“原罪意識”
ゴブリンの視線が自身を咬む六郎太の手に注がれた。力が緩んでいる。抜け出すことも出来たがやらない方がいいと判断した。案の定、視線がこちらを向き、その行動が正解だったと緑の小人は覚った。
「事情は聞く。こいつをどうするかはそれから決める」
六郎太が硬い声で言うと、山神しおりは小さく頷き話を始めた。
それは彼女が小学校六年生の時だった。
ある日の放課後、しおりは同クラスの女子グループのリーダーに呼び出しを食らった。学校行事以外で声を掛けられたのは初めてだった。
指定された体育館に行くと、リーダー格の女子と、その周りに数人の女子生徒が立っていた。
何をされるんだろう……という不安もあったが、ゴブリンの影響で当時から孤立していた彼女にとっては、初めて人間の友達が出来るかもしれない、と淡い期待を抱いた瞬間でもあった。
だが、待っていたのは罵声の嵐だった。それもまったく身に覚えのない内容である。
しおりは落胆しながらも嫌われているからと納得し、黙って聞いていた。
するとやたらと担任教師の名前が出ることに気が付いた。なぜ先生が? と思いながら彼女達の話を頭のなかで紡いでいく。そして、恐ろしい事実に気付いてしまう。
それは彼女達が担任の男性教師と肉体関係にある、という事実である。しかも彼の次の狙いが自分だという事も、彼女たちの罵詈雑言から察することが出来た。どうやら彼女達は孤立している自分が先生に選ばれた事に納得がいかないらしい。
思えばリーダー格の女子をはじめ、その場に居る少女達は学年のなかでも目立つ、所謂カースト上位の生徒達ばかりだ。彼女たちからすれば最底辺の自分がそこに加わることで、自尊心を傷つけられたと感じたのだろう。小学生でも女は女だった。その日は言われるだけ言われて帰された。
後日の昼休み、しおりは担任教師が一人なのを見計らい廊下で声を掛けた。当然、彼の本性について――今すぐにそういう事は止めた方がいい、と。彼女からすれは善意であった。
というのも彼は二十代の後半と教師の中では若く、生徒達からは先生というよりも“イケてるお兄さん”で通っていた。教師達からの人望も厚く、男女問わず気を惹く、独特な色気を醸す青年であった。実際しおりも、例の件を知るまでは彼のことを普通にいい先生だと思っていた。知った後でもまだやり直せると信じていた。「馬鹿なこと言ってるなよ」と笑顔を浮かべる彼を見て、その思いはより一層強くなった。しかし、事件は起こってしまう――
同日の放課後、また女子グループのリーダーに呼び出された。場所は屋上だった。
行くと、先日と同じメンバーが待ち構えていた。ただし、昨日とは目つきが違っている。“やる”と決めた目なのは何となく察しがついた。案の定、子供とは思えない形相で彼女達が掴みかかってきた。しおりはあっという間に扶壁の側まで追いやられてしまった。
不安と恐怖で震えていると、一番体格のいい少女が体を抱え上げようとしてきた。どうやら彼女達は自分を屋上から突き落すつもりらしい。「あんたを殺さないと先生にふられる」と甲高い声をあげていたリーダー格の顔は今でも鮮明に覚えている。
しおりはなんとか抵抗しながらも必死に考えた。何が最善かを――
そして抗うのを止めた。このまま自分が死ねば嫌でも事件になる。そうすれば警察が動き先生の悪事も公になる。彼女達は救われ、このさき犠牲者もでない。これしかない。
扶壁の前に備えてあるパイプ状の柵に体を押し付けられながら、彼女は覚悟を決めた。
がしかし、一連の流れを彼女の側でずっと見ていたゴブリンは違った。妖にとって憑いている対象は餌でしかないが、それでも自身の所有物であることに変わりはない。それを勝手に奪われるのは我慢ならない。
結果、少女達はみな病院送りとなり、しおりは守られた。
この事件は学区内でもかなり大きく扱われ、教師、教育委員会、さらには警察も介入する事となった。
