ,ⵉⵏⵇ,ⵄⵜⵄⵢⵄ《この世を揺蕩う源よ》 ⵣⵇⴳⵇⴽⵉⵣⵄⴽⵓⵔⵇⵉⵜⴻⵛⵀⵉⴽⵇⵔⵇⵜⵄⵏⵇⵙⴻ《我が氣を喰らいて力と成せ》」
聞いた事のない言語を耳にして、六郎太は今やっと悟った。何故、彼の霊氣が突然増えるのかを。
傍で見ていた永子が目を細めると、しおりの肩からゴブリンがたまらず叫んだ。
「ダンナ! 詠唱ダ!」
だが、その声が届いた時にはもう遅かった。
六郎太の眼前に舞う楊枝から、突如として無数の蔓が生えた。そしてそれがまるで蛇の如く彼の体に巻きついた。
あっという間に拘束されてしまった六郎太は「くそっ!」と声をあげ、力まかせに蔓を引き千切ろうとした。
しかし胴や四肢が少しでもズレれば直ぐに元の位置へ戻されてしまう。おまけに思うように霊氣を錬れない。明らかにただの植物ではなかった。
「無駄や。そいつは巻き付いた対象の霊気や妖気を己が力に変え、相手の動きを巻き付いた時の状態へ矯正する。霊力の高さが仇になったな行者。ただまあ安心せい、それそのものに殺傷力はない」
やれやれといった表情で顎をさする蛇顔を、六郎太がキッと睨んだ。
言われた通り、霊氣を込めると込めたぶんだけ抜けていく。いやらしい術だ――
「まさか氣術師だったとはな。霊氣の不自然な増加も霊氣術の類か?」
蛇顔が面倒臭そうに「せやで」と答える。それから右拳を持ち上げると、
「ⵣⵇⴳⵇ,ⵉⵏⵉⵜⵇⵢⵓⵜⵇⵓ,ⵉⵏⵇ,ⵄⵜⵄⵢⵄ《我が身に揺蕩う源よ》」 謎の言語を口にし、途端にその手が青白い光に包まれる。
それを見て六郎太が舌を打った。蛇顔の飽和霊気量に変化はない。つまり――
「そういうことや。体外の霊気やない。これは内包する霊気の一部を直接霊氣に変えて放出と維持をする」
「は、便利な術だぜ。そんなお手軽に霊力のかさ増しが出来るなんてな」
六郎太が皮肉めいた笑みを浮かべると、蛇顔が「そうでもないで」と言って彼に近づき、その右拳で六郎太の腹を殴った。
ズンと芯にくる重い痛みに六郎太は思わず鈍い声を漏らす。
蛇顔はそんな彼の反応を無視して「見てみい」と右拳を再び顔の前に持ち上げる。
「この術でつくった霊氣は一行動で消費される。それが成功しようがしまいがな。つまり、これを一回やるたびに、こっちは通常の何倍もの霊気を直接内側から削られるんや。正直、全然割に合わんわ」
確かに使いどころは難しい。術者のセンスが問われる。しかし的確に攻撃を当てられる、または受けられる状況を作り出せるのなら強力な矛と盾になる。しゃくだが術そのものよりも、それを扱う奴が巧いのだ。
六郎太は奥歯を噛んだ。氣術の知識に疎いとはいえ、気付くべきだった。気付くチャンスはいくつもあった。永子なら初っ端で気付いていたはずだ。
彼はそう思いながら離れたところで見ている彼女へ目だけを動かした。
するとドン、と腹部に衝撃を受けて意識を正面に引き戻される。
「余所見しとんなや」
蛇顔の拳がさらに腹と頬にぶつかる。
蔓の影響でうまく霊氣をつくれない。六郎太の防御力はほぼ素のフィジカル頼みである。しかも体の動きで力を逃がしたくても、蔓の抗力で直ぐに元の状態へ戻されてしまう。
そうやって一方的に殴られる彼の姿に、しおりは思わず顔を背けた。
「なんの意味があるんですか……こんなの。こんな殴り合いに何の意味が――もう止めてください」
彼女の悲痛な叫びを聞いて、隣に佇む永子が感慨無さそうに口を開く。
「意味の有無なんて関係ないわ。一方が一方をただただ虐げる。目の前でそういうことが起きている、ただそれだけよ。行者になればそんな意味のない凄惨な現場を嫌でも見るはめになる。しおりちゃんも行者になるならそれは覚悟しておいたほうがいいわ」
しおりは押し黙ると小さく頷き、涙の溜まった目を六郎太へ向けた。
永子はそれを一瞥して微笑んだ。
「強い子ね」
