“蛇蝎”
「忌呪ってなんですか?」
一同が永子の元へ集まると、しおりが開口一番彼女にそう訊ねた。
永子は「あらら?」と鈎を向いた。鈎は口をへの字に肩を竦める。
「なるほど、場所を移しましょうか」
しおり達は永子の後に続き保健室へ移動することにした。
「まんじを見張ってなくてええんか?」
部屋に着くなり鈎が永子に訊ねた。永子は「問題ない」と涼しい目を窓に向け、ベッドに寝かせた伊藤達の胸に順々に触れていく。
「なんや、ちゃんと保健室の先生するんやな」
そう、感心したように鈎が鼻を鳴らすと永子はキョトンとした顔で首を傾げ、にっこりと微笑んだ。
「まさか。面倒だから事が片付くまで眠っててもらうだけよ」
これに鈎は一歩後退り「怖い女」と内心呟いた。
「それよりも毬倉先生、まんじ君について教えてください。忌呪ってなんなんですか」
しおりがキッと白衣を睨む。伊藤達が無事なことは分かっている。だからというわけではないが、今は彼等の事よりもとにかく忌呪について聞きたかった。
永子がよっこいしょと教諭用の机に腰を下ろす。鈎も適当な椅子に着き、ゴブリンは中央の机で胡坐をかいた。しおりだけがその場に立ったままだった。
「で、そうそう忌呪ね。しおりちゃんは輪廻転生ってわかるかしら?」
「生まれ変わることですか」
ちゃんとは知らない。ただなんとなく……生物が死ぬとその魂が別の生物へ生まれ変わるという宗教的な思想であることは本やテレビで見聞きしたことがある。
永子がニコっと笑う。
「正解。生きとし生けるものは必ず何かに生まれ変わる。誰がどこでどうやってそれを行なっているのかは訊かないでね、私も知らないから。まあ多分神様なんでしょう」
「だから何なんです。それが忌呪と、まんじ君とどう関係あるんですか」
「まあ慌てずに聞きなさい。輪廻転生はこの世のものに与えられる権利。死と同じく平等にね。そしてそれは妖とて例外ではない」
「妖……?」
しおりは思わず眉を寄せゴブリンを向いた。
永子はそんな彼女を流し見てから運動場に横たる六郎太へ窓越しに目を向ける。
「そう、人も動物も妖も全てが等しくね。転生とは例えるなら初期化したハードディスクに別のデータを入れ直すようなもの。だから私も、あなたも、ここに居るみんな元は別の何かだった。当然、六郎君もね」
「はあ、それは……わかりました。でもだからなんなんですか? まったく話がみえないです」
「でしょうね。ここまでは輪廻転生の前提だから。でもこれで輪廻転生がどういうことなのか大体は理解した。本題はここから。この世には絶対なんてものはない。必ず間違いは起こる。それは輪廻転生ですら例外ではない」
「間違い……転生出来ない事もあるってことですか?」
「いいえ。でも、思いもしないことは起こるものよ。そう、稀にだけど妖の魂が上手く初期化されずに妖以外のモノへ転生してしまうことがある。神様ですらミスをするってところかしら」
永子はフフと笑い、しおりに向かって右手の人差し指を立てた。
「ではここで問題。神様が六郎君に対して犯したミスはなんでしょう?」
「――神様が……ミスを……――まんじ君に……まさか、それが――」
「そう、忌呪。妖の魂を持って生まれた人間をそう呼ぶの」
「じゃあ――まんじ君が妖の魂を……まんじ君は人ではないってことなんですか……?」
しおりが固唾を飲む。
すると永子は小さく横に首を振った。
「彼は人間よ、正真正銘のね。ただ、魂には初期化されなかった、もしくはしきれなかった妖の情報が刻まれている。それは時としてアプリの……いえ、ウイルスのように彼を侵食する。結果、忌呪というのは物理的、非物理的な概念を無視して人から妖へ変わる」
「それじゃあ油取りを倒したのも」
「ええ。私は現場に居なかったから見てはいないけれど、素の彼が結界内から隠し神を滅殺するなんて無理でしょうし妖の力を使ったんでしょうね」
「私達を助けるために……。まんじ君は今も妖なんですか? 倒れている姿は人にしか見えなった。それに妖になったからといって――」
しおりはゴブリンを見つめた。相棒は妖であり同時に親友でもある。人と妖は分かり合える。たとえ卍六郎太が妖になったとしても、きっと何も変わらない。
しかし、永子からの返答は望んだものとは違った。
「六郎君が行者になるにあたり一番の課題だったのは自身の中にある妖の制御。大変だったけれど、それはクリアした。ただし、制御が出来るのは妖になるか人に戻るかのオンとオフの切り替えのみ。妖の状態の彼に人としての意識は存在しない。当然、卍六郎太としての意識もね。妖となった彼の人としての意識はすべて無意識下に集約され、人間へ戻るための力に注がれる。だから妖の状態の卍六郎太と対話しようなんて考えないことね。そんなことをしても声は届かないし、下手をすれば意識の引っ張り合いのバランスが崩れて人へ戻れなくなる」
「……じゃあ、今まんじ君はどういう状態なんですか。人に戻ろうとしている最中ってことですか?」
「うーん。物理的……肉体的には眠っている状態に近いかしら。精神世界がどうなっているのかは分からない」
「なんでわからんねん。あんた、あいつのパートナーやろ」
鈎が思わず口を挟んだ。
永子は困った顔で宙を見上げた。
「と言われてもね。1に、まず妖となることを会には禁じられている。2に、本人も妖となることは望んでいない。3に、1と2の理由により妖と化したことが殆どない。よって、六郎君が妖から人へ戻る時の傾向を断定するには資料不足。現在、彼の内でなにが起こっているのかは私もよくわからない。ただ、見たところ妖気は醸していない。あなたも分かると思うけど感じるのは霊気のみ。なので一応、人の状態ではあるのでしょう」
「ふーん、人ね。そのわりには近づくなとか、えらい用心のしようやけど」
「それはそうよ。彼はいま妖の意識と綱引きしてるようなものよ。負ければ即座に妖と化すわ。危険危険」
「危険か」と、鈎は訝しむ様に永子を睨める。それから、
「わいも質問なんやけど、あいつはなんの忌呪なんや?」
永子の目が一瞬鋭くなった。
「訊いてどうするの? 油取りは滅び、生徒は救出した。あなたの依頼は達成したわよ」
「まあせやけど、ひとりは助けられてないねん。別にそれを責める気はないけど、まあそういうことや」
双方の間に重苦しい空気が流れる。
しおりはそんな二人を交互に見てから「『何の』ってどういう意味?」とゴブリンに訊ねた。
「ギギギ旦那に転生した魂が何の妖だったかって意味ダ。極端なことヲ言えば今日滅んだ油取りの魂が人に転生して“油取りの忌呪”とナる可能性もあル。兆分の一の確率もナいけどナ」
しおりが成る程と頷くと、それを見計らったかのように永子が口を開いた。
「まあ、想像はついてるんでしょう? 鬼よ」
「わいの思てた候補の一つやわ。けど、ただの鬼とちゃうやろ? あんな炎みたことないで」
「それはそうでしょうね。火氣で生み出す炎とは別物。彼の業火は特別だもの」
「業火やて? 確かに人の状態ならそうやな。けど、鬼化してからのあれは劫火や。いや、あの天を衝く赤い柱に関して言えばもはや炎ですらない。呪怨の刃や。神さんに仇なせる数少ない武器の一つといってもええ。そんなんがただの鬼なわけないやろ」
「ええ、六郎君はただの鬼じゃあない。彼は、赤鬼の忌呪」
「あ、赤――!? 役会正気なんか!!」
掴みかかろうとする鈎の手を永子はがっきりと掴んだ。
「女性に手をあげる男は嫌われちゃうぞ~」
「ちっ」
彼女の手を振り払い鈎は踵をかえす。
「待ってよ鈎君」
しおりにそう呼び止められ、鈎は背を向けたまま声を落として言った。
「ごめんなしおりちゃん。まんじを殺さないかん」
「ころ――どういうこと!? 先生――」
止めるように促すしおりだったが永子は涼しい顔のままだった。
そうして、鈎が部屋を出ようと戸に手を伸ばす。すると次の瞬間、バチッと戸と彼の間に火花が走った。
振り返った鈎がキッと永子を睨んだ。
「やからここに移動したわけか。結界でわい等を閉じ込めたな」
「まあ、あなたは色々と詳しそうだから念のためにね」
鈎が殺気を醸す。
永子はそんな彼のこと平然と眺めていた。
そして――
「いいかげんにして二人とも!」
しおりがバンッ! と机を叩いた。
「鈎君、まんじ君は殺させないし、先生は隠さずに話して下さい」
鈎は後ろ頭を掻き、白衣へ顎をしゃくった。
「あんたが言えや。どんだけヤバいことをしてるかをな」
永子は面倒くさそうに口の端を下げると、徐に宙を向いて言った。
「“暗い海を照らす存在 永劫燃え続け それは火となった されど海は暗かった” 役会に伝わる赤鬼に関する一節よ」
「また謎かけですか?」
しおりはぐっと眉間に皺を寄せた。
それを見て永子はやれやれと息を吐く。
「えーと、世界各地には鬼やそれと同一視される妖が無数にいる。なかには神のような力を持つ存在さえもね。特に赤鬼、青鬼、黒鬼、白鬼、これらの四種は四鬼と呼ばれ、鬼ではなく大鬼に分類される。日本三大妖怪の一角とされる酒呑童子も四鬼だったと云われているわ」
「じゃあさっきの詩はなんなんですか」
「それに関しては完全に私の主観になるけどいいかしら?」
しおりは黙って頷いた。
それを認め、永子は天井を指さした。
「暗い海はおそらく宇宙。そこで燃え続けるものは」
「太陽――」
しおりがぽつりと呟いた。同時に彼女は油取りの世界で見たあの炎の津波を思い出した。
「ええ、おそらく。もちろん赤鬼が=太陽というわけではないでしょうけど、太古からそう例えられるほどの力を有する存在ってことよ」
「せや、やからその力が暴走する前にまんじを殺さなあかんのや」
「でも、まんじ君は力の制御を出来る。人に戻ることも出来るんだよ」
「戻られへんかったらどうする? いや、そもそも赤鬼になる時点でこの世の終わりや。今回は油取りの世界やったからセーフやっただけ。偽りとはいえ神さんの名を冠する油取りが炎を受け止めた。現実の世界に神はおるんか? あの劫火をかわりに受け止めてくれる神は」
「……それでも、今は人の状態なんだよ」
「目は覚ましとらん。そこの姐さんの言う通りなら赤鬼と綱引きしてる状態や。いつ鬼化するかわからへん。恨みたいなら恨んでええよ。地球が燃えてなくなるよりマシや」
しおりはグッとスカートを握った。
「先生は鈎君を止めないんですか……。そこに座ったままで……平気なんですか……」
「え、私? うーん、結界も張ったし学校の敷地には人除けの呪いも施した。他者が六郎君に干渉する術はないわ」
「でも鈎君が」
「ああ、彼? うーん、まずこの結界は私にしか解けないし。仮に解けても彼に六郎君は殺せない」
「なんや、わいもえらい嘗められたもんやな。こんな結界ちゃちゃっと破って殺ったるで。言いたかないけど、まんじのことは気に入っとる。でもそれとこれとは別や」
「あー、違う違う。そういう事じゃなくて、六郎君を殺すってことは赤鬼を殺すってことだからよ。あなたじゃ赤鬼は祓えない」
「はあ? どういう意味や」
「まんまよ。あー、もしかして知らない? 忌呪を殺したらどうなるのか」
「……どうなんねん」
鈎が眉を顰める。
「んー、ケースバイケースかしら。そのまま人として死ぬ場合もあるし、人として死んで妖と化す場合もある。人か妖か――あなたはこのフィフティーフィフティーの賭けにでられるのかしら? つまりね、卍六郎太を殺すには赤鬼を殺せるも者でないと成立しないのよ。それか世界の滅亡を目論む自殺願望増し増しの大悪党か」
「ほんなら、あいつが人として目覚めるのを黙って待っとけってことか? 悪い意味で『もしかしたら』があるかもしれんのに」
永子は困った顔で後ろ頭を搔いた。
「いえ、だからここでこうやって集まってもらってるのよ。六郎君の意識を人として復活させるためにね」
しおりが「え!?」と永子を向く。
「なによ驚いた顔して。君達が喧嘩腰でくるからこちらの話が遠回りになっただけよ。最初からある程度六郎君のことについては話すつもりだった。じゃないと成立しない作戦だもの」
「作戦やと?」
鈎が首を捻る。
「どんな作戦なんですか?」
しおりは永子に詰め寄った。
「えー、至ってシンプル。六郎君の精神世界に入って彼の綱引きをサポートする。もちろん綱引きっていうのはただの比喩よ。向こうで何がどうなっているのかは行ってみなければわからない」
「おいおい待てや。その綱引き中のまんじにちょっかい出すんはあかんのやろ」
「いえ、私が言ったのは妖の状態の彼に“こちら側”から卍六郎太へ訴えかけるような対話を試みても無駄って言ったのよ。六郎君の精神世界へ行き、向こうにいる人としての彼にこちらへ戻ってくるよう促すのは効果があるはず。ただ――」
「問題があるんですか?」
しおりが不安そうに眉を落す。すると鈎がやれやれと頭を振った。
「ここまで聞けば答えなんて待たんでも何となくわかるわ。あいつの精神世界はごっつやばいんやろ?」
「ギギギヤバいなんてモンじゃなイ――無理ダ」
そう声を震わせて言ったのはゴブリンだった。
永子の視線が妖精を向く。
「そういえば君は六郎君の世界へ一度行っていたわね」
「ギ(ああ)」
「ゴブちゃん、どうして無理なの?」
「ギギここまでの話を聞く限リ、旦那の人としての意識は恐らく無意識の領域にあるんだロ? とてもジャないガそこへは辿リ着けなイ。炎ガ邪魔ヲしていル」
「それって油取りの世界で見たような?」
ゴブリンは無言で頷いた。しおりが残念そうに肩を落とす。
すると永子が右手の人差し指を立てて言った。
「だ、け、ど、そこを通り抜けられる人物が一人だけいるのよねぇ」
鈎がぎょっとする。
「わいは無理やで」
「ギギギ(同じく)」
「もーちろん私も無理~」
万歳するみたく両腕を広げた永子がしおりを向いた。
「え……私!?」
「おいおい冗談やろ。しおりちゃんは言うても素人や無理に決まっとる」
「ちっちっち、こっちの世界なら当然無理よ。でもね、精神世界でならいける可能性がある」
「ギギ霊気量カ」
この言葉に鈎はハッとした。
精神世界と物質世界では強さの定義が違う。向こうでは本人の意志の強さがものをいう。そして向こうの世界でそれを構成するのは霊気。つまり霊気の量が多ければ多いほど精神世界では強くなる。とはいえ――
「あかん、しおりちゃん絶対にあかんで。あの炎のなかを進むなんて絶対に無理や自殺行為や」
しかししおりは伏していた顔をゆっくりと持ち上げると意を決したように言った。
「私、やります」
「なっ、しおりちゃ」
「ありがとう鈎君。心配してくれて。でも私はやるよ」
「なんでや! 死ぬかもしれへん……いや間違いなく死ぬ! 怖ないんか」
しおりは一瞬口を横に縛り、それから綻ばせた。
「死ぬのは怖いし嫌だよ。でも、私はまんじ君に助けられてばかりだった。今度は私が助ける番。それに、ここで逃げたらきっと一生後悔する」
真っ直ぐ向いた彼女の瞳に鈎は気圧された。
「まんじが折れるわけやな……。わかった、わいも全力でサポートしたる」
しおりが大きく頷く。するとふと、彼女は手に妙な感覚をおぼえた。人肌のような、どこかで一度触れた覚えのある感触だった。ただそれが何で、どこで触れたものなのか彼女には思い出すことが出来なかった。