事件の当事者にもかかわらず一人だけ無傷のしおりは当然のように疑われたが、警察は凶器の特定すらできず、疑念を抱えたまま未解決事件として処理するほかなかった。妖の仕業なので当然といえば当然である。
加えて先生の悪事が明るみになる事もなかった。ただ、彼はその後すぐに教師を辞めた。今はどこで何をしているかもわからない。
話を終えたしおりが含みのある表情で俯いた。六郎太はそれを見やって再度手に力を込めた。ゴブリンが苦しそうに呻き声をあげる。
「確かに、同情の余地はある。その教師は死ねばいい。ただ、だからといって妖が人を襲っていい理由にはならねえよ。人間のことは人間同士で処理するのが真っ当だ」
六郎太の言葉に、しおりは大きく頭を振った。
「違う、違うのまんじ君――。私は彼女達がゴブちゃんに襲われている時に止めなかった。止めようという気もなかった。正直いい気味だって思った。いつも私を邪険にする彼女達が恐れおののく姿を見て、愉悦に浸っている自分がいたの……」
彼女はそう言って口をつぐむと、どこを見るでもなく呆然とその場に膝から崩れ落ちた。
「ゴブちゃんは悪くない。一番悪いのは私。私が最初から先生の事を他の先生や警察に言っていればあんなことは起こらなかった。きっと私は心のどこかでああなることを望んでた……。それにいまクラスで人が消えているのも気付いてる。あの現象が怖い、どうしていいのかわからないって思う反面、消えた生徒に対してざまあみろって思う私がいる。私の中に邪悪な私がいるの。本当に罰を受けなきゃいけないのは私。本当に妖がいるのなら、それは私――」
血を吐くように吐露された彼女の真情を聞いて、六郎太の中でひとつ腑に落ちることがあった。それは、なぜ今も彼女は辛い思いをしてまで学校に通うのか、だ。
おそらくは贖罪――
彼女が感じている罪の意識、それに対する罰が自分が虐げられる環境に身をおくことだったのだろう。だが結果として、それが今もなお彼女の心に闇を生み続けている。
恨み辛みがあるのは悪い事ではない。人間なら誰にでも邪悪な面はある。だからこそ役会では人の心を<邪>と表現する。むしろそうやって悔い続け、邪な自分を否定し続けているのは彼女が清い証拠だ。彼女の本質が光だからこそ、そこにちらつく闇が許せないのだ。本当に悪逆無道の存在は罪の意識すらない。闇を闇と認識していない。
「山神、もういいんじゃねえか自分を許しても。むしろ話を聞く限り、お前は自分を犠牲にしてまで変態教師の悪事をばらそうとした。そこから先の事はゴブリンが勝手にしでかしたことだ。お前が気にやむ必要はない。少なくとも俺はお前を邪悪だとは思わない。そういう一面も含めてお前だろ」
六郎太の言葉に、しおりの目からは自然と涙が溢れていた。
おそらく彼女の罪の意識は一生消えることはない。でもそれは彼女の清らかさゆえだ。
白いキャンバスに一度黒を塗ったら、何度ふき取っても、何度上から白を塗り重ねても、それはもう元の白ではなくなる。それと同様に、一度染みついた罪の意識はどんなに贖ったところで無くなることはない。だからこそ彼女には許しが必要だ。横から「もう十分白いじゃん」って言ってあげられる人が必要なのだ。
人は他者に“そう”認識されて初めて“そう”と思える。“それでいい”のだと自覚することが出来る。そして、それはきっと赤の他人である自分が言うことに意味がある。六郎太はそんな気がした。
ただゴブリンの扱いに関して別だ。どんな事情があろうと見つけた妖は祓わなければならない。それが<会>のルールだ。そこに善悪観念が入り込む余地はない。
何故なら人間にとって妖は“害”なのだ。側にいれば体に変調をきたし死にいたる。体に癌細胞が出来れば取り除くのと同じように妖がいるのなら祓わなければならない。
彼女にそのことを伝えると「祓うって殺すってこと……?」と呟いた。
六郎太が無言で頷くと、彼女は「わかった」と声を殺し、それから「最後に――」と口にして六郎太とゴブリンの元へ歩み寄る。