「まんじ君はもっと痛い思いをしてますから」
しおりはそう言って奥歯を食いしばると、こぼれ落ちそうになる涙を必死に堪えた。殴られているのは彼なのに、見ているだけの自分が泣いていてどうする。
「んー、まあでも、そろそろ止め時かしらね」
永子の言葉にしおりの意識が彼女を向く。
「まんじ君は……もう限界だと思います。私には止める力も権利もないけど、先生なら――」
「あー、違う違う、六郎君はあのくらい平気よ。そんな軟な鍛え方したつもりはないもの。むしろ心配なのは関西弁のほう。彼、あのままだと六郎君に殺されるわ」
しおりは思わず養護教諭の顔を見上げた。
「なんや、お前ほんま何で出来とんねん。こっちの拳が潰れそうやわ」
頭部を前に倒し、ぐったりとする六郎太を眺めて、蛇顔が手首をぷらぷらと振った。それから返事のない彼にちっと舌を打ち、詠唱を始める。右手が青い霊氣に包まれる。
「これでしまいや。死んでも化けて出るなよ」
蛇顔は六郎太の腹を思い切り右拳で突きあげた。
だが直ぐに、ん? と彼は首を捻った。今までよりも硬い。霊氣は作れないはずなのに。これは、妖気――と、脳裏を掠め、拳を引いた瞬間だった。
突如、六郎太の体に巻き付く蔓が赤熱した。
「な、なんやねん!?」
狼狽する蛇顔へ鬼気を湛えた六郎太の瞳が向く。
「調゛子゛に゛の゛っ゛て゛ん゛じ゛ゃ゛ね゛え゛よ゛」
まるで呪怨のような声と共に蔓は炎を噴き上げ、自ら崩れ落ちるように瓦解した。
蛇顔は慌てて飛び退き、構えた――が、獣の如く右腕を振りかぶる六郎太が既に目の前を陣取っていた。
しかも右腕が燃えている。石油火災の如く黒煙を吐きながら――真っ直ぐに向かってくる手――いや、炎を前に蛇顔は思わず目を瞑った。
「はい、そこまでー」
そう言って、いつの間にか移動していた永子が、横合いから六郎太の右手首を掴んだ。猛る炎と灼熱の黒煙で、彼女の手は一瞬にして皮膚が捲れ上がった。
六郎太はハッとして永子の腕を振り払う。
「何やってんだ! よーこちゃん!」
しかし彼女は手の事など意に介さず、
「それはこっちのセリフよ。多少氣術が出来るとはいっても、奸者でもない人間相手に“力”を使ってどうすんの? 殺す気?」と困った顔をした。
あまりの出来事に唖然としていたしおりは、ゴブリンに「行くぞ」と促され、いま目覚めたみたいに無心で三者へ駆け寄った。しかし近くまできて彼女は直ぐに口元を押さえて足を止めた。永子の手の焼けた臭いが漂っている。本能に訴えかける悪臭だった。胃から昼食がせりあがってくるのを感じ、しおりは涙を溢しながらそれを押え込んだ。
永子はそんな彼女を一瞥してから蛇顔を向くと「勝負ありってことでいいでしょ?」と提案した。蛇顔は彼女の手に目をやり「ああ、もうええ。十分わかったわ」と告げる。
六郎太は心配そうに彼女の焼け爛れた手を見つめていた。
それを察して永子が小さく息を吐く。
「そんな目しないの。それに、あたしを誰だと思ってんの? 毬倉永子様よ?」
「でも、俺のせいで……」
二人のやりとりを聞いていたしおりが大きく頭を振り、
「今はとにかく――」早く病院へ行かなきゃと訴える。
しかし永子はそんな彼女を見つめて「何故?」と、不思議そうに首を傾げた。
「な、なぜって――、どうみても大怪我じゃないですかッ。そんなの、見てるだけで痛いじゃないですか……自分だったらって思うと……」
ぼろぼろと涙を流すしおりを、永子はどこか羨ましそうに見つめた。
「痛み、か――。そんなもの、とうの昔に置いてきたわ。でもまあ、六郎君もしおりちゃんも気になって仕方がないみたいだし」
永子がやれやれと頭を振る。すると彼女の胸元で何かがもぞもぞと蠢いた。
服の中を通るそれが焼けた腕の方へ移動していくと、炭化した袖口から無数の蛆が這い出てきた。蛆虫は火傷を覆いつくし、赤黒く爛れていた彼女の右手はあっという間に凸凹とした乳白色に包まれた。
