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魔性転生  作者: 邪
第二幕 ―秘匿島―
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“序章”

 深夜二時――男は逃げていた。背後には軍服を着た追手が迫っている。さらにその後方では特殊車両に取り付けられたサーチライトが右に左に辺りを照らしていた。

 ――必ずこの国を、北朝鮮を抜け出す。

 日本では脱北と呼ばれる行為である。非常に重い罪となるため、これを行なう者は死を覚悟する。幸い、男は独り身で両親も早くに亡くしていた。なので、もしも捕まっても処罰を受けるのは自分だけで済む。しかし捕まるわけにはいかない。捕まるくらいなら死んだほうマシだ。脱北に失敗した者がどうなるか――考えただけでも全身に虫を這わせたかのような気分になる。

 だからこそ、追手に銃を向けられているこの状況でも逆に冷静でいられるのかもしれない。覚悟は決まっているのだ。捕まるくらいなら自害すると。

 沿岸の崖に海を背にするかたちで立った男は、目の端で崖下を一瞥した。幸か不幸か嵐によって海は荒れに荒れている。船は出られない――目の前には追手の兵士がざっと10名以上。抵抗は無駄だろう。半殺しで捕らえられ、その先は――

 男がぶるっと震えた。

 日本ではこういう時に南無三と唱えるらしい。男は片言の日本語で「ナムサン」と唱えながら思い切り後へ跳んだ。兵隊たちが慌てて駆け寄り、崖から落ちていった男を目視で探す。しかし見えるの真っ暗な海だけだ。それも絶え間なく波打つ――

 兵隊達は数秒ほど海へ銃を乱射し、その場を去った。

 それから24時間後――男は海に浮かんだ状態で目を覚ました。

 ――生きている……。嬉しさで涙が止まらなかった。日本海に入ってしまえば……そうだ、ここは今どのあたりなのだろう。

 男は立ち泳ぎになり、周囲を見渡した。波は緩いが、360度、地平線の彼方まで海しか見えない。となれば――

 男は空を見上げた。月の位置と星座の位置からおおよその方角くらいは割り出せる。自分が今どこにいるのかは分からないが自分が海に飛び込んだ位置を基準に、そこから日本のある方角へ――男は一心不乱に泳いだ。しかし直ぐに身体が動かなくなった。疲労もそうだが脱水症状が酷い。眩暈がする。気を失いそうだ。ここで死ぬのか――

 男がそう諦めかけると、声が聞こえた。

『こっちだ。こっちへこい』

 男は声に促され、縋るように泳いだ。すると次第に強烈な眠気に襲われ、気を失ってしまった。

 男が次に目を覚ましたのは砂浜だった。

 日が眩しい。空が――青い。男は立ち上がり、海を背に辺りを見まわした。建物などは見あたらない。背後には海、眼前には鬱蒼と茂る森があるだけだ。見覚えのない景色――北朝鮮でないのは間違いない。

『こっちだ。こっちへこい』

 声が聞こえた。海で聴いたものと同じ。森の中からだ。幻聴かもしれないが、どのみちここに居ても仕方がない。

 男は声に従って森へ入った。道らしい道はなく、当然人の気配もない。ただ、どういうわけか見られているという感覚はある。明らかにこちらを意識した視線――野生動物ではなさそうだ。人に近いなにか。人ではないなにか。

 男は頭を振り、とにかく進んだ。胸まである草をかきわけ――どのくらい歩いたのだろう。既に日は沈みかけていた。

『こっちだ。こっち』

「わかってる。でも喉が渇いたんだ。水が欲しい」

『こっちにくれば水がある。新鮮な水だ』

「飲みたい。案内してくれ」

 男は声に誘われるがまま歩いていく。すると洞窟に着いた。奥からひんやりとした風が流れてきた。

『こっちこっち』

「この中か? 水をくれ」

『こっちにくればある』

 もはや汗もでない。意識が朦朧とする。迷っている暇はない。

 男は洞窟に足を踏み入れた。光源はなく、進路は人がぎりぎりすれ違える程度の幅しかない。黄泉の国へと続く道と言われれば信じてしまうかもしれない。

 そうして、しばらく進むと行き止まりにぶつかった。もう進路はない。

「水……水は……」

『こっちだ。ここに水が入ってる』

 男は声に促され、足元に目を凝らした。屋根の取れた一社型の神棚が転がっている。

 それを見て、男は思わず涙を流した。何なのかはわからないが和風のつくりなのは間違いない。ここは日本なんだ。

「コノナカデスカ、ミズ」

 片言の日本語で男が訊ねる。脱北後、日本で生活するために言葉は勉強していた。

『開けろ。ここを開ければ水呑めル』

「わかった」

 考えている余地はない――男は神棚の戸を開いた。しかし、何も入っていない。

「ウソ。ニホンジンヤサシイ。ウソツカ」

 言葉途中で男は突然地面に転げた。立とうとしても身体が言うことをきかない。

 地面でもがいていると、頬にぴちゃりと水の感触を覚えた。

「水……水……」

 男は必死に地面に出来た水溜まりを啜った。

 しかしどういうわけだろう。喉の渇きがいっこうに癒えない。それに鉄臭い――

 そう思うと途端に右腕が強く痛み始めた。左手で右手を確認する。

 右手がない……。

 男は水溜まりに舌を這わせて芋虫のように地面を這った。すると、顔に何かが当たった。自分の右腕だった。

 身体の力が抜けていく。右腕が痛い。いっそ殺してくれ。

 男が藻掻いていると、――ゴリッとその足元で気色の悪い音がした。

 左脚だ……。

 またゴリッと――

 右脚……。

 もう声は出なかった。

 かわりに心の中で願っていた。

 はやく殺してくれと。

 それに応えるように、洞窟内ではゲラゲラと笑う声が木霊していた。 

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