「ギギしおり……」
目を潤ませるゴブリンへしおりが手を伸ばす。
「ごめん、まんじ君、ゴブちゃん――」
そう言って幽愁を帯びた瞳を双方へ向けたしおりは、突然ゴブリンの腰にあるナイフを抜いて自身の首に突きつけた。
「こんなやりかた間違いだってわかってる。でも……ゴブちゃんが死ななきゃいけない理由が見つからない。もし妖だからってだけでこの世に居ちゃいけないのなら、私は命をかけてその世界を否定する。ゴブちゃんを殺すなら私も死ぬ――」
六郎太はふざけるなと手を伸ばすも直ぐに引込めた。彼女の目は本気だった。
淀みなく真っ直ぐこちらを向いた瞳には、一切を省みない意志の強さを湛えている。死すら受け入れ、たったひとりで世界を敵にまわすことも辞さない。そんな覚悟のある目をしていた。
こうなると当然ゴブリンの出方次第になる。
「ギギ形勢逆転だナ」
緑の小人が手のなかでにたりと笑みを浮かべる。
六郎太がそれを見て舌を打った。
「ギギこういう状況で妖ガどうするかわかるカ?」
ゴブリンはそう言って右手の指を鳴らした。するとしおりの手からナイフが消えた。正確には霊体化したことによって彼女の手をすり抜け、宙をくるくると回りながら小人の腰に納まっていた。
これには六郎太もしおりも呆然とした。
「どういうつもりだ? 妖のくせに」
「ギギ行者はみんなそうなのカ? 旦那が特別そうなのカ? やたらと“人間と妖”ってものに拘って見えル。旦那のなかにいるソレがそうさせるのカ? 確かにアンタは誰よりも妖の恐ろしさをわかっているだろうからナ」
てめぇ、と睨む六郎太を見かえしゴブリンが続ける。
「事件を起こした俺ガ、なんで行者に見つかるリスクを覚悟でずっとしおりに憑いてると思ウ? アイツを気に入っテるからダ。人も妖も分け隔てのなイしおりとなら、ずっと一緒に居れらルと思っていからダ。ダガ、今回のことで思い知っタ……。アイツは昔から危ういところがあったガ、そうさせテいたのはオレだッたのだナ。今だってそうダ……。アイツが死ぬくらいならオレが死んダほうがイイ。それがアイツの“世界”のため――アイツが人として生きていくためダ。ダカラ、さっさと殺セ」
小人が晴々とした笑みを浮かべると、しおりが大きく首を横に振った。
「ダメ――ゴブちゃん、ひとりにしないで」
彼女はまるで親とはぐれた子供みたいに訴えた。
六郎太は双方に目をやり逡巡した。
妖を祓うことで人を助ける。それが自分の贖罪のはずだ。それなのに、ここでゴブリンを祓ったら、誰も救えない気がする。彼女の意志を無視して妖殺を行なえば、それは力がある者がない者をただ虐げるだけの行為ではないのか……野口や伊藤、果てには人々を襲う妖と変わらないのでは…………。
六郎太は頭を振ると、声を飲むように泣く彼女を見つめ、それから永子へ向いた。
「悪いなよーこちゃん。俺、こいつ祓えねえわ」
ゴブリンが「ギ!?」と心底驚いた顔をした。しおりは糸がきれたかのように呆然としている。ただその表情にはそこはかとなく安堵の色が見てとれる。
ただ、そんな一者一妖の反応とは裏腹に、永子の瞳は暗く沈んでいた。
「それは<会>を敵にまわすってことだけど、覚悟はできてるのよね?」
「ああ、最悪“力を使う”よ。でも、出来ればよーこちゃんとはやり合いたくないな」
そうやって二人の視線が数秒ぶつかり合うと、ぬらりと永子が移動した。速いというよりは迅い。その場の誰もが反応すら出来なかった。
彼女は六郎太の横合いを陣取ると、彼の頭にヘッドロックをかまし――破顔した。
「まったく、仕方ないわね。この永子様がどうにかしましょう!」
六郎太はぽかんとしたままそれを受けていたが、直ぐに「痛ってえな」と彼女の腕をどけた。その流れで五指から解放されたゴブリンがしおりの元へ飛んでいく。しおりは涙のちょちょぎれた小人を満面の笑みで抱きとめた。
理由は違えど、その場の皆が口元をほころばせていた。
雨もとっくにあがっていた。