「一日もあれば綺麗に治るわ」
永子がニコっと笑いかけると六郎太は安堵の表情を浮かべた。
しおりはただただ怪訝にその様子を眺めるしか出来なかった。虫は得意じゃないが、そんな事すら忘れるくらい、何をどう理解していいのか分からなかった。
永子はそんな彼女の表情を面白そうに眺めてから、蛇顔に訊ねた。
「で、君の目的は、力試しかしら? 行者の」
「ああ、その通りや」
蛇顔の答えに六郎太が眉を顰める。
「なんの目的があってだ?」
「はあ? そんなん決まっとるやろ。わいが<神隠し>の件をおたくらに依頼した依頼者様やからや」
え!? と、しおりが思わず声を上げた。
六郎太も驚きのあまり、
「よーこちゃん、まじ?」と訊ねる。
永子は眉を寄せ、明らかに困った顔になった。
「いや、あたしも依頼者が誰かは聞いてないから。業事ではよくあることだけど」
まあ確かに、と六郎太が首を捻る。
役会の業事は依頼者側に何かしらの事情があり、実働する行者へは一切接触しないということがままある。今回は永子が<会>から直接言い渡されたものを六郎太へ伝える、という流れだったので、まさにである。
「でも、あなた確かB組の――」
そう言って、たまらず話に割り込んだのはしおりだった。
クラスが同じになった事はないので名前までは知らないが、一年の頃から彼のことは何度か見かけたことがあった。同じ学校にまさか、こんな特殊な力を持つ生徒が居たなんて――
眉を寄せるしおりを見て、蛇顔が後ろ頭を掻く。
「はあ、まあ勝負は引き分けやけどええやろ。わいは鈎兵衛。そんじょそこらの関西人とちゃうで? 君はA組の山神しおりちゃんやろ? 憑りつかれてるのは知ってたけど、平気そうやったから放置してたわ。行者との遣り取りも“視させて”もろてたけど、まあ結果オーライやったな」
「ギギ」と、しおりの肩から実体化したゴブリンが顔を覗かせる。
「それにしたって答えになってねえぞ。わざわざこっちの力を確かめる必要がなんである」
六郎太が鈎へ詰め寄った。
しかし、先ほどのように争いにはならなかった。彼が隠さず理由を話したからだ。
彼が<神隠し>に気付いたのは放課後の晩い時間。
たまたま学校に残っていると突如校内を満たす妖気を感じ、さらに次の日にはA組の生徒が一人消えていたので、そこで気付いたらしい。そして彼が問題視しているのは感知した妖気の強さ――
あまりにも強力だったため一人での討伐は不可能。行者でも中途半端な戦力だと無駄に相手を刺激して、被害を増やす結果になるかもしれない。それを危惧して、どうしても派遣されてくる行者の力量を知りたかったとのことだ。もしも戦るなら確実に対象を殺せる人選で臨みたい――というのが彼の意向だった。
鈎は話し終えると六郎太を見据えた。
「お前は合格やけど、ひとつ疑問がある。火氣が使えるならなんで最初から使わんかったんや? 嘗めてんのか?」
「別に嘗めてねえ。それに――」
六郎太は憂いを帯びた瞳で見返した。
「火氣でもねえよ」
これに鈎は怪訝な表情を浮かべる。
「はあ? どういうこっちゃねん。お前、火を……。いや、さっきのあの妖気――、じゃあまさか、お前……」
そう言って鈎は口を閉じた。
二人のやりとりを交互に見ていたしおりは、ただならぬ気配を察し、それがどういう意味なのか訊ねようとした。
するとその直前で永子が「あ!」と声をあげた。
皆が一斉に彼女を向く。
「五限目の授業がっつりサボっちゃってるけど」
永子の言葉に学生の三人は顔を見合わせる。諦めにも似た表情の鈎。ばつが悪そうなしおり。それがどうした? という顔の六郎太。互いに互いの反応を見て小さく笑い合う。
「赤信号みんなで渡れバなんとやら、カ」
ゴブリンは今後の三者の行動を予見するかのように呟